五十二折
一刻の休息から戻ると、カヲルは重たい身体を紫宸殿へ向かわせた。
異界への転移は霊力をごっそり抜き取られる。それも往復なのだから、立っていることが不思議なほどだ。
向こうで折姫に似た、愛らしい娘と行き合ったのだが、もう顔も思い出せない。
ミカドはというと、地図の上で傍らに一の君をはべらせ、既に上奏文に目を通していた。
折姫以外の女を従えるのは初めてのことだ。そのことばかり気に掛かったが、カヲルは無言で跪いた。
「カヲルか。ちょうどよかった、今すぐにクウガを呼んで地図を改めるぞ。その後に白百合殿で、みなに御所の現況を申し開くとしよう」
「御意に。クウガを連れて参ります」
「待て」
すぐに踵を返したカヲルの背中へ声をかける。
「ひどい顔をしているぞ。中将には私から言っておくから、少し休め」
「……ミカドぉ、お前ってやつは!」
カヲルは押し倒さんばかりに、ミカドへ抱きついた。
「なんで俺みたいなやつを思いやれるの!? 主君の才覚ってやつなの!? お前のほうがよっぽど疲れて、傷ついているだろうに」
「傷ついている?」 心なしか前髪の奥の眉がひきつる。
「別に傷つくようなことはないし、私のほうが睡眠はとれている」
「あー! そうかまだ一日経ってないから、支配の呪符の効果があるのだな。折姫のことすっかり忘れているから、堂々と他の女を連れ込めるってもんだ」
軽い口が滑った。いつものことだ。
「なぜお前が昨夜のことを知っている」
ミカドに問われ、目をそらす。
「いやぁ、たまたま?」
「ほう、たまたま。残念ながらすでに解呪は済んでいる」
「さっすが、ミカド様! 呪符をもってしても、折姫のことを忘れられないと!」
「ああほんとうに。今その名前を、口にしたくもないほど憎らしいがね」
「ですよねぇ」
一の君は扇子の奥で遠慮がちにしていたが、折姫の話題に顔を出した。
「あの失礼ながら、折姫様は今どちらに。わたくしも折姫様からご教示いただきとうございます」
「折姫から教示!? あいつもえらくなったもんだ。折姫こそ、いい案がなかなか思い浮かばず、ヒコに助言をもらおうと梅壺へ身を移しておりますよ」
ミカドの眉が二度ひきつる。
「ずいぶんと詳しいな。朝から一緒にいたのか」
「ああ、その上奏書こうと言い出したのあいつだし──? 寝に帰ったら呼び止められただけです。ふたりきりではありません。母上も中宮様も居ました。なんなら妖も顔並べて聞いておりました」
「ふぅん。やはり私はどうも甘いようだ。休み取り消し、クウガを呼んできて」
舌が回るとろくなことがない。
カヲルは肩を落とし、急ぎ足で薔薇の壺へ戻った。
後宮の果てに位置する梅壺は、ヒコの結界に護られている。だが今日に限っては、みなその外へ逃げた。
身体を肥大化させたヒコが広い梅壺の殿内を、のたうち回っているのだ。
柱や庇など、あちこちにぶつかり、辺りに飛び散らせる血は黒く穢れ、草木を枯れさせた。
白毛があちこちに舞う梅壺を見上げ、カリナは幼いキリヤへ訪ねた。キリヤはヒコの息子だ。
「もしかして、お父上は人形の浄化の際に、なにかよくないものを取り込んでしまったのかしら」
「そのようです。父上の身体からときおり、黒い人形のものが見えます」
「稲荷神が祓えぬとなると、ただの怨念や餓鬼ではなさそうね。折姫、折れた?」
「はい! 箱にも呪符を捺しました。ですが、ほんとうに蓮の花をヒコ様のお口に入れても?」
折姫の手のなかには、十六枚の折り紙で折られた蓮の花が咲いている。悪鬼を封じれば消滅し、人間に与えれば極楽浄土へ導いてしまう。
「あんたに浄化の恩恵をお与えくださったご本人様よ? ……神様なんだから、きっと大丈夫だって!」
「けっこう適当!」
折姫は蓮の花を油揚げにくるみ、厳重に蓮の葉を象った箱へ入れると、カリナに手渡した。カリナはさらにそこへ、香を燻した布切れをかぶせる。
「さあ、キリヤ。この箱を釣殿に置いてきて」
「はい。ああ、なんていいにおい!」
「食べちゃだめよ? できるだけお父上を惹きつけてから、舟に飛び移りなさい。いいわね」
「はい!」
返事のあとに腹が鳴った。
カリナが燻した香は、油揚げの香りだ。それも、ただの油揚げではない。甘いお出汁にたっぷりくぐらせた、極上のお揚げさんだ。
キリヤは恥ずかしそうに箱を口に咥えると、次には四つん這いになって、息を整えた。
「いってきます」
まるで餌を咥えたキツネのようだった。門をくぐり、遠回りに庭から殿内へ入ると、出居をぐるりとまわり、ヒコの足もとに止まった。鼻をひくつかせたヒコの口から、ダラダラと涎があふれだす。
キリヤごと食べられてしまいそうだ。
折姫は思わず両手で顔を覆った。
キリヤの声は嬉しそうだ。
「父上、競争ですよ!」
そう言うと、釣殿と平行に足を真っ直ぐにして、駆けていった。ヒコはキリヤを啖わんとばかりに開口し、まっしぐらに追いかけていく。
「え? あれれ?」
折姫は、よいはずの目をこすった。
長い釣殿を渡るちいさなキリヤのお尻に、白い毛束がみえる。稲荷神の血が沸き立つと生えてくるようで、速度が上がるばかりか脚力も強くなっていく。屋根へ上ったりぶら下がったり、重力を知らないようだ。ヒコを翻弄しながら突き当たりに行き着くと、キリヤは油揚げの小箱を池へ離した。
ヒコが釣殿から飛び降り、舌をのばしてようやく届く絶妙な距離だ。宙で小箱を食む。
池に盛大な水飛沫があがると同時に、キリヤは船と蓮の葉を足継ぎにして折姫の元へと戻ってきた。
「キリヤ、すごい!」
「去年からよく油揚げを取りあって、鬼ごっこをしていたので。それより、父上は大丈夫でしょうか」
船の揺らぐ水面からヒコの顔があがってこない。
カリナが言う。
「……池の水は毎日、ヒコ様が浄化されている。なかのものが、身体を突き破ってまででることはないはず」
そのため水中を選んだのだが、ヒコが溺れてしまっては救いようがない。池を取り囲む梅壺の宮女はみな素足に水をつけたこともない姫君たち。それは女御のカリナも同じであり、泳げる人間は皆無だ。
すると、共に傍観していたはずのシオリが袿を脱いだ。
「私が行くわ」
「は!? 中宮が、池に!?」
折姫は感心した。シオリはとうに覚悟を決めていたのだ。長い御髪を編んで、簪で束ねている。
「もしかして、水泳習ってた?」
「まあね。これでも水泳部だったの」
引き止める間もなく、シオリは平然な顔をして下着姿になるので、慌ててキリヤが野次馬をはらった。そんな心配をよそに、勢いもなく入水したシオリは静かに平泳ぎで泳いで行く。ヒコが飛び込んだあたりで深く息継ぎをすると、水底と直角に潜っていった。
幸いヒコはすぐにみつかった。
身体を縮めて丸くうずくまっている。拾い上げると手足がだらん、と水に揺蕩った。意識を失っている。急いで近くの釣殿へあがった。
板間に寝かせるが、敷物のようにへたっている。
「キツネに人工呼吸ができる人っている?」
「私が」
身重の梅壺の女御が引き止める女房たちを振り切り駆けつけると、迷いなくヒコの口を両手で挟みこみ天へ向け、息を吹きこんだ。
すると、ヒコの腹が風船のようにふくらみ、それを吐き出すようにして咳き込み、息を吹き返した。シオリは思わず笑ってしまう。
「手慣れてるわね」
「ヒコったら、この時期になると毎年のように溺れるんですもの」
「これだから、水は、嫌いだ!」
悪態と共に、藻や水草を吐く。
次には身体を大きく変幻させ、腹の底から唸り声をあげた。
「ガハッ、はあ、はぁ。ふぅ、中宮よ、助かった! ようやく身体から追い出せたわ」
ヒコは、童子の腰かけ程度はある、大きな四角い箱を吐き出した。折姫が折った、蓮の葉の折り目がついている。
「恐れ入りますが稲荷神様、これは……?」
「腹を暴れまわっておった、闇の精霊だ」
「闇の精霊!?」
殿内から回り込んできた、折姫とカリナが顔を見合わせる。闇の精霊は死者を傀儡にする、兇悪な精霊だ。闇に還すことも難しい。
「どういう譯か、人形に紛れ込んでおった。この私を差し置き、白狐の身体を操りおって」
ヒコはまたちいさくなると、箱の周りをぐるりとまわった。蓮の葉が脈を残して透き通り、なかが見える。黒い炎のようなものをまとう、その人形は勢いよく体当たりをしたが、箱は浄化の呪符が光るだけでシワひとつ寄らない。
「折姫の呪符の効果は絶大だな。まさか闇の精霊を封じる結界になるとは」
折姫が、興味津々に訊ねる。
「油揚げは効いてました?」
「あれはひどかった! 白狐の身体のなかはボロボロだぞ。水中だというのに、尚も膨らもうとするから、先に身体を縮めて押さえ込んでやった」
「だからちいさくなったのですね」
シオリの力でも助けやすいように、ちいさくなった譯ではない。
梅壺の女御がクスリと笑う。
「でもちいさくなると泳げないのよね」
「おい、それは蛇足だ」
箱を囲うようにして、みんなで笑った。
白狐の傷を癒すために、典薬寮へ馬を出すか話し合っていると、殿内からまた人影が現れた。
ミカドと一の君、それからクウガだ。
「何事だ」
折姫は反射的に目をそらしてしまった。機嫌が悪いときの声色であるし、あと単純に罰が悪い。
カリナが手をこすり合わせながら説明をはじめると、一の君はミカドのそばを離れ、折姫へ声をかけた。
「折姫様、ご無事で!」
「あなたのほうこそ。話しは聞いております。念のためのはずが、危険なことをさせてしまいました。御所のみんなを護ってくれてありがとう」
「折姫さまぁ……!」
抱きつく無礼はできず、遠慮がちにすり寄る。
折姫は、思わずよしよし、と頭を撫でた。自分より目線が下の姫君は、なかなか存在しない。
撫でられる側の一の君は嬉しそうだ。
「えへへ、ずっとお会いしとうございました」
「私もよ。一の君の力を借りたい」
ハッ、と瞑っていた目を開ける。
「わたくしこそです、折姫様! これからたくさん折り紙を折るのですが、その前にその計画でよいのか、一度聞き通していただきたくて」
「折り紙を折る計画? どんな!」
折姫の目が爛々と輝くが、
「ミカド様の呪を無効化する、蓮の葉の折り紙を御所のみなさんに折ります。折姫様が、私に折ってくださったみたいに」
「それは──」
すぐに曇らせた。
「絶対に、駄目よ」
「え……」
手を取り、賛同してもらえると思っていた一の君は、羽織る細長が脱げる勢いで肩を落とした。
ミカドが口を挟む。
「なぜだ」
「だって、ミカド様の真名を、御所じゅうにばら撒くようなものではないですか。私は、信頼する一の君だから、あなた様の真名を預けられたのです。万が一、裏切り者がいたら──」
「それは既に一の君が掃討している」
「まだ潜んでいる可能性は捨てきれません!」
「知られたところで、なんだ? 軽く呪い返してやればいい」
「裏切り者がいなくとも、人間には舌がある。会話が貺都の外に漏れたら? あなたは一生、厭魅に晒されてしまう!」
「御所を救えるなら、構わない」
「どうしてわからないんですか! あなたの真名は、すでにこの国の至宝だということをお忘れですか……!」
ミカドは折姫の顎に指を添え、顔を寄せた。
怒っていないようで、胸のうちでは激昂している。
「では代案を願おうか。確実にみなを護れる計画を。保身ばかりのあなたたちに、思いつけるとでも?」
「──っ、ひどい!」
折姫は頭を上に突き上げた。
頭突きするつもりだったが、あっさりかわされ、単に飛び跳ねただけになってしまった。
腹立たしいやら、恥ずかしいやらで、涙がこぼれた。
「ひどい、ひどい! 保身だなんて! シオリちゃんはヒコを助けるために、自分の身を犠牲にしてまで、池に飛び込んだのに! ミカドのバカ──!」
折姫は走って殿内へ戻ろうとしたが、また転んだりして恥ずかしい思いはしたくない。そこは冷静になってシオリのもとへ行くと、自分の袿を羽織らせ、退いていった。
気まずい空気が流れる。
そういうとき、我慢できずに口を滑らせてしまうのが、カリナである。
「あはは。あんたたち、またこーんなことで喧嘩してぇ。今はそれどころじゃないでしょう?」
「こんなこと……?」
ミカドのこめかみに青筋が立つのを、ヒコは見ていた。
「そうだね。私たちは、顔を突き合わせれば喧嘩ばかり。こんなことで喧嘩をしてしまう私たちは、国を担う夫婦にはなれない」
一の君の手を取ると、ミカドもまた殿内へと戻っていった。




