第3章 海月精霊は仕掛ける。①
その日。
ナジュムは、港近くの市場に足を運んでいた。
ここしばらく、ピラールは屋敷の奥にこもっている。
不夜祭の計画のため、とは言っているが、どうも元気がない。
迷宮書楼にも、珍しく顔を出していない。住処なのか、と言いたくなるほど、入り浸っていたのに。
あのユスフも、顔がくもりがちだ。
ああ見えて、気を使う所は間違えない。
そのユスフが、口をつぐんでいる。
だから、ナジュムも余計なことはきかない。
……が、気にならないわけではない。
ナジュムの亡き母は、世話焼きで、陽気な港の女だった。
ぼんぼん育ちのろくでなしの父親に引っかかって、ナジュムを未婚のまま、産んで育てた。
だが、ナジュムには、笑っていた母の思い出しかない。
病で亡くなる寸前まで、幼かったナジュムに笑顔を残していった母だった。
それを強い、とナジュムは思う。
そうありたい、と。
アル=アインの女たちは、大抵たくましい。
男たちは、一攫千金を夢見て、博打のように大海に乗り出す。
運を掴む者もいる。
かたや、そのまま帰らなかったりも、珍しくはない。
だから、女たちは男をあてにしない。
自分で稼いで、家族を養う。
――女が強い国は、明るい。
船団を率いて、諸国をまわったラシードの言葉だ。
ピラールも、あれでれっきとしたアル=アインの女だ。
でなければ、海に飛び込むなんて無茶はしない。
なにか、うまいものでも食わせてやれば、元気になるだろう――
そう思うナジュムは、間違いなく、母の子だった。
――市場の店先を覗いていたナジュムの耳に、ふと、不穏なざわめきが届いた。
通りの片隅で、数人の男が集まっている。
小競り合いか、と流しかけたところで、その隙間に小柄な影が見えた。
いくら世話焼きの血筋でも、見かけたもめ事すべてに首をつっこむほど、ナジュムも物好きではない。
だが、このときは、違和感がナジュムの気をひいた。
足音もなく、男たちの背後をとる。
ナジュムの“祝別”は、その俊敏さだ。
物心つく前から、ナジュムの俊敏さは際立っていた。
亡き母の自慢のたねだった。
母亡きあと、ナジュムはアル=ナシーム家にひきとられた。
その目の色から父の子だと認められたのだ。
当の父は、とっくに行方知れずになっていたが。
――放蕩者の庶子など、ひきとられただけありがたい。
ひそひそと囁かれる言葉に、孤児になったナジュムは打ちのめされた。
あのとき、手をさしのべたのは、無邪気なラシードだった。
嬉しくなかったわけではない。
だが、引け目を感じたのも事実だ。
だから、磨いた。生まれつき授けられた“祝別”を。
――あのじいさんには、通じなかったけど、な……。
先日の苦さを思い返した、そのとき。
信じられないものを見つけた。
マントを頭からかぶっている。
それでも隠せない品の良い顔立ちは――
王太孫、その人だった。




