五十八折
内大臣の真名は、ソウマと言う。
平穏な日本で暮らしながらも、貺都へ捧げられた妹を思い、毎日のように絵巻を眺めていた。妹が主上の御子を身籠った日には、現世の家族で祝ったほどだ。人柱に立たされた妹は、世界は違えど幸せな家庭を築いていくのだと、その日を境に絵巻を閉じたのだった。
それが数年後、戯れに絵巻を開け、目を疑った。
妹は蠱毒に犯され、声のない悲鳴をあげていた。
ソウマは本殿に祀られた禁書を手に、ひとり貺都へ渡った。
御所へ入るのは簡単だった。
禁書の通りに筆を持ち描けば、日本ではただの落書きだった紙が、呪となった。
紙は容易く結界を通り抜ける。
魔法円を描いた紙を御所へとばし、あとは転移するだけ。紙と筆さえあれば入れると、既にこのときには会得していた。
一発殴ってやろうと乗り込んだ紫宸殿で初めて会った主上は、図体ばかりでかい、ただの子どもだった。周りの大人たちに抑えつけられ、時をとめたまま玉座に座らされていた。
その場で力を知らしめてやると、主上はあろうことか、すがりついてきた。
桜の御息所に、会わせてほしいと。
ふたりを会わせることなど、できる譯がなかった。
手遅れだった。
桜の御息所──妹は、主上に見せられる顔だけを残して、全身を蛇の鱗で覆われていた。夢で蛇に舐られるたびに、鱗が増えるのだと言う。
主上には決して知らせてくれるなと言う、頑なな妹の目が、輝きを取り戻す日は来なかった。
妹は誰も恨むなと、何度も言った。
報復など愚かだと。主上の愛を一心に受けてしまった自分にも責があるのだと、呪いのように繰り返した。
それでもソウマの心は許せなかった。
妹が蛇を恐れ眠れぬ夜に、主上は他の女御を抱き、蠱毒の主はあたたかな布団ですやすやと寝るのだ。
薔薇の壺の女御、カリナの御帳台へ入ったのも、彼女を疑ってのことだった。
カリナは男の侵入を許した自分の首に、小刀を当てていた。
蠱毒は元皇后であるカリナが主犯であると、噂され続けた彼女もまた、眠れぬ夜を過ごしていたのだ。
恋に堕ちてしまえば、身分も過ちもわからなくなると、身をもって知った夜でもあった。
しあわせは短かった。
その年の花宴は、あらゆる不運が重なった。
空間術式を覚えたばかりのミカドが、母に宴を愉しんでもらおうと、桜の壺と春宮の御帳台をつなげてしまった。
そこには、高御座に居るはずの主上が居た。
その機会を逃せば二度と触れられぬと、主上は桜の御息所の身体を暴いてしまった。
どんな姿になっても、生と死がふたりを隔てても、あなたの御魂を愛していると、言葉通りに。
御帳台を飛び出した御息所と行き会ったカヲルは、顔を指差して言った。
──丑寅の、申の刻だって。
その夜、主上の温もりを忘れられぬまま、御息所は眠り込んでしまった。
朝には蛇の鱗が、額までのびていた。
主上にその姿だけは見られたくない、どうか忘れて欲しいと、心底願った。
御息所はカヲルが示した死に痣のとおり、
主上の愛する自らの御魂を糧に、厭魅の呪禁を唱え、怨霊と化した。
後宮という蠱毒を怨む、悪鬼怨霊に。
ソウマはすぐに悟った。
己れが持ち込んだ禁書を使い、妹は怨霊化したのだと。気付いてすぐ、共にあらんと太刀を掴んだ。
未練はあった。
事前に調べ上げていた関係者は斬り捨てることができたが、御息所に蠱毒を盛るよう命じた首謀者だけが、どうしても炙り出せないでいた。
右大臣は周到であった。
御所で最も皇帝を敬い、それでいて権力に疎い男だと、誰の目からもそう映った。
「そっから五年間は、カリナとクウガには悪いことしたなぁって、そればっかり思いながら霞を食ってゴロゴロしてたんだけどさぁ」
墓地の土に膝をつけ、ソウマがごちる。
女御たちは寝静まったが、夜の海は荒んでいた。
「ネコが来たんだよ」
「ネコ?」 ミカドが訊ねる。
「左大臣の、式神のネコさ。鯉の異形が御所に現れたのだが、どうも鱗が鯉に見えない。蛇の鱗に見えるのだと」
処刑場へ集まった人間がみな左大臣へ顔を向けた。
左大臣が言う。
「異形退治に、ミカドがのらりくらりとしているから、式神に調べさせたのだよ。鯉は飼われる魚だ。主人に似るのではないかと思ってね。内大臣に桜の御息所の肌の鱗を描かせてみたら、まったく同じであった」
「妹は四十九日で鎮まり、水神とともに祀られていたはずでしょう? なぜ今になって甦ったのか知りたくて、それで死んでみたんだよね」
さらりと言う。
「そしたらさぁ、びっくり! 蠱毒の主がまさかの右大臣。御所が祀ってる水神の正体こそが、蠱毒の蛇で、共に祀られる妹は、その奴隷だった。
蛇に身体を犯され続けた妹は、怨霊になっても蛇から逃れられないでいたんだ。そりゃあもう、怒り狂ったよねぇ」
「怒りに任せて、右大臣に取り憑かなかったのですか」
「死んでも、嫌だったね! だから、息子に取り憑いてやった。だがこいつはもっとタチが悪い奴だったし、死んでも探すのに苦労したよ」
胸を拳で叩いた。九尾の宮を指している。
「右大臣を張ってふた月か。天狗風の能力で豪族を陥れ、まるで神のような扱いを受けていた。右大臣の娘たちが嫁いだ豪族は、みなこいつの言いなりさ。怒りに震えながら耳打ちしたよ。御所をいっしょに陥落させないかってさ」
「……そして、母上を解き放ったのですね」
「すぐにでも、蛇から引き離してやりたかったからね。出し惜しみさせたくなかった。だが妹が十年積み上げた怨は、生半可なものじゃなかった。あれでも抑えたつもりなんだよ?」
「今ならわかりますよ。牛車で現れたときの母上と、内宴とでは比にならない」
「まあ抑えたことなんて右大臣にも気付かれないほど、御所は混乱したよねぇ。おかげで折姫の力が悪目立ちしてしまった」
御所の大結界が崩れ一夜。
二日目の阿鼻叫喚を愉しみにしていた右大臣は、折姫の御守りを目の前に恐れを成した。すぐに息子を呼び寄せたほどだ。九尾の宮は、内大臣の呪書きの異能を試せると、喜び勇み躍り出た。
「容赦なくない? 自死の呪禁! 慌てて男を惑わす呪禁を重ねたんだけど、わかった? 苦肉の策」
「わかりませんよ。どちらも九尾の宮の仕業だと思っていました」
「カリナにならわかるかなって、頑張って言ったんだけどなぁ。遠回しすぎたか」
舌を出し、戯けてみせる。
ミカドはその真横でならした土に魔法円を描くと、その中心点から刀を抜いた。
「……それで? いつからです。九尾の宮の身体をのっとったのは」
「爆破に紛れて折姫を拐おうとしたとき。寸でのところで折姫がこいつの心臓に浄化の呪符を捺したんだ。そしたらさぁ、笑ったよね。苦しんだのは九尾の宮の御魂で、俺はぽかーんよ。こいつ、生きながらにして俺より罪を重ねすぎてんの。のっとったというか、勝手に伸されたというか」
いざ自由になると、御所へ味方は出来なかった。
右大臣家が長年積み上げてきた杜撰な管理体制を基盤に、叛逆勢が野放し。
加えて、第一に正すべき玉座の心の弱さにソウマは呆れ果てていた。
妹が選んだ依代は、主上の寵妃。
主上はあろうことか御所の管理を放り出し、中宮に付き添った。
すべてを一任されたミカドは折姫に振られ、闇の精霊を喚ぶほど精神を乱す始末。
どこまでも周到な右大臣は、御所の武力を削ごうと近衛を山賊に襲わせたり、中宮に折姫を襲わせたりと、油断ならないというのに。
「その窮地に立たされるのは、いつもカヲルだ。カヲルという大車輪を失えば、御所はたちまち傾くっていうのにさぁ、本人すらもそれに気づかない。務めに実直でいて冷静な判断ができる男。チャラチャラしてなかったら、俺はカヲルを推してたよ?」
思わず褒められて、カヲルはだらしなく笑った。残念ながらその美しい顔に皇帝の品格は一切ない。
「ミカドのこと、期待してたんだけどなぁ。ガッカリだよ。やってることは、猿の真似事。あの頃はもう、一度陥落すべきだと思って、御所は妹に任せて外で立ち回ってた」
陰陽師の時代が終わるのならば、人間たちの統制を整えなければ。だがそれも虚しい時間だった。人数をかき集め、築き上げた戦法も陣形も、鬼や異形と行き会えば、一瞬で無駄となった。
貺都に未来はないと嘆いて振り返れば、御所は花盛り。
桜の御息所は、美しく散っていた。
「まさか龍神をかしずかせるとは、恐れ入ったよ。同時に、野放しにできないとも思った。ミカド、お前は凄く危ない奴だ」
折姫と相思相愛となった後も、ミカドは主上の言いなりだった。操り人形でいることに慣れ、思考も止めていた。
それでは歴史を繰り返すばかり。
右大臣に主上を人柱にと、立案したのはソウマであった。
「それだけじゃない。可愛い子には旅をさせよっていうから促したのにさぁ、お前は脳筋になるばっかり。地図は素晴らしかったよ。でもまさか見方を教えなくちゃならないなんて、ほんとうに呆れた」
荒療治にと、折姫を牛車へ誘い込み凄惨に殺したことにすると、ミカドはあろうことか国を滅ぼそうとした。
「カヲルまで巻き込んで、ほんっとうに呆れた。大好きなオモチャがなくなると、大暴れする甘えんぼうの赤ちゃんだ。あー、こわい。折姫には申し訳ないけど、君には死んでもらって、ミカドを一から立ち直らせるべきだと思った。でもさぁ、面白いよね! 直前にあんなこと思いつくなんて、持つべきものは友よ」
カヲルのことを言っている。
「折姫を死なせないための苦肉の策らしいけど、様変わりしたのは折姫だけじゃない。そうだろ?」
ミカドはうなずくほかなかった。
「実に楽しかった。今日という日を迎えられてよかった」
それまで、ちょこまかと手助けや口添えをしてきたソウマであったが、今日は九尾の宮になりきり、本気を出して御所を襲った。塀を取り囲む一万の兵は自画自賛するほどであった。さてどう出ると眺めていたら、女御の遺体で一網打尽にされ、笑ってしまった。桔梗門に立つミカドを見たときは、密かに拍手を送ったほどだ。
「凄かったよ! いやぁ、おめでとう。一皮剥けるってこういうこと! おじさん感動しちゃった! ──でもね、さっきも言ったけど、及第点には届かない。
ミカドは、妹がお前になぜ、主上になる呪いをかけたか、わかるか?」
ミカドは唇に指を添え、罰が悪そうに言った。
「神をかしずかせるこの能力を、悪用させぬため」
「そうだ。妹は、内から激るその膨大な力が怖かったんだ。玉座につけば国のため、正義のためにその力を振るえる。では、愛を囁けぬ呪いは?」
「私を、父上のようにさせぬため」
「うーん。もっとはっきりとした答えが欲しいなぁ。折姫ならわかる?」
折姫は淡々と言った。
「ミカドが、女を一途に愛さぬように」
「正解! 愛を囁かれ続けた妹は、後宮の妬み嫉みを一身に集め、不幸な末路を辿った。息子が主上になるならば、愛に無頓着であるべきだった。だが愛を囁けぬ呪は、むしろ囁けぬことで愛に固執してしまう結果を招いた。妹の誤算だ」
ソウマは、折姫へ笑いかけた。
「魅力的すぎる君も誤算だね!」
「はい!?」
「君に翻弄されたのはミカドだけじゃない。おじさんもだ。予知を欺く行動力と、ユーモラスな発想力。稲荷神の力を削ごうと闇の精霊を放ったのに、まさか味方にするなんてさ。君には感服したよ」
折姫は、よくわからないが申し訳なくなり、造面をとって頭を垂れた。
ソウマはその素顔につい見惚れた。
傾国の美女とはよく言ったものだ。
美しいだけでなく、強く奔放なのだから為方ない。
「ミカドはもはや折姫なくしては立っていられない。愛を囁かずとも、君がすべてさ。最強にして、とてつもない弱点を抱えた皇帝の誕生だ。妹も慌てただろうね。君に呪いを移すことで、誤算を帳消しにしていった」
「私の、呪い」
「ま、それはおいおいね。それより今は、考えなくてはならないことが山ほどある。これから御所はどうあるべきか──、さあ考えてみて」
ミカドは折姫の腰を抱き、言った。
「夫婦共に支え合い、国を護っていくことを誓います」
「あはは、なんだよそれ。結婚式かよ。お前ってやつはぁ」
力なく笑う。
「ここは、処刑場だよ?」
近衛に引きずられ、右大臣が肩を並べる。
お気に入りの深緋色の袍はボロ切れ、阿吽に顔の皮を剥がされ、見る影もない。
ミカドは書状を読むように、命じた。
「宵明帝二の宮、カヲルは叔父にあたる右大臣の謀叛により族誅。本来ならば絞首刑であるが──、この場で右大臣を斬首することで、減刑とする」
カヲルがミカドへ跪き、両手を掲げる。龍神の刀を手渡され、深く頭を垂れた。
「ご温情に預かり、感謝いたします」
嬉しそうに面をあげる。
右大臣は四肢呪縛の識陣に囚われながら、無様に荒れ狂った。
「貴様ぁ……! この私を師と仰ぎ、身を奉じてきたのではないのか!」
「そうですね。叔父上の教示を受けたことが、私の人生で唯一の汚点となりました」
「そうだ! 私は、お前の叔父だぞ! 散々可愛がってやったのに、迷いなく笑って斬れるとは、もはや鬼だ!」
「なんとでも? 師であろうが叔父上であろうが、ここは貺都──」
右大臣の首に刃身をあてる。
「塵屑を斬るのに、なんの躊躇いがありましょうか」
折姫はミカドの胸に顔をうずめた。
本来、後宮妃が立ち会うものではないが、折姫は次代の改変のため、共に在らねばならなかった。
カヲルは血を袂で拭うと、直ぐに内大臣へ刃を向けた。
ソウマが一寸、ビクつく。
「ねぇ、その刀ってやっぱり、怨霊祓っちゃう系?」
「祓うというより、消滅でしょうか。右大臣は、御魂ごと斬った感覚がありました」
「えー! ちょっとそれはまだ心の準備が」
そう言って、ガクンと首を折るようにして頭を垂れた。
次に面に出たのは──、
「ふ、はは……っ! 動く、動くぞ」
九尾の宮だ。
舌が動くと、言っている。身体を取り戻したら、すぐに唱えると心に決めていたのだ。
厭魅を。
「あはは……! 唱え終わったぞ! 見ていろ、今から折姫は苦しみ泣き喚いて絶命する! 昨年の月見を憶えているか? 真名を船に置き忘れるとは、馬鹿な女だ」
ミカドが九尾の宮の懐を探ると、シワの増えた一枚の紙がみつかった。
「だってさ、折姫。いいよね?」
「はい」
九尾の宮の鼻先で、紙を破り捨てる。
──なぜ、呪禁が効かない。
九尾の宮が見上げれば、幼女と目があった。
「ふん、悪知恵を働かせおって」
ヌシだ。
ミカドは得意げに話した。
「呪い返しの詠唱、折姫だと下手したら噛んじゃうと思って、ヌシの沼の水を飲ませたんだ」
「噛ん、……ちょっと!」
カヲルが吹き出した。見合わせた顔に死に痣が消えていて、次には声をあげて笑った。
「あははははは! 噛んで死んだら、格好つかないもんなぁ!」
「舌ったらずで悪かったわね!」
「でも水を飲んだらって、どういう仕掛けなんだ?」
「沼の水を含んだ折姫へ厭魅を唱えると、ヌシが不快感を抱く」
「それだけ?」 折姫が目を丸くする。
「もちろん、ヌシが抱いた不快感のぶんだけ、呪い返しがあるよ」
それから、識陣のなかで惨憺たる声と光景が続いた。四肢を縛られ動けぬ胴が、ミミズのようにのたうちまわり、キュウキュウと喉を鳴らした。
カヲルがうんざりと言う。
「どうする? 恐らく内大臣は逃げたぞ。このままこいつを斬首すれば、内大臣をみつけられなくなる」
「いいよ。彼、害はなさそうだし。また甘いって言われるかな」
「そうだな。──にしても、耳障りだ」
「ああ。はやく斬ってしまって」
「では、玉座へ身命を賭す誓いの印に」
謀叛、謀大逆の主犯であるふたりの首は、焼却処分されたネズミの山の上に晒された。




