第12章 血月の猟犬
テムズ川の湿った濃霧が、刺すような石炭の煙と混ざり合う。冷たくへばりつくアスファルトの路面には、ガス灯の灯りが斑に砕け、揺らめいていた。
アンバーは薄暗い路地裏でよろめき、倒れ込む。空気中に充満する濃厚な血の匂いと下水道の腐臭が混ざり合い、容赦なく鼻腔を突いた。
重い一歩を踏み出すたび、腹の奥底で灼熱の炎が狂ったように燃え上がる。胸を裂くような激痛に、息を吸うことすら叶わない。
「くそっ……龍芊芊の奴……いい腕をしてやがる、くはっ……!」
喉の奥から突如として鉄の味が押し寄せた。
視界が暗転すると同時に、アンバーは激しい吐血とともに黒い血を冷たい鋳鉄の街灯へと撒き散らした。
「ブシュッ……!」
視界がぐにゃりと歪み、強烈な眩暈が襲う。
十指の感覚は氷のように冷たく、もはや自分の体ではないかのようだ。
「魔核が……割れたか? くそっ、あの女……!」
体内を淀みなく巡っていたはずの魔力が、いまや完全に暴走し、制御不能に陥っている。
亀裂の走る魔核の奥底から、ゾッとするような細い破砕音が響く。
ピキリ、ピキリと——まるで死神が無形の槌を振るい、胸腔を静かに叩いているかのように。
その音がもたらす精神的圧迫は、肉体の苦痛以上に彼女を恐怖させた。誰よりも理解していたからだ。これが、取り返しのつかない命の終焉を意味していることを。
(こんな場所で……倒れるわけにはいかない……!)
下唇を血が滲むほど強く噛み締め、正気を保つ。
狂気的なまでの生存本能だけで、弛緩しきった足を強引に前へ動かした。
脳内を支配するのは、ただ一つの執念。
——魔核が完全に粉砕され、意識が潰える前に、傷を抑えられる絶対的な安全地帯を見つけること。
泥に塗れたドブ底だろうと、冷たい壁の隅だろうと構わない。今夜という鬼門さえ乗り越えられれば、それでいい。
——カツン、カツン、カツン。
突如、廃墟の死寂を切り裂く足音が響いた。
落ち着き払った、どこか猫が鼠を追い詰めるような戯れを含んだ皮靴の音。
足音は遠くから徐々に近づき、アンバーの張り詰めた神経を正確に踏みつけていく。まるで、逃げ場所などどこにもないと確信し、追う労力すら惜しんでいるかのように。
直後、背後から磁性を含んだ冷ややかな男の声が幽かに響いた。
「どうしたのかな、子猫ちゃん? 今日は下水道で腐った鼠でも食べて、お腹でも壊したかい?」
低く心地よい声。
だが、語尾に滲む隠しきれない余裕と嘲笑が、一瞬にして周囲の空間を凍りつかせた。
アンバーの背筋が跳ね上がる。
瞳孔が瞬時に針の穴ほどに収縮した。
振り返るまでもない。
首筋を押し潰すような、天地を覆うほどの圧倒的威圧感。無形の大手が、いまにも己の頸椎を易々と噛み砕こうとしている。
厚い雲の隙間から、惨めな月光が僅かに差し込み、男の影を長く引き延ばした。
仕立ての良い特注の黒色制服。
暗金のパイピングが月光を浴びて冷たく気高く輝き、胸元に刻まれた【駆魔公安】最高権力の栄誉章が、息を呑むほどの威厳を放っている。
——駆魔公安・特別行動隊隊長、シリウス。
彼は無様に打ち捨てられたアンバーを見下ろしていた。
顔にはいつもの胡散臭いエレガントな笑みを浮かべ、両目を細い糸のように細めている。その瞳の奥にある本心は窺い知れないが、隙間から漏れ出すのは凍てつくような荒涼と狂気のみ。
アンバーは魔核の裂ける激痛に耐えかね、背中を冷たい赤レンガの壁に押し付けた。
そして、血に染まった唇の端を無理やり釣り上げ、不敵に笑う。
恐れを乞うなど毛頭ない。
負け犬のように尾を振る気などないことを、この狂気に満ちた笑みで示してやる。
「なんだ……公安の駄犬が追いついてきたってわけか?」
ガラガラに涸れた声で失笑を漏らす。
その瞳には死への恐怖など微塵もなく、ただ瀕死の狂火が燃え上がっていた。
「へっ……わざわざお出ましご苦労なことだな、シリウス隊長さんよ。生憎だが、あんたが欲しがってるブツは手元にないぜ。あの実験室の胸糞悪い玩具どもなら、とっくに風に乗ってどこかへ飛んでいっちまったよ」
シリウスの糸目が、極めて微かにピクリと動いた。
完璧な笑みがコンマ数秒固まるが、すぐにその口角はさらに深く歪められる。
「子猫ちゃんは、相変わらず口の減らない子だね」
まるで恋人に囁きかけるような優しさ。
しかしその声には、氷室の底から響くような冷気が宿っていた。彼は長躯を揺らし、ゆっくりとアンバーへと歩み寄る。
黒い手袋に包まれた手が持ち上げられ、その指先には細く、しかし致命的な蒼白の魔力が蠢いていた。まるで死神が暗闇で爪を研ぐように。
「どうやら君は今日、『見捨てられし深淵』で随分と面白いものを見て、知ってはいけない秘密に触れてしまったらしい」
シリウスは、アンバーの僅か一歩手前で足を止めた。
血反吐に塗れた危険なハンターを、見下ろす位置から圧倒的な威圧感で圧迫する。
彼は体をかがめ、彫刻のように美しく完璧な顔を、予告もなくアンバーの至近距離まで近づけた。糸目の笑みを絶やさぬまま、間近で放たれる殺意が恐怖を増幅させる。
そして、呪いのように甘い警告を吐き捨てた。
「——けど、昔からの言い伝えを知らないのかな? 『好奇心は猫を殺す』ってね」
「四の五の抜かすな……殺したきゃ、とっととやりやがれ」
アンバーは金色の残光を宿した猫目を緩やかに閉じた。
ザラついた赤レンガに力なく頭を預け、死の静寂の中で静かにその時を待つ。
抗う力は一滴残らず絞り尽くされ、毒づく気力すら生命の流出とともに消え失せていく。
——それでも、命乞いだけは絶対にしない。一度たりとも。
だが、予想していた致命の一撃は訪れなかった。
シリウスは足を止め、その美しい顔に狂気に満ちた歪んだ愉悦を浮かべた。
細めた糸目の奥から、毒蛇のような陰湿な光を覗かせ、息も絶え絶えなアンバーを嘲笑う。
修長な指で己の顎を撫でながら、今日の夕食の献立でも話すかのような軽いトーンで、恐ろしい言葉を口にした。
「やりやがれ、だって? その前に核心データ(コアデータ)のありかを吐いてもらわないとね、アンバー」
首を少し傾げ、口元を意地悪く歪める。
「さもないと、簡単に死なせてなんてあげないよ。……さて、その綺麗な皮をどうしてくれようか。指を一本ずつ生きたまま引き抜くか、それともその自慢の顔を、この剣で刻んで本当の『ぶち猫』にしてあげようか?」
ふと、面白いことでも思いついたように彼はクスリと笑った。
「おっと失礼、君は元から獣人の顔立ちだったね。……なら、僕が親切に顔を切り刻んであげるのは、むしろ慈悲深い『恵み』と言うべきかな?」
悪意に満ちた嘲笑が、静まり返る路地裏に虚しく響く。
血の匂いが漂う中、シリウスの追い詰めるような心理戦が、この深夜の対峙を肉体と尊厳への苛烈な拷問へと変えていく。
アンバーは猛然と目を見開いた。
金色の瞳に屈服の色は無く、軽蔑と瀕死の狂気が混ざり合った鋭い光が迸る。
内臓の欠片が混ざった血をペッと吐き捨て、喉の奥から絞り出すように尖った声を響かせた。
「ペッ……公安の犬コロなんぞに、喋る舌なんて持ち合わせてねぇよ」
シリウスの貼りついた糸目笑いを睨みつけ、胸を激しく上下させる。
呼吸するたびに数千の刃を呑み込むような激痛が走るが、彼女の言葉は刃となって相手の痛所を正確に突いた。
「殺したいならサッサとやりやがれ、このグダグダうるせぇチワワ野郎が……!」
「……死にたいようだな!」
シリウスのトレードマークだった糸目の笑みが完全に崩壊した。
両目がカッと見開かれ、その奥からドロリとした暴虐と血光が溢れ出す。
もはや言葉を交わす気すらない。
彼の右手が一瞬の狂いもなく腰元へと伸びる。
——ジャキィン——!
森厳な寒気を纏う【駆魔聖剣】が一瞬で抜刀され、月光を反射して冷酷な死の光を放つ。
「安心しろ」
シリウスの声は恐ろしいほど低く、ドスが効いていた。
実体化した殺気の中で、虐殺の快感に歓喜しながら冷徹に告げる。
「手足の一本ずつを丁寧に削ぎ落とし、地下研究所へ引きずり戻してやる。……その汚い臓物ごと解剖して、その忌々しい皮と同じ斑点だらけかどうか、じっくり確かめてやるよ!」
一閃。
閃光が夜を切り裂き、決死の殺意を秘めた刃がアンバーの心臓へと一直線に突き刺さる——。




