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19 最後の最後で救われた

 長い夢を見ていた気がした。

 妙にふわふわした感覚がある。

 ここは暖かく気持ちがいい。

 ここ? 

 こことは何処のことだろうか。

 自分は誰なのだろうか。  

 駄目だ、分からない。

 頭の中に霞がかかったようだった。


「……郎」


 ふと誰かに呼ばれた気がした。

 とてもとても小さな声で。


「……四郎?」


 まただ。

 今度は前よりはっきりと聞こえた。

 四郎。

 コツンと記憶の底に当たる言葉だ。

 ああ、そうか。

 自分の名前だと気がついた。


「四郎、まだ眠ってるね。ずいぶん疲れているんだね」


 この声。

 覚えている。

 水中でもがくように四郎は必死で頭を働かせた。

 浅い眠りが急速に醒めていく。

 僕の名前は天草時貞四郎だ。

 幕府軍に向かっていって死んだ。

 そしてこの声は、そうだ、

 あの時はっきりと聞き取れなかった声。

 意識が明瞭になった。

 四郎は目を覚ました。

 両眼に最初に映ったのは抜けるような青い空だった。

 そこに不意に割り込んだ者がいた。


「あ」


 間抜けな声を出してしまった。

 けれど仕方がないだろう。

 黒いおかっぱの髪も、赤い着物も、快活な表情もあの頃のままなのだから。

「やっと起きたね」とその子は。

 りんは微笑んだ。


「りん? りんなの? 何で、どうして。ここは何処なんだ?」


「落ち着いて、四郎。あ、でもびっくりするのも無理ないよね」


 りんの穏やかな声に少し落ち着きを取り戻した。

 周囲を見回す。

 白いふわふわした物の上に自分はいた。

 落ち着かないまま左右を見る。

 少し先で足元の白いふわふわしたものが途切れていた。

 背伸びをしてその先を見てみた。

 四郎の目が丸くなった。


「地面が自分達の下にある? あの青い広々とした水は海か? ということはここは空……なのか」


「そうだよ、四郎。あなたは亡くなって霊魂となったの。私達が立つここは雲の上。私はあなたを迎えにきたのよ」


「迎えにって、りんが?」


「そう、私が。久しぶりね、四郎」


 にっこりとりんは笑った。

 その笑みに四郎は懐かしさを覚えた。

 同時に気まずさも覚える。

 どう接していいか分からなかった。

 とりあえず雲の上から下を見てみた。

 海沿いに城がぽつんと立っているのを見つけた。

 ここからだととても小さく見える。

 けれども見覚えのある城だった。


「あれは原城? そうだ、戦はどうなったのか分かる?」


「そうね、あのお城は原城だよ。戦は幕府軍の圧勝。あなたが亡くなった後、攻め落とされてしまった。城に残った信徒達はひとり残らず殉教したみたい」


「ああ……そうか。そうだよね」


 予期してはいた。

 けれど実際に聞くとやはり落胆してしまう。

 奇跡を見せてやるなどと大言壮語を吐いた。

 だが所詮は儚い抵抗に過ぎなかったのだろうか。

 四郎は視線を落とした。

 その手をりんがそっと取った。


「そんな顔しないで、四郎。あなたは精一杯やったよ。皆分かってる。だから笑って」


「笑えないよ。あの日から僕は失敗続きだ。君を蘇らせようとあれこれ工夫してみた。黒魔術も習った。戦死者をかき集めて必要な状況を準備して、でも結局失敗だ。負い目があったからそれを振り払いたかった。だから一人で戦って、けれども」


 その続きを口に出せなかった。

 ああ、そうだ。

 自分の奮戦も小さな一撃にしかならなかった。

 幕府軍という巨象の前には蜂の一差しに過ぎなかった。


「僕は、君に会わせる顔がない」


 四郎の声は小さかった。

 視線が落ちた。

 数瞬の空白の後、りんは四郎に近づいた。

 ふわりと伸ばした両腕で四郎をそっと抱きしめた。


「そんなことない」


 りんが労るように囁いた。

 じんわりと四郎の心に染み渡る。


「そんなことないよ。四郎は頑張ったよ。私知ってるもの。あなたがずっと私に会いたいと思ってくれていたこと。純粋な信仰心じゃなかったとしても、頑張ってたことには変わりないじゃない。ありがとう、四郎」


「……っ、うん、うん」


 いつしか四郎は泣いていた。

 あの日の島原から四郎はずっと一人だった。

 誰にも言えない理由で動いて動いて動き続けてきたから。

 孤独を抱え、心が凍えたままだった。

 だがそれももう過去のことなのかもしれない。

 りんの労りが四郎の心を包み込んでくれている。

 四郎の涙をりんの指が拭った。

 四郎と目を合わせてりんは話しかける。


「それにね、四郎。あなたの行動はちゃんと形になっている」


「え?」


「ほら、耳を澄ませてみて。遠くから聞こえてこない?」


 りんが自分の手を耳に当てた。

 何のことか分からぬまま、四郎も同じようにしてみた。

 微かに何か聞こえたような……けれども微か過ぎて分からない。

 りんが「あ、そうか。四郎はまだ亡くなって間が無いから」と言った。


「霊魂になるとね。特定の音に聴覚が鋭くなるの。聞きたいと思える音に」


「そうなの?」


「うん、だからもう一回試してみて。こっちの方角」


 りんが指差す方を見る。

 海を隔てて島々が見えた。

 天草の方らしい。

 雲の上から見下ろす故郷はとても平和そうに見えた。

 目を閉じる。

 もう一度耳を澄ませた。

 さっきよりはっきりと聞こえた。

 何人かの声が重なっている。

 これはそうだ。

 賛美歌だ。

 コンフラリアが行われているのだろうか。

 大人の歌声も子供の歌声も聞こえてくる。


「聞こえる。賛美歌が聞こえてくる」


「でしょ。四郎達の起こした一揆は鎮圧されちゃった。でもこうして私達の信仰は生きている。これって凄いことじゃないかな」


「うん」


「四郎が最後に奇跡を見せてくれた。だから、皆が信仰を繋いでくれたんだよ。キリスト教の強さを、信仰の強さを信じられるから」


 りんの言葉が。

 四郎の胸に沈んだ。

 そうかもしれないし。

 あるいはそうではないのかもしれない。

 だけどりんの言葉を信じてみようと思った。

 この賛美歌の響きはきっと奇跡のささやかな余韻なのだ。

 だから四郎は素直に笑えた。


「ありがとう、りん」


「いいえ、どういたしまして。それじゃ行こうか。私達もずっとこの世にはいられないし」


「行くって何処へ」


「決まってるじゃない。天国(パライソ)だよ」


天国(パライソ)か。僕でも行けるのかな?」


 ちょっと自信が無かった。

 何せゼズスに疑いを抱いた身だ。

 許してくれるとしても決まりが悪い。

 けれどりんは気にしていないらしい。

「何言ってるのよ」と四郎の手を取る。


「あなたのことを誇りに思うたくさんの信徒がいるの。もちろん私もだよ、四郎」


「そうか。なら自信を持つことにするよ」


 手を繋いだまま、四郎とりんは浮かび上がった。

 天上からは眩い陽光が降り注いでいる。

 その光の柱の中を二人はふわりと翔んでいく。

 一度だけ四郎は振り返った。

 雲の向こうに懐かしい天草の地が見えた。

 有明の海に囲まれた故郷がただ暖かく視界に映った。

ご高読ありがとうございました。

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