五十六折
桜の壺の帳台は見上げるだけなら無事であったが、なかで寝転べば天蓋の布に穴が空き、そこから月が見えた。
青空に浮かぶ、真っ白な満月が。
── 白い満月。淫らに咲く桜の紋、揺れる桜の花簪にピクリとも動かぬ、か細い指。
まさか、主上の不吉な予知が、初夜の情景だったなんて。
誰かに言及されたらどうしよう!
思い出すだけで恥ずかしい。
そこまで考えて、折姫は冷静になった。
すぐに気絶したため、思い出せるほど記憶に残っていない。
「どのくらい寝てたのかな」
目覚めがスッキリとしているので焦燥とするも、空はまだ真っ青を保っている。横たえたまま胸を撫で下ろすと、喉の渇きを覚え、ゆっくりと身体を起こした。そちらもまったく記憶にないが、真新しい単衣に袖を通している。紐の蝶々結びが几帳面で、思わずクスリと笑ってしまった。
折姫は射し込む光の筋を辿るように、帳台を下りた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
ミカドは庇のない強い陽射しのなかで、半裸のまま胡座をかいていた。紫宸殿から持ち込んできた地図をひろげ、ときおり唇に指を添えては、聞き慣れない呪を唱えている。
邪魔をしないようにとそれ以上は声をかけずに、昨夜飲んでいた水差しを探すと、ミカドの手もとに置かれていた。
隣に腰を据えると、杯が満たされている。
「それを飲んだら、湯浴みへ行っておいで」
「はい。いただきます」
喉を鳴らして飲んだ。
水が山の湧き水のように冷たく、刺々しい。
「このお水──」
「ヌシの沼の水だよ」
折姫は干した杯を見詰めながら考えた。
ひとりで湯浴みをして、手首に呪禁が表れ自ら溺れ死んだりしないだろうか。
ミカドは心を読んだように言った。
「自死の呪禁ならば、解けたよ」
「え? 解けた?」
「こうして手を合わせて、同じ速さの脈を刻む。それだけで自然と解ける仕組みだったんだ」
左手首を合わせて、指を絡ませる。
「無理をさせてしまった。……身体は、平気?」
「はい」
「不安ならば、いっしょに入ろうか」
ぶんぶん首を横にふったが、選択肢を与えられた譯ではなかった。手を引かれるがまま湯殿へ向かうと、かたく結ばれた蝶々結びをあっさりほどかれてしまった。
ミカドの性教育はコウノトリで終わってた、なんてカヲルは呆れて言っていたが、折姫は絶対にそんなことはないと思う。
「びっくりするくらい手慣れてるもん」
「背中ばかり見せていないで、こっちを向いて」
「ひゃっ!」
「このふたつの蛇は、一体どんな呪を秘めているのか。……結局、わからずじまいか」
背中に指が這う。
蛇の痣は自分では見えないし、効果もわからない。
大祓から二日、目まぐるしくも長い日々のなか、今の今まで忘れていた。
必死で言葉をひねりだす。
「あの、これ以上は、のぼせてしまいます」
「今日だけだから」
「今日、だけ……?」
噴火しそうだった血の気が嘘のようにひいていく。
「思い違いしないで。あなたに無理をさせるのは、今日だけ。もう二度と、あなたの許しなしでは触れないよ」
「そんな、私の許しなんて」
「いらない?」
肯定するように顔を赤らめたが、ミカドは悲しげに笑んだだけだった。
「さあ、折姫には折り紙を折ってもらわなくては。日暮れまで忙しいぞ」
そう言うと折姫を抱き上げ、濡れたまま湯殿をでた。式神のネコが床を拭きながら一斉に集まってくる。
女房の格好をしたネコが前に出た。
「言われた通りの御衣裳をお持ちしましたが、ほんとうによろしいので?」
「ああ。着せてあげて」
そう言うとミカドはまた自分だけ下衣を履いて、地図の上へ胡座をかいた。
ネコ十匹がかりで着付けられた衣裳は、いつもの唐衣裳ではない。桜柄の上衣は腰までと短く、白妙の袴は足首で絞られ、動きやすい。
「これは?」
「狩衣だよ。御髪も邪魔にならぬよう、結ってみて」
ミカドは地図に目を落としたまま言った。
命じられたネコたちは折姫を強引に寝かせると、念入りに洗髪した。扇子で髪を乾かすあいだに化粧をほどこされ、髪を結うのにまたどこからかネコがやってくる。すべてを終え、満足げに手を叩くネコは最終的に三十匹に増え、ミカドからはまったく見えなくなっていた。
「終わった?」
心なしかミカドの声が遠い。
ネコたちは、にゃあにゃあ頷いた。
「はい!」
「それはもう、上出来で!」
「ありがとう。助かったよ、あとでご褒美があるから」
喜び合うネコたちが、ミカドの一拍の拍手で消える。
幕が開いたようにして現れた折姫に、ミカドは息をのんだ。
「ど、どうでしょう」
「どうっ、て──。参ったな、今頭のなかで計算していた数式が、ぜんぶとんでしまった」
くるりと回ってみせた衣裳は女狩衣といって、ミカドが密かに仕立てていたものだ。いつか自身が帝になったら、御所の外の世界を見せてあげようと、そのときのためにあつらえていた。
旅は身軽にと、股を開いて騎馬もできる。
御髪は高めに総髪され、頂きに桜の簪を。背中をしだれる髪は水引をいくつか結び合わせて、巫女らしい髪型にされていた。
どのネコの機転か、顔まわりにびんそぎを入れられている。既婚の証だ。
それだけで、女になったのだと物語らせるほど、折姫は艶やかな面差しをしていた。
ミカドは頭をかきむしり、立ち上がると、観念したように折姫を抱きしめた。
「綺麗だよ。あなたは、私の心を掻き乱してばかりだ」
甘い言葉はそれを最後に、ミカドが折姫へ手渡したのは折り紙の分厚い束。それも一片が肩幅ほどある大きな折り紙だ。
「四角い箱を折ってくれる」
「箱、ですか」
「いっしょに折りながら話そう。あなたと共に闘おうと覚悟を決めたら、驚くほどいい案が思いついたんだ!」
子どもみたいに、あどけなく笑う。
ミカドの戦略は、呆れるほど大胆なものだった。壮大でいて細やか。それこそ彼にしか思いつかない手法だ。
要点を話し終えると、ふたりは息継ぎ以外、沈黙がないほど語り合った。すれ違った日々を埋めるように、それこそ他愛もない話しばかり。戦略などまったく関係なく、はたから見れば下らないであろう無駄な時間。けれど、途方もなく幸せな時間。
明るい陽だまりのなかで。
はじめて出逢った日の、初夜をやり直すように。
梅壺で寝汚くしていた娘を迎え、紫宸殿へ上がった左大臣は、西の空へ沈み行く陽を見て、唸りを上げた。
「夜が始まる。ミカドと折姫は一体、どこへ消えた」
地図のない広い板間に立つカヲルもまた、焦燥感を隠しきれずにいた。懐に入れていた御守りを手で握りしめ、一の君へ語りかける。
「この効力がなくなれば、君の力に頼ることになる。まずは闇の精霊を──」
「ふあぁ、それなら」
折姫の力が消えてなくなれば、恐らく最も忙しくなるであろう一の君であるが、緊張感なく、扇子の奥であくびをこぼした。そのそばに黒い人型がどこにもない。
「父上──左大臣様と入れ違いで、折姫様がいらっしゃって連れて行きましたよ」
「折姫が、連れて行った?」
辺りを見回す。
隅にやっていたシオンの苗木もなくなっている。
一の君が二度、あくびをしながら言った。
「残念ながら私にお役目はございません。非常時に備えて、紫宸殿で待機です」
「では──」
「もう夕暮れですよ? おふたりに任せてから半日経っているんです。それなのに、御守りの効力がなくならないということは、そういうことです」
「……そうか。そうだよな」
そう力なく言い、手のなかの御守りを見詰める。
「そんな……!」
カヲルの背後手で中将がガックリと項垂れる。
「無垢で天真爛漫な、折姫様が……!」
「いやそこは、喜んでやれよ」
「わたくしたちの、永遠の巫女が」
「一の君までなに!? 泣きたいのは俺なんだけど!」
三人が言い合っていると、板間に青白い魔法円が浮かび上がった。
地図ごとミカドが現れる。
「愉しそうなところ悪いが、もう少し気を引き締めなさい」
「ミカドォ、遅えよ! 折姫は!」
「配置についている」
「配置?」
「気を緩めるな。地図に映る軍勢は二里離れているが、恐らく天狗風をあやつり、不意打ちをついて一気に攻め込むつもりだ」
折り紙の効力のなくなるであろう夜に。
陽は既に山の端に半分、隠れている。
「左大臣と一の君はここで、私の指示に従いなさい。カヲルは中将と共に、上空から様子を探ってくれ。敵兵が奇妙な戦術を使うようなら、すぐに知らせを」
「え? それだけ?」
「混乱のなか、内大臣は姑息な手を使って忍び込んでくるだろうが、それでいい。奴の目当ては梅壺に居る中宮と薔薇の壺の女御。北池でその影をみつけたら、矢で印をつけるんだ」
「怨霊呪縛の印ですか」
中将が訊ねると、ミカドは深く頷いた。
「付け焼き刃であろうが、すぐに私も向かう。暴れるようなら、四肢を切れ」
「殺すな、と」
「内大臣だけではない。依代である九尾の君からも、強い念を感じる。ふたりを糧にして、どちらも怨霊化されては厄介だ」
「ならば、朱雀をかりるぞ」
「彼女もそれを望んでいる」
魔法円から炎をまとった大鳥が浮かび上がる。
雌の朱雀はカヲルに首筋をなでられ、嬉しそうに目を細めた。
カヲルは最後にと、ミカドへ問うた。
「ほんとうに、いいのか?」
命のままにふたりが空へ消えれば、御所唯一の軍力となる近衛の統制が取れない。
ミカドは地図に自身の血を滴らせながら、ニタリと笑った。
「ああ。人間の無力さを、思い知らせてやる」
カヲルと中将は顔を見合わせ、身震いをした。そそくさと朱雀の背にまたがると、また円のなかへと沈んでいった。
逢魔どきにふさわしい、日夜の狭間の空を駆ける。朱雀の羽根から落ちる火の粉を灯火に、カヲルは人気のない城下の街を見下ろした。
街の人間は既に払っている。式神に御用邸や謀叛人の別邸を開けさせ、避難させたのは左大臣だ。
カヲルは背後に立つ中将へ語りかけた。
「道が入り組み、見通しの悪い街から堂々とやってくると思うか」
「桔梗門の開門を目的に、少人数でも兵は集くでしょう。開門と同時に御所の結界が崩れれば、どこからでも入れます。そうなると、敵の拠点は北の高台になるかと」
「やはり墓地か。あの広さならば、五千の兵をまるごと移せるし、見晴らしもいい」
旋回し、海沿いを向かう。
だが敵も馬鹿じゃない。そうもわかりやすく現れるだろうか。
朱雀は陽の沈みきった水平線を目端に高台を目指した。陽が残していった薄明かりも消えていく。
「……折姫はミカドに抱かれても、力を宿したままだ。お前のように」
「はい」
「だが、夜は? お前の矢が二本から三本へ増えたように、折姫もまた夜に力が使えるようになるのか? もしちがったら? 俺たち悠長に飛んでいるままでいいのか? 待てよ。あいつそもそも、ちゃんと──」
「うるさい、女々しい、かっこ悪い」
「ひどい!」
「信じましょう。おふたりを」
「お前は、かっこいいな」
薄明かりが波にのまれていく。
「夜が来るぞ──」
天と地の灯りが入れ替わる。
天は陽から月へ。
地の灯りは御所のかがり火だけとなった。
街や森は闇に染まり、道ひとつ辿れない。
ただ、北の高台でひとつ、ちいさな灯火が揺れていた。
「……桜?」
季節外れの桜が咲いている。
カヲルの目に映った灯りは、枝にかけられた灯籠で、辺りを桜色に染めていた。
桜の木の下で、いっそう艶やかに咲く花が一輪──。
女だ。
中将のような狩衣姿に、五芒星が描かれた造面をつけ、扇子を片手に立っている。
「女陰陽師……? 中将、心当たりは」
「造面でよくわかりません」
鬼神の面を外してまで凝視する。
「私のように、身分を隠して育てられていた忍びでしょうか」
「聞いたことがないが、それはお前もだ。あり得ないことではないな」
「待ってください! ……あの、あの扇は!」
女が扇子をやおらに開くと、灯籠の灯りが反射し、持ち手が金色に輝いた。開ききった扇子のなかでも桜が咲いており、その下ではネコがたくさん、踊っている。
女は扇子を見て、かすかに笑んだようだった。
「お、お、……お、折姫様です!」
朱雀の大きな眼が丸くなり、階段を踏み間違えたように下降した。
カヲルは危うく滑り落ちるところだった。
「お、おいおい、そりゃあない。敵の標的である折姫が、御所の外、それも拠点となり得る墓地にいる譯が」
「長、長! 見てください!」
女に気を取られている間に、そこここでつむじ風が起こる。
つむじ風の威力は甚大であり、森の木々をなぎ倒し、街の家屋を壊し、足の踏み場をならしていった。
「まさか今から拠点を作るつもりか。規模にして五町。……待て、高台は!」
桜のそばまでつむじ風が来ていたが、女と同じ上背の少年が片手で切り払い、消した。
シオンだ。
シオンはいつもの藍色ではなく、女と同じ桜色の褐衣に身を包んでいる。
満足げに手についた木枝や葉を払い、女を抱き上げると桜の枝に登らせ、シオンもまた同じ枝の上へあがった。
「あれはもう、完全に折姫様ですね」
「そりゃあ、ないって──────!」
今一度、全体を見回せば更地になった御所のまわりを囲う歩兵。風とともに現れた敵軍は壮観なり、総勢一万にふくれあがっていた。桜の木のすぐそばにも、刀を持った野蛮な男たちが並んでいる。
豪族の大将か、二名ほど旗を掲げる人間が東西に立つが、奥に位置する北の兵は合図を待たずに動きだしていた。
折姫の存在に気づいたのだ。
その出立ちは面妖であるが、貴族の首をとれば手柄になる。
カヲルはすぐにミカドへ知らせの矢を射らせた。
「長! 返事がきました!」
「なんだって!」
「そう。だ、そうです! そのまま折姫様を見守りながら、梅壺を見張れと!」
「そう!?」
「……ああ! 見ていられない!」
中将は面を被り直した。
そうこうしている間に、下衆な男たちが吸い寄せられるように、桜の木へ集く。ひとりの男が木に手をかけたときだった。
折姫が開いた扇子を地と平行に傾けると、その上に黒い人型がのった。
闇の精霊だ。
闇の精霊は扇子の山から山へ飛び移り、踊ってみせた。
「これは、中将。──見ないほうがいい」
墓地のやわらかな土が盛り上がり、女のしなやかな手が突き出た。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数えきれぬほどの白い手が、春の若竹のように宙をなで、のびていく。
男たちが恐怖に戦慄き足踏みをしている間に、女御たちは水からあがる人魚のように艶かしく、土から這い出た。
桜の木を見やれば、木に手をかけていた男が女御に足をつかまれ、悲鳴をあげている。振り解こうと宙を蹴れば運悪く、女御の頭を踏んでしまった。
──ずるり。
御髪が抜ける。頭蓋骨があらわになった女御は、羞恥に悶え金切り声をあげた。
上空まで振動が届き、朱雀の羽根が音を刻み逆立つ。
男の耳から、静かに血が伝った。
いや顔の、穴という穴から血が噴き出て、男は卒倒した。
倒れたのは、男だけではない。
木を囲っていた約二十人の兵すべてが血を吹き出し、膝から崩れ落ちた。
その様子を見ていた歩兵達は女御たちから離れようと、一心不乱に逃げ出す。
まるで子どもに踏みつけられたアリの行列のようだ。
では折姫はと、桜の木の上を見ると、シオンに抱きつき震えている。口をおさえ、今にも吐きそうな様子だ。
「あ、飲み込んだ。ありゃあ、折姫だな」
「はい。紛うことなき、折姫様です」
朱雀は折姫を鼓舞するように咆哮を上げ、夜空を華やかに彩った。




