五十折
折姫が牛車へ乗り込むころにはすでに、シオンの使役はかなわなかった。呪を口ずさみながら内へ入ったのに、桜の花びらが現れない。即座に罠だと気づき、外へ顔をだせば軛が折れ、宙に浮いていた。
中宮とカリナの力を借りようと振り返れば、
「折姫じゃない。主上は? 上奏文渡せたの?」
「もう鮎はないわよー! 用が済んだらはやく御所へ戻りなさいよ」
異変に気づきもしない酔っ払いふたり。頼るに足りず。
猫の手でも借りたいとクウガを見やれば、桜の絵を描いていた。
「クウガ、その絵は」
「シオンにあげるんだ。花宴で、シオンに見せてあげたいって、折姫様が言っていたのを、思い出したの」
「クウガ、あの場に居たの? そうか、カリナ様の香で隠れていたのね。そう、シオンに……」
「へへ、シオン嬉しそう」
息をのむ。
半紙のなかの桜が色づき、さわさわと枝を揺らしたのだ。
「シオン、なの?」
「シオンを描いたんだもん。シオンだよ」
「じゃあ、使役できなかったのは、紙に依代を移したから?」
「ううん。紙のなかには、いないよ。今の、シオンを写しているだけ」
「じゃあどこに」
考えている暇はない。
紙が現在のシオンを写しているというなら、主人の声が届くはずだ。いや、そうでなくてはならない。
折姫は桜の絵に手のひらを貼り合わせ、叫んだ。
「とっとと、ここから連れ出しなさい! このバカさくら────!」
ビクリ、と枝が揺れ花びらが散る。
散った花びらは牛車のなかに吹き荒れ、飲み込むように、溶かすように全員の身を拐っていった。
四人分の転移に疲弊した折姫は気を失い、単調に刻まれる時計の音で目を覚ました。時計の針は十五時をまわっている。
「時計?」
「あ、起きた。イオリちゃん、おはよう!」
「おはよ……? ちーちゃん!」
瓶底眼鏡に西陽が反射して眩しい。
従姉妹の千速だ。
頭を起こすと、額にのっていた氷嚢が落ちた。
祖母お手製の巾着袋に入っている。部屋を見渡せば、神社の待合室だ。不知火神社には二十畳と無駄に広い待合室があるが、七五三も節分も、年じゅう暇していたため、客の立ち入りはない。ひとつ上の従姉妹の千速を待つため、待合室のすみっこでよく折り紙を折っていた。今はその特等席に布団か敷かれ、自身か横になっている。
「つまりは、こっち側へきちゃったってこと……?」
「あまり状況は把握できてないんだけど、なんだか大変そうだね」
千速が視線を送る。
その先で後宮妃のふたりが洋服を着て座っており、長机の上はスイーツビュッフェと化している。縁ではクウガが嬉しそうに、ロールケーキにかぶりつきながら、小さな桜の苗木とおしゃべりしているようだ。
転移は日本時間で十一時ごろ。
たった四時間で何があったのか。
説明しよう。そういった手振りで眼鏡をくいっと上げると、千速は話し始めた。
「まず、来て早々におふたりが酒をたかるので、お衣裳一枚と諭吉一枚を交換して追い出した。そのあいだにイオリちゃんを待合室へ運び入れて、介抱したんだけど、思いのほかおふたりとも順応性が高くて驚いたのなんの。ばあさんのスマホを駆使し、渋谷まで行くと、もう一枚着物を売りとばして、あとは贅沢三昧。じいさんに買い物袋を持たせて、ご自分たちはタピオカジュース片手に帰ってきたよ」
「ちーちゃん、タピオカってなに」
「そんなイオリちゃんが、今は愛しく思えるよ」
タピオカは、あれ。
千速が指を差したプラスチックの容器に、カリナが洋酒を注いでいる。
なるほど、カエルの卵か。
卵を太いストローで吸い込むカリナは胸もとのあいた黒いワンピースに身を包み、肩に黒ネコをのせている。
折姫は目を細めた。
「魔女だ、魔女がいる」
「あれお気に入りなんだって。帰ってきたら、すぐにファッションショーが始まったよ。それからまた出て行ったと思ったら山ほどケーキ買い込んできて、この有り様。食べきれないから、イオリちゃんのお姉さんたち呼んだけど、どうする? 会って話す?」
「……いいかなぁ。うまく話せる気がしないよ」
「わかった。適当に詰めて渡しちゃうね」
「あのチーズケーキとチョコレートケーキといちごタルトは置いておいてね」
「お、おう」
ケーキを詰めに千速が離れる。
折姫は窓ガラス越しに境内を覗いた。
姉たちと顔を合わせたくないと思うのは、薄情だろうか。
今はうまく話せない。胸を張って、しあわせだと言えない。
ふたりの後宮妃が愉しそうに笑う声を背中で聞いていると、自分は違うなと、線引きしてしまう。
ぼそり、つぶやく。
「私、……ほんとうに、死にたくないのかな」
いつも暗い夜道に迷っているようだった。
明るく振る舞うようにしているが、いつだって崖っぷちを歩いていて、未来は闇底にある。踏み出す足を間違えれば、簡単に終わらせられると、そう思ってしまう。
牛車が浮いたとき、もしもひとりだったら。
ふたりやクウガがのって居なかったら、思考を手放していた。
誰かが居ないと前向きでいられない。
呪いのせい──、ほんとうに?
身体に痣はなかった。
夢から醒めたいと、思っているのではないだろうか。
あちらで生を終えれば、こちらへ帰れるのでは、と。
「イオリ──────!」
窓ガラス越しにくぐもった声がする。
すぐに目をそらしたがわかる。姉たちが三人揃って、手を振っている。今にも生垣を乗り越えてきそうだ。
「イオリ! イオリだ!」
「ほんとうに? 別人じゃない」
「でもほら、見てよあの下がり眉! イオリだよー! なにあの着物、十二単ってやつ?」
顔が紅らむのがわかる。
ミカドにあつらえてもらった衣裳を馬鹿にされると思うと──。
「笑いなさい」
シオリに肩を抱かれた。
「折姫ったら、まだ寝ぼけてるのー? はやく食べないと、私が食べちゃうわよ」
チーズケーキの皿を目の前にちらつかせる。
折姫は、スクッと立ち上がった。それだけは勘弁ならない。
シオリは花が咲いたように笑った。
「ほら、私を真似て。演技でいいのよ、袿の裾を翻して、あなたの美しさを見せびらかしなさい」
「シオリちゃん」
「うん?」
「ありがとう」
回廊を渡るように背筋をのばす。袿の桜を爛漫と畳に咲かせ、シオリを追いかけた。
背後から聞こえる。
「きれい……イオリ、お姫様みたい」
みたいではなくお姫様なんです。と、言わんばかりに振り返る。自分でも信じられないほど、しあわせに満ちた笑みを浮かべられた。
「やればできるじゃない。私よりじょうずに笑えてたわ」
「シオリちゃんも、ご実家へ行ったの?」
「うん。単純に帰りたくなって行ったけど、鳥居の前で気づいちゃった。歓迎されてないって」
シオリは笑った。
悲しげな、真実の表情で。
「もしも予知通りに主上が亡くなったら、私はこれからひとりで生きていかなくてはならない。その場所は少なくとも、こちら側ではないってこと、よくわかったの。おかげで自分のなかでケリがついたわ。連れて来てくれて、ありがとう」
「そんな、わたしはただ」
カリナが言う。
「私はこっちで暮らしたくなっちゃったわぁ。戸籍ってやつどうにかならないかしら」
「ちょっと! 話しの腰を折らないでくれます?」
カリナの座る席まで行くと、紙袋を手渡された。
「よくやった、ご褒美よ」
中身は半袖の白いワンピースだ。肩にあわせると膝まで裾が落ちた。
「絹糸で縫われたこの生地が流行ってるんですって。裾の刺繍が桜みたいでしょう?」
「はい、すごく素敵です。私のために、ありがとうございます!」
「カシュクールっていうらしいんだけど、腰の帯紐が着物みたいなのよ。ミカドにも脱がせやすいと思って」
「お、おせっ、お気遣いどうも」
「今、お節介って言おうとした?」
「滅相もございません」
「はやく着てみせてよー!」
折姫は言われるがままワンピースに着替えると、空きっ腹にケーキを詰め込んでいった。
千速がマグカップふたつとティーバッグの紅茶を持って戻る。
「イオリちゃん、イケメン皇子と結婚したんだよって説明したら、めちゃくちゃ羨ましがってたよ。しかも、たまにこうして帰ってこれるなら最高じゃんっ、て。まあ、不知火家とは断絶してるから、簡単には会えないよとは言っておいた」
こちらは助かる気遣いである。
感謝しながら千速のぶんも紅茶を淹れていると、カリナが残りのティーバッグをポケットに入れた。手癖が悪い。
千速は古い巻物の紐をほどきながら、目を光らせた。
「ねえさん、それならもう片方のポケットの小銭、出してもらいましょうか」
「チッ、めざといわね」
「こちらも手強い!」
「さて、ではそろそろあちらで何が起きているのか、読ませていただきますかね」
千速が畳に転がした巻物は、不知火神社に祀られる神器である。貺都とつながる四家に受け継がれており、貺都の歴史が動くと余白が生まれ、細かく書き綴られるという。
慣れたもので、タブレットに古語翻訳のアプリを開くと、巻物の末尾を写していった。
「どれどれ、右大臣謀叛なり。右大臣ならびに御所の仕官二百余名を叛逆罪で捕らえるが、桜の壺を崩壊させた謀大逆で罪を問われし右大臣一の宮は、後宮妃を人質に行方知れずである、と。人質?」
「それって私たちのこと?」
「えー、っとね、右大臣一の宮って人が、牛車ごと拐ったんだって。牛車は近衛大将の邸でみつかるも、三人の寵妃は未だ囚われたまま、嗜虐の限りを尽くされているらしいよ」
「なるほど、誤植ですね。私欲の限り、ショッピングとスイーツを愉しんでますもんね」
ふたりに話しを振るが、顔色が悪い。
カリナは自身の首をしめる素振りをみせた。
「カヲルの邸に牛車があったってことは、叛逆者認定おめでとうよ! 家族で死刑確定じゃない! 私もクウガも首切りよー!」
シオリは覚悟を飲み込むように、紅茶を喉に流し込んだ。
「シオリちゃん、それ私の……」
「美味しい。じゃなくって、牛車が拐われたの、多分私のせいだわ」
「シオリちゃんの?」
「右大臣一の宮は九尾の宮と呼ばれていて、私の本来の夜伽相手だったのよ」
シオリの白羽の矢にかけられた打掛には、橘の紋章が彫られていた。右大臣家の家紋である。転移先は芙蓉殿。花宴のあと、九尾の宮に引き取られる予定だった。
御帳台のなかでしおらしく待っていたのだが、やがて夜を迎え、外では鬼火に餓鬼が跳梁し始めた。怖くなったシオリは自身の知る一番強い結界をはり、一夜をやり過ごそうと決めた。結界を破れる人がいたなら、その人に従おうと。
最も容易く結界を解き、几帳をくぐってきたのは主上だった。
「ずいぶんとかたい殻にこもっているなと思ったら、なるほど美しい雛が眠っているって」
「ひ、ひな?」
「ヒヨコってこと?」
うっとりと語るが、折姫と千速の頭上には『ロリコン』の四文字が浮かぶ。
「雛と仰るなら、羽根が生えるまでお待ちくださいって返したんだけど、そのままのあなたが欲しいって!」
「とんだ幼女趣味ね。反吐がでるわ」
カリナの言葉に、折姫と千速と、本人までもうなずく。
「信じたくないけど、やっぱりそうよね」
「で? そのまま白百合殿へお持ち帰りってわけ」
「そのあとが大変でした。九尾の宮が発狂して、主上に歯向かって」
「確か丸腰で御所の外に放り出されたんでしょう。親の七光りで汚職に夜這い、好き勝手やってたから、誰にも同情されなくて憐れだったわあ」
「きっとあの時の報復に、私たちを拐って弄ぶ気だったんですよ」
「わー。こわーい」
折姫がのんきに煎餅にかじりつく。甘いとしょっぱいの無限ループを繰り返している。
「ではよかったですねぇ。こちらに逃げてこれて」
パリパリ、咀嚼音が響く。
シオリとカリナは顔を見合わせた。
「……折姫ってさあ、すぐに御所へ戻る計画だったわよね」
「はい」
「そりゃあ私たちは助かったけどあんた、ミカドの命に反したってことよね」
「そ、そうですね」
「そして、今まさに嗜虐の限りを尽くされてることになってるわね」
「私欲ではなく?」
イオリをよく知る千速は、噛み砕いて一行の文章にした。
「つまりイオリちゃんは、あろうことか夫の指示を無視してみんなといっしょに拐われてしまい、犯されまくってるってことでよろしいですね?」
深くうなずくふたり。
折姫は「ヒッ」とちいさく息をひいた。
「いやでも私、こうしてまだ浄らかなままですし?」
「そんなのわからないわよ。遠い異界に来ているのだから、あちらの霊力はとうに潰えている」
「私の折り紙は?」
「ただの紙くずね」
「それを見たミカド様は!?」
ふたり同時に身震いをおこした。




