五十三折
典薬寮を往復している暇はない。
そう踏んだヒコはカリナへ治癒を申しつけた。
カリナはそこらの医師よりずっと治癒に長けていたが、ヒコの身体に治癒符を貼り付けながら、溜め息をこぼした。もう何百回も。
「はああー、どうしよう、ミカドを怒らせちゃったああ、はああー首よ首、吊るし首よ」
「うるさくてかなわん。そこの童、お前のほうが具合がよさそうだ。こちらに来い」
「はい」
ヒコはカリナを尻尾で追い払うと、クウガを近くへ呼び寄せた。
「いいか。母上の護符を真似て描け」
「はい」
クウガは筆を持たされると、護符を見もせずに描き上げた。
「うん……? お前、これでは母上とまったく同じではないか
「はい。同じにしました」
満足げに、にこにこと笑う。
筆圧から癖、ならびに効能まですべて同じ。真似事ではなく、そのものだ。
ヒコは試しに提案してみた。
「では、これより効き目を高くできるか」
「はい。どの程度まで」
「どの程度? ……完治だ」
闇の精霊の傷跡は瘴気が染みつき、外からでは治しにくい。三日は貼っておかねばと、ヒコは腹をくくっていた。
クウガは少し考えるように天井を見上げると、また「はい」と潔い返事をして筆を流していった。
「それでは、こちらを」
「ああ、ありがとう」
見た目は同じだ。
だが腹に治癒符を貼られた瞬間、ヒコは自身を疑った。
紙から墨が消えたのだ。
次には腹のなかが燃えるように熱くなり、それを冷ますように深く息をすると、
「おお? おお!」
すっかり治っていた。
クウガはすでに胸を張っている。
「すごいでしょう!」
「すごい! すごいぞ!」
ミカドが深傷を負ったときに知り得なかったことが悔やまれるほどだ。
褒めるように頬を舐ると、クウガはくすぐったそうに笑った。
「いやはや驚いた。クウガといったか、感謝しよう。これはまた、面白い人間をみつけてしまった」
成長が楽しみだと、笑い合っていると、その様子をぼんやりと見ていたカリナが立ち上がった。
「──そうよ! クウガだわ! どうして今まで気づかなかったのかしら!」
「どうした、薔薇の壺の女御よ」
また面倒を起こすのではと、ねめつける。
「あの人、カリナはわかるかなって。ほんとうに、その通り。クウガのことだったのよ! ヒコ様、クウガの筆で折姫の手首の呪禁、消せるのではないですか!?」
「男を惑わす呪禁か。クウガの呪書きの異能、……ふむ。しかし幼いからといって、呪禁を直視できるか」
「クウガは折姫と毎晩いっしょに寝ていましたし、湯浴みもしています」
「なるほど。これも運命か。試してみる価値はありそうだな」
「よっしゃあ────! ヒコ様、空いている局をお借りしても」
「ああ、なるべく奥でな」
「少し強めの香を焚きますが、ご勘弁くださいまし。よし、クウガ! 折姫を呼んできて」
「なにをするの?」
「折姫の手首の痣を、消すのよ! あんたの力で!」
「私の……?」
「そう! やるわよ──────!」
ミカドの言葉通り保身のためだ。
それがどうした。息子の首が飛ばないなら、なんだってやってみせると、カリナは拳を握った。
その意気やよし、クウガもまたワクワクと胸を躍らせ、折姫を迎えに行った。
クウガに手を引かれ、出居から遠く離れた局へ連れてこられた折姫は、あまりの匂いのキツさに咳き込んだ。
「げほごほ、こんなに焚かなくてもよいのでは!?」
「あんたの匂いはこれ以上なのよ! 我慢させる代わりにミカドの香に似せてるでしょう?」
「桜の香木の香りですか。わかりません」
すでに鼻が麻痺している。
くしゃみひとつ、手首の包帯をほどいていった。
局の外では見張りにシオリとキリヤがいるが、はやくもキリヤがソワソワとし始めている。
「アスナ、今なにしてるかな……」
ボソリ、ついた言葉にシオリが反応した。
「あら、我が家の愛しい長女になんのよう?」
「は! い、いや、その。ご無事か心配で」
「そうね。きっと白百合殿で寂しくしているわね」
もう丸一日、我が子を抱いていない。
信頼のおける乳母に任せてはいるが、シオリもまた不安を抱き始めた。自分だけではない、父上の帰りも待っていることだろう。
「あの人、大丈夫かしら……」
涙を誘うのは、きっと折姫の呪禁のせいだ。
几帳を引っ張り、なかの人間を急かした。
「見張りが急いで、だって」
なかの人間、カリナがクウガを急かす。
クウガは一度筆を置くと、深くひと息吐いた。
「母上。そうは言っても、少しでも間違えれば時間も紙も無駄になります」
護符のときとは違い、クウガは折姫の手首の紋様を目で何度も確かめ、慎重に描き写していた。
すでに腕が疲れてきた折姫が言う。
「もういいよ、クウガ。こんなことしたって意味ないし。どうせ離縁されるし」
「それなんの冗談?」
鼻で笑い、クウガは再び筆を取った。
「どんなに喧嘩したって、すぐに仲直りしてるじゃない。ねぇ、母上」
「そうよぅ、呪禁が解けたら、折姫から抱きつく! それだけでめでたしめでたし!」
「国を担う夫婦になれないって、言われたのに?」
「聞いてたのね!」
ミカドの言葉を背中でしっかり受け止めていた折姫は、捨てネコならぬ捨て鉢である。あの綺麗な顔が悔しがるところを見たい。どうにかして妙案を生み出そうと、折っていた折り紙に埋もれていたところを連れてこられたのだった。
「ミカド様の言う通り、私にはなーんにも思い浮かびませんー!」
「あんたはもう充分、考えてきたじゃない」
どれほど御所の平穏に貢献してきたか。命を投げ打ってきたか。
それはミカドが一番に知っているはずだ。
「ミカドはね、もうあんたに頼りたくないのよ。あんたに頼ってばかりで、自分の不甲斐なさに苛ついてるだけ」
「だからって、私から折り紙をとったら、なにが残るんですか!」
「その身体ひとつあればいいと思うけど」
「この身体が? 呪禁ありきの私が呪禁をなくしたら、あまりの魅力のなさに百年の恋も醒めますね」
「だからその自信のなさはなんなの? だんだん腹が立ってきたわ」
「誰にも見向きされないから大丈夫! って小銭つかませ御所を追い出されてしまうかも」
「あー、もう! やめなさい! 言霊になってしまうわよ」
「それより動かないでよ。もう少しだから」
ふたりがなんだかんだ言い合っているうちに、クウガはひとり佳境に入っていた。
「やだクウガちゃん、為事できる! 男のなかの男!」
「母上は少しは静かにして」
七歳の息子に嗜められる母カリナを憐憫と見据える。
心の準備にと、折姫はクウガへ訊ねた。
「呪禁をつけられたとき、火傷みたいに熱くなったの。また同じようになる?」
「呪禁同士ピッタリと合わされば、その効果を傷ごと癒すように念をこめたんだ。だから痛くはないと思う。うまくいくといいんだけど……、よし! できた! 母上おねがい」
「よしきた。朝から酒抜いといてよかったわ」
クウガの描いた呪禁を折姫の手首へ寄せる。
「カリナ様、手が震えてますけど」
「お酒は抜いてきたってば」
「お酒が足りないのでは」
はっ、と我に返る。
必死で酒を探すカリナを見て、ミカドの未来を案じた。目の前の女のように、アルコール中毒になる前にやめさせなければ。
「いや、また喧嘩になるから、やんわりと一の君に伝えておこう」
「貼れたよ。剥がしていい?」
「どうぞ。え? え!?」
ちいさい子どもに注射を射つみたいに終わっていた。実際、施術しているのは子どもで、立場はまるで逆である。
酒を飲めず残念そうなカリナが覗き込む。
「どう? 治った?」
「それが……。母上、これ」
申し訳なさそうにクウガが紙を剥がすと、カリナは立ち上がることを忘れ這って几帳をくぐり、キリヤの袖を掴んだ。
「ミカドを呼び戻して……! 今すぐ!」
キリヤの焦燥とした様子に急かされ、梅壺へ戻ったミカドは異様な香の強さに眉を寄せた。またカリナが事をややこしくしたかと疑えば案の定、連れてこられた局で、額を板間につけていた。
「申し訳ございません……! すべては、私ひとりの独断でございます」
「今度は何事ですか」
「心から、お詫び申し上げます。ですので、どうかクウガだけは……!」
「クウガ? 謝っているだけでは何もわからない」
カリナの背後を見渡す。
そこでは、折姫が熱心に折り紙を折っているだけだ。見慣れたその情景に違和感はひとつとてない。ただ、中宮のシオリが折り上がった折り紙を破ったり潰したり、執拗に邪魔をしていた。まるで戯れごとだ。
ミカドは深く溜め息を吐いた。
「中宮様、あなたは簡潔に説明できますか」
シオリは目を板間に泳がせながら言った。
「折姫の手首の呪禁が解けたの」
「あの紋様が?」
耳を疑った。丸一年、呪符を貼ろうが禊で身を浄めようが、輪郭すら消えなかった火傷だ。
「クウガの異能で、消えたの。でもまた新しい呪禁が浮かび上がってきて」
シオリの目から涙がこぼれ落ちる。
「全然、気づけなかった。私たち毎日いっしょに、湯浴みをしていたのに」
悔しさを圧し殺すように手のなかの折り紙を握りつぶす。それ以上は話せまいと、ミカドはまた局を見渡した。
「クウガは」
折姫が壁となり気づかなかったが、クウガは板に貼り付き、一心不乱に筆を走らせていた。ぽたぽたと汗を滴らせ、ぶつぶつとひとりごとをつぶやく。
「だめだ、これでは消えない。どうして」
床に散らばる紙には、見たことのない紋様が描かれている。
「クウガ、クウガ!」
「はっ、み、ミカド様」
「そんなに必死に、なにを描いている」
「なにって、折姫様の手首の紋様を──、あれ、紋様は? 紋様が、ない!」
クウガは折姫の袖をまくり、腕にすがるように顔を近づけた。その白い肌には火傷が見当たらない。
「ほんとうに呪禁が、消えている」
「違うんだ、あったんださっきまで! ううん、最初の呪禁はすぐ消えたんだ、でもまた新しいのが出てきて、消えなくて」
「わかった、わかったから」
折姫の顔を覗き込む。
手もとに視線を落としたまま、されど夫の存在を意識したような面持ちだ。先ほど会った折姫となにも変わらない。
「それで、新しい呪禁ってなに。見たところ、なにもないけど?」
本人に問うが、唇は結ばれたまま動く気配すらない。代わりにカリナが、他人事みたいに言った。
「自死の呪禁、ですって」
ミカドは一瞬、足がすくんだ。
なるほど折姫が折っているのは、蓮の花の花びら。十六片からなるその花を胸に当てれば、楽に命を終えられる。
ミカドは床に咲く花びらを蹴散らすと、両手で折姫の頬を包み、自身の顔へ寄せた。
「自死、だと」
「え? あはは、やだなぁ。ミカド様ったら、私が死ぬわけないじゃないですか」
「は?」
「は、離してください。ほんの冗談ですから。ねぇ」
みな耳を疑うように、呆気にとられた顔をした。
ミカドは違う。
「冗談……? 一刻も無駄にできない、この状況下に冗談とはなんだ!」
敵は襲撃前に闇の精霊を使い、稲荷神を陥れようとまでしてきたのだ。今まで以上の対策を練り迎え討たねばならないというのに、冗談で呼び戻すとは勘弁ならない。
「御所の塀は低い。攻め込まれればひとたまりもないのだよ。みな、恐怖に打ち震えているというのにあなた達は、こうして笑って、私の邪魔ばかりして……!」
折姫の手首を改めて見据える。見事になにもない。
「呪禁が消えてよかったね。だが今じゃないだろ? 私が今、何よりも欲しいものは、あなたじゃない。御所を護る手立てだ」
「当然、存じております」
心に響かない声音。
何よりそのあどけない笑みが、腹に据えかねた。
「もう顔も見たくない。二度と、私を呼ぶなよ」
しん、と静まる。
ミカドは真っ直ぐに出居へ向かった。満月の手前、梅壺の出居の蔀戸から紫宸殿へ抜けられる。
「満月──」
満月の日に、不吉な予知があった気がする。ただ今は怒りおさまらず、思い出せない。
すやすやと寝息をたてるヒコを一瞥し、蔀戸に手をかけたが。
「待って……!」
クウガが、小猿のように袴の裾にしがみついた。
「お願い、行かないで! 折姫様のそばにいて!」
「……子どもを寄越すとは、達の悪い」
「違う! 違うんだ! あれからまたすぐに呪禁が表れて──」
「もう愛想が尽きたよ。そう伝えて」
裾の重みが離れる。
「ほんとうに……?」
クウガの目から大粒の涙がこぼれた。
「ほんとうに折姫様のこと、嫌いになっちゃったの」
見ていられず、背を向ける。今度はその背中にキリヤが被さった。
「今度はお前か!」
「私だって、こんなこと信じたくないです。でも、お願い。折姫様、このままじゃ、ほんとうに、死んじゃう……!」
キリヤのすすり泣く声に、ヒコが目を覚ました。
「うたた寝もできんな」
ヒコはやおらに立ち上がると、キリヤの脇に鼻をうずめた。吐き出すように、ミカドの足もとへ落とす。キツネの折り紙だ。
「顔を合わせたくないなら、盗み見ろと」
「起きたばかりで、私にもようわからん。だが急いだほうがよさそうだ」
神が言うならばそうなのだろう。
泣きじゃくるクウガを膝にのせると、その場に腰を据え、目を閉じた。
局へキツネの焦点を合わせる。
情景は変わらない。
ただ折姫が、折り紙を折っている。
その様子をカリナとシオリがふたり、肩を並べて眺めているが、こちらも変わらずお喋りがとまらない。
「とにかくひとりにしないように努めましょう。そうね、ふた刻ずつ交代制で見守るの」
「では先に私が」
「馬鹿ね。あんたは一度、白百合殿へ戻りなさい。子どもたちが心配よ」
「でもこのまま、折姫を放って行けない」
「だから交代するんでしょう。昨夜だって、主上を探しにひと晩じゅううろついて、ちっとも寝てないじゃない。休まないと、身がもたないわ」
ふたりとも表情が険しい。
反して、折姫はにこやかにふたりへ声をかけた。
「そうですよ。おふたりとも、しっかり休まないと。カリナ様だって、女御様たちから助言をもらおうと、昨夜はずっと神間にこもっていらっしゃったじゃないですか」
「そうだわ! ヒコ様を助けられたのは女御様たちのおかげ。お供えに行かなくちゃ」
「ここに来る前に、お揚げさんをお供えしておきましたよ」
「さっすが折姫! やっるう!」
「いえーい!」
手を合わせようとふたりは手をのばしたが、折姫は手をすれ違わせた。折姫の手はふたりの胸へ届き、その手のなかには、
菊の花。
「あんた、まさか……」
「だめよ! 絶対だめ!」
折姫は喜びを噛みしめるように笑った。
「カリナ様とシオリちゃん、どうぞ朝まで安らかにお眠りください」
力なく横たえる。
折り重なるふたりを横並びに寝かせ、自身の袿を掛け衣にすると、折姫は腕を捲った。
その左手首に染まるのは、ミカドの見知らぬ紋様。
はっきりと、浅黒く、染み付いていた。
「さっ、はやく続きを折ってしまおう」
弾むようにまた元の位置に戻ると、軽やかな指さばきで蓮の花を折っていった。
「ふふっ。ミカド様ったら、顔もみたくない、ですって」
時折笑い声をあげるその様子は、とても幸せそうだ。
「これだけ失望させたんだもの。ミカド様は私を忘れてくれる。ああ、信じられない!
心置きなく死ねるなんて」
キツネの折り紙は、折姫の声をよくひろった。
今度はミカドがヒコの背にしがみつく番だった。




