四十七折
大祓。
御所より半刻ほど山奥へ入った川の縁。豪奢な牛車が何台も列を成して停まっている。
ついぞ、ミカドは帰ってこなかった。
左大臣は桜の紋様が派手な屋形の牛車のなかで、ああ嘆かわしやと、盃を煽った。
春宮不在のなか、今年の大祓は盛大な宴となった。
川縁には豪奢な垂れ幕と行灯が立てられ、川の中腹に建てられた浮舞台では、笛や琵琶が奏でられている。今日だけのために飾られた牛車で季節に応じた酒と箱膳をいただくのは限られた高位貴族のみ。大いに優越感を抱かせるが、川神の御前だということを忘れてはならない。
初鮎にかぶりつくと、その隣りで妻と娘が嘆声をあげた。
「なんて美しい音色なのかしら」
「水に溶け込むような浄らかさですこと」
左大臣は、女房に御簾を上げさせた。
川上の岩に腰をかけ、カヲルが笛を吹いている。浮舞台の雅楽に合わせたその音色は控えめでいて一際に流麗である。
耳で愛でるに飽き足らず、女たちはその音源を眼福にと、牛車の物見からのり出した。
ポコポコともぐらが顔を出しているようで面白い。そのなかに、居るはずもない女御の顔があり、思わず酒を吹き出した。
「中宮様に、薔薇の壺の、女御だと?」
白百合の屋形の牛車に、新旧皇后が顔を並べている。それだけでも信じがたいことだが、その隙間からクウガが小さな頭を覗かせていた。
「こうしちゃ居れん、席をはずすぞ」
「私の鮎!」
三人分の串を持ち、外へ出ようとすると、娘の一の君が半べそをかいて袖をひいた。一の君は、小さな身体のいったいどこにおさまるのか、大食らいでいけない。似なくていいところばかり、折姫に似ている。
「また釣ってこさせるから」
左大臣はネコの式神に釣り具を持たせ、今度こそ外へ出た。
左大臣の役どころは代々、式神使いが多い。
御所の式神がネコばかりであるのは、左大臣が一括して管理しているためだ。つまりは、御所の式神では悪さはできないということ。ネコを使い女に恋文を届ければ、次の日左大臣に口を出される。大炊殿から酒やつまみを拝借すれば、金額を弾き出し、徴収された。
それだけでは、御所は左大臣の思うがままとなってしまうため、主上には阿吽、春宮にはシオンがいるように、上達部までは個人所有の式神の使役が許されている。
左大臣は裏手に回ると、念のため造面を被り、白百合の牛車を叩いた。
「もし、つまみに鮎はいかがかな」
「鮎ですって!」
無防備にカリナが顔を出す。
「あらハルちゃんじゃない」
左大臣の真名はハルといい、今年で三十五になる。正室はカリナの実姉であり、数年前までは姉妹ともに仲が良かった。
「ハルちゃんはやめてください! あなたが宴に出るなんて珍しい、しかも御所の外ですぞ」
「ほんとうにねぇ。御所を出られる日が来るなんて、思ってもみなかった」
「こんなことは言いたくないですが、クウガを外に出すことだけは、いただけませんな」
「相変わらず、かたっくるしいわねぇ」
「そうは言っても──」
腕にわずかな負荷がかかる。横から鮎にかじりつかれていた。どこからわいてでたのか、折姫だ。
「小言をおっしゃるわりに、クウガのぶんも持ってきているではありませんか、もぐもぐ」
「ええそうです、この鮎は折姫様のぶんではありません!」
「味見です、これから大祓詞奏上ですので。行って参りまーす!」
「かるい!」
御所の平穏がかかっているというのに。
折姫は桜の花びらを残して消えた。
川上へ目を移すと、茅で作られた茅の輪の中心に正装姿の右大臣が立っている。その脇に主上と、折姫が何食わぬ顔で肩を並べた。
今度は男たちが物見から顔を出す番だ。
左大臣は目を据わらせた。
みなが想いを馳せる折姫様は、たしかに美しい。側から見れば、輝きを放つ宝珠に甘い蜜を垂らしたような艶やかさだ。
だがどうかよく見て欲しい。あの娘、口の端に鮎の皮をつけたまま、奏上するつもりだ。隣に立つ主上もそのことが気になって、右大臣の話しを右から左である。あんな意地汚い小娘のどこがいいのかと、娘と比べると対して変わらないことに気づき、溜め息を吐いた。まともな女は居ないものかと首を回せば、シオリとカリナが肩をくんで盃を交わしている。
やはり己れの女がいちばんだと、自身の牛車へ戻るのだった。
御簾を開け、妻の顔にホッとするが。
「おや、一の君は」
「それが先ほど折姫様に命じられ、御所へ」
「御所だと? 一体折姫様はなにを考えている。近衛はみな大祓に出払っているのだぞ。危険だ」
御所は通常通り、従三位以下の貴官や後宮女人が何百人と働いているというのに、何ゆえか門番ひとりも残さず、連れてきている。
「では祝詞が終わり次第、あなた様も戻られては」
「ああ、そうしよう」
取り急ぎ式神へ娘を探すように命じ、腰を据えた。今は大祓が無事に終わることを祈るしかない。
隣で膝を揃える妻は、なにをそんなに気を揉むことがあるのかと、顔を覗き込んでくる。
それもそのはず、夏の大祓は本来、仰々しいものではない。人形を流して穢れを祓うだけの、簡素な行事だ。それがなにゆえ牛車に乗ってまで、御所の外へ出なくてはならないのか。すべて水神のお言葉のままだと右大臣は言うが、それ以上を望まれては、また御所のなかが大きく変わる。
貺都に「先帝」が生きた時代はいつだったか。
貺都の代替わりは、一瞬だ。
皇帝の輝きが失われるか、または次代に輝きを奪われるか。その年になれば水神が、皇帝を人柱に望む。
右大臣が神託を受ければその日のうちに。誰にも知られぬまま川に身を投げ、消えることもある。そしてその亡き骸は決してみつかることがない。
先帝が身を投げたのは、今の主上が齢十七の年。ミカドの才器を考えれば決して遅くはないのだ。桜の御息所を滅した功績も高い。
加え、ふた月に渡るミカドの修行──、嫁との仲違いを口実に、即位の準備をしているのではないか。今の主上が自身の運命を予知され、命じたのでは。
「義弟の最期は、私の目にだけでも収めなくては」
そう呟き、茅の輪に焦点を合わせた左大臣は、大口を開けて叫んだ。
「もう、誰もいないじゃん!」
*
少し遡り、茅の輪の前で主上は悲愴な面持ちで、折姫へ言葉をこぼした。
「中宮──、シオリは、私が妬いてしまうほどにお前を慕っている。これからも親しくしてやってくれ」
「そうですか? 最近はカリナ様とのほうが仲良しですけど」
「あれは呑み友達といって悪友に近──、って、死に際になにを言わせる」
「やだなぁ、主上。飛び込む前に大祓詞奏上のお役目がありますよ」
「お前はなんでそんなに余裕なの?」
つい先ほど、以下の神託がくだされたばかりだ。
──皇帝、宵明帝を人身御供とし、御簾へ皇位を継承せよ。
「だって、主上が川に流されるのはミカド様もシオリちゃんも先読みされてましたし」
「シオちゃんが? ……そうか」
「ミカド様にいたっては、すでに玉座においでです」
「気が早いなおい」
右大臣も焦燥とした素振りをみせる。
「折姫様。主上との別れを惜しまれるのはわかりますが、水神は午の刻までに人柱供儀を望まれております。奏上を」
「さっさと読んではやく飛び込めですって」
「愉しそうに言うな!」
「主上! 祝詞、祝詞!」
禊で浄めたその身体で、奏上文を手渡すことが巫女の役だ。渡すというか、突きつけている。おのれ黒幕は折姫ではないのかと、主上は恨めしげにねめつけた。
やおらに開いた六つ折りの文──。
天子皇帝すべての穢れを背負い清き流れに禊せと、シオリの繊細な筆跡で書かれており、その下から、
「お初にお目にかかりますじゃ」
押し花のようにはさまっていたヌシが花開くようにいつもの姿へ戻ると、茅の輪のなかであぐらをかいた。
主上は刮目した。
「あなた様は──」
「この川の源流、蛇沼のヌシじゃ」
「沼……?」
聞いたことがない。
右大臣を見やるが、彼もまた目を皿にしている。
「恐れながら、水神様は私たち人間の前に姿を表さないのでは」
「ああ、この川に棲みついた蠱毒の蛇のことか」
「蠱毒の、蛇?」
「そこの右大臣家に長らく飼われた蛇よ。主上を蛇の餌にして、更にはミカドを暗殺するつもりだったようじゃが──。おや、もう逃げたか」
右大臣が忽然と姿を消している。
折姫は愕然と言った。
「えー! では、ほんとうに右大臣様が謀叛人でしたの?」
そうだ。
謀叛人は右大臣。
それを知った主上は水神の望むまま、右大臣の袂をにぎり、共に沈もうと考えていたのだが。
「長く信仰した水神が蠱毒の蛇であったとは。右大臣が御所へ転移したならば、ミカドが危ない」
「あの子が負ける相手ではないじゃろ。今は少し、ヌシに語らせておくれ」
そう言うと、茅の輪のなかの水流をとめた。水面が鏡となり、小さな沼を映し出す。
「先ほども言ったが、元よりこの川の神は、ヌシじゃ。もう三百年になるか、ヌシにも一寸荒んだ年があっての。気を損ねるたびに川を氾濫させ、御所を浸水させていた」
遠くでカヲルが「やっぱり邪神うんぬん」言っている。
「愚かであった。図に乗っていたら、時の皇帝により沼へ封じられてしまった。その後は人間たちの思うがままよ」
川神の居ない川へ、無意味に人形を流し続けた時代はまだよかった。
とあるむかし、蠱術師家であった右大臣家が使い古した蛇を川へ放ったところ、溺死した人間を肥やしに大蛇へ育っていた。生かしてくれた恩返しに、右大臣家へつき従うという。ならば今は不在の川神となれと、時の右大臣は大蛇を殺し、祀りあげた。
右大臣家は川神の審神者として仕えることで、権力を欲しいままにした。ほかの皇族が優位に立てば、その血族をみな人柱にした。果てには、右大臣を訝しんだ皇帝にまで、神託を下した。
皇帝を啖うた川神は、恐ろしく力を進化させた。まるで本物の川神のように、川を操った。味を占めた右大臣家は、代替わりに皇帝を人柱に立たせることを、ついに慣わしとしたのだった。
主上は総身を戦慄かせた。
「では、今までの、祓いは」
「やはり帝も知らんかったか。……川下で稲荷神が浄化していたのじゃよ。七夕の油揚げを対価にな」
「たな、ばた……?」
朝の神事。夏になると、しきりに油揚げを供物に望んだのは、ヒコの恩恵を知ってのことだったのだ。
「ゆえに、ヌシは沼に居たままでよかった。四季を愛で気楽に過ごしていたのじゃが──、今世には面白い人間がいるではないか。のう、折姫」
「ありがたきお言葉」
「カヲルとミカド。ふたりに出逢わせてくれた折姫にも感謝しているが、時の皇帝よ。麗しき御子をよくぞ育てあげた。褒美に」
茅の輪の奥で川水が渦を巻く。
「報復の機会を与えよう」
茅の輪を潜り、大蛇が顔を出した。目は三日月を湛え、牙は研いだばかりのように鋭く、毒を滴らせている。鱗ひとつひとつが黒光りした鋼のようで、とても守護神なる川神には見えない。
主上は溜め息を吐いた。
「予知だけが取り柄の私に、これを滅せと」
「お主の曽祖父、祖父、そして父上の仇であるぞ? そしてお主の寵妃もな」
「寵妃……?」
「桜の御息所が盛られた蠱毒は、夢を見せた。この蛇に陵辱され続ける夢をな。そして目が覚めれば現実となり、蛇の穢れが身体を蝕んだ。お主が他の女御と語らう長い夜を、御息所は眠りを恐れ過ごしていたのじゃよ。十年、な──」
主上は、己れが今、立って息をしていることが不思議に思えた。無知とは、これほどまでに絶望を抱かせるものか。許せなかった。のうのうと生きてきた己れが。未だに息を繰り返す自分が。
震える唇を噛み締める。
口を出したのは息子のカヲルであった。
「お前なぁ……! その口が、かんっぜんに邪神なんだよ!」
突っ立つ主上に代わり、刀を抜き大蛇へ向かっていくが、ヌシはその切っ先を指でつまみ止めた。
「たとえカヲルであろうと、この報復に横やりは入れさせん」
「なんでだよ!」
「皇帝には宿命がつきものだ。後宮を蠱毒に仕立てた宵明帝は、元凶である蛇を滅しなければ、その役を終えられん。その命、尽きようともな」
「なるほど納得です」
折姫はひとり冷静である。
カヲルもまた気を鎮め、頷いた。
「命尽き──、そうにないです。父上」
カヲルの碧眼は死に痣と呼ばれる、死相を読む。
父の顔をまじまじと見据えるが、きれいなものだ。
「主上、よかったですね!」
「お前ら他人事が甚だしいな!」
「そんなことないです。私たち主上のために、このふた月で色々整えたのですから」
ちいさな小瓶と蓮の葉を象った小箱を手渡すと、折姫は凛々と言った。
「まあ、残念ながら川に流される未来は変えられませんでしたけど」
「そうなの!?」
主上の目の涙がひっこむ。
「ただ、信じております。私たちはこれから右大臣と向き合いますので、互いに務め終わりましたら祝盃をあげましょう」
「俺は酒が苦手なんだよ!」
「ではシオリちゃんの特製チーズで」
「それなら、まあいいか」
「ご健闘をお祈り申し上げます」
かくして主上は、握っていた式を捨て、大蛇と向かい合った。




