四十五折
「ほんとうに、いつものクロ……?」
「にゃお」
ジッと見据えていても、瞳の色は黒く濁らない。それなのにクロはいつまでも胸におさまっている。
お胸の持ち主である薔薇の壺の女御、カリナが言う。
「ミカドの飼い猫が私に懐いてそんなに、くやしいー?」
「くやしいです!」
クロは、折姫の胸には露いささかも興味を示さない。
「これで呪禁がなくなったら、私の魅力のなさに気づき、ミカド様は愛想を尽かされるのでは──」
「まあ、呆れはするんじゃない」
空になったお櫃を見て言う。
「まあまあ、ネコは狭いところが好きっていうから」
「私のほうが長くいっしょにいたのに、納得いきません〜〜〜〜!」
「ほらほら、これで熱を覚ましなさい」
「枇杷だ! カヲルのぶんもください!」
枇杷の蜜煮は缶詰の黄桃に似ていながら、華やかな香りが上品で、つまりはいくらでも食べられる。
「本人の目の前で見せびらかして食べようかと思ったのに。今日は遅いのですかね」
「そういや、朝から見かけてないわね」
「はっ」
沼に捨てたのを思い出した。
精霊のくせに、隣でちゃっかり膳をいただくシオンへ訊ねる。
「カヲル、おぼれてないよね?」
「愉しそうに泳いでましたよ」
「一瞬でも心配して損した」
カヲルのぶんを喉に流し込む。
「ごちそうさまでしたー!」
「今日も見事な食べっぷりだったけど、このあと私に身体を見られるってこと忘れてない?」
「忘れてました」
帯のなかの腹の出具合に絶望する。
痣を見るならついでに湯浴みをするかと誘われ、渋々カリナの袿の裾を追いかけた。カリナこそ、瓶子二本分の酒を空けていたので不安が募るが、呑んでしまったものは為方ない。
そんな日に限って、湯殿に先客がいた。
白百合殿の中宮、シオリだ。
「あはは。中宮様が薔薇の壺にいるー!」
実際、カリナはかなり酔っていた。不安的中である。
シオリの手にも瓶子。折姫は不安を通り越してこわくなってきた。昨日罰当たりな行いでもしただろうか。思い当たることが多すぎてわからない。
シオリは毅然と、
「こんばんは。おふたりが湯殿へ向かわれたと伺い、ご一緒させていただこうと思いまして。おつまみにチーズ持ってきたよー? ひっく」
していない。折姫は黙々と着物を脱いだ。
一日の終わりに、後宮の三羽烏といえる三人が裸の付き合い。何もない譯がないのにこの娘、チーズの誘惑に負けてしまった。
着物をすべて脱ぎ払い、手首の包帯をほどく。その脱衣を一部始終を見ていたシオリが、目を瞠りかたまった。
「な、なんてこと、また育っ……っ」
「はやく入りましょうー?」
「こちらはメロンがふたつ!」
だが、カリナの豊満な身体が立ちふさがることで、すぐに開き直れた。胸など所詮、各々の個性だ。それでも彼女は、隠すほどもない胸をおさえながら湯に浸かった。
カリナはすぐに茶化した。酔っているのだ。
「あなた、それでちゃんとお乳でてるの?」
「しっかり見てるじゃないですか! それなりに出てます!」
「そう。では、そのふくらみのほとんどがお乳なのね」
「しぼむの前提でお話し進めないでください!」
「あらぁ、図星? そんな未来を主上が先読みされたのかしら」
「キー!」
放っておけば酔っ払い同士の喧嘩が勃発する一面であったが、幸いにふたりの目の前には折姫がいる。
折姫は誘惑に負けた自分を、心底褒めていた。
「な、なんですか、この白くて丸いおいしい食べものは……!」
御所で食すチーズとは、牛乳を煮詰めた古代の『蘇』であり、膳によくあがる。だが食に余念がないシオリは五年をかけて自らの製法を生み出し、作り上げていた。
そう、白くて丸い魅惑のモッツァレラチーズを。
主上もお気に入りのツマミである。
湯けむりでしっとりとやわらかくなったチーズは、夜食としては至上最高に値する。
折姫のご機嫌はすっかり直っていた。
一方で、一触即発状態であった新旧皇后は、そんな折姫を前に口をつぐむしなかった。自分たちのぶんのチーズをソッと供物のように折姫へ捧げる。長い時間愉しむためだ。ふたりは舐めるようにして、折姫の背中を眺めた。
カリナの言葉にシオリがうなずく。
「酒が、美味しい」
「それに関しては同意します」
折姫はひと様にお尻は向けられませんと、御髪を前に寄せ、石椅子に腰をかけていた。恥じらい背を向けるだけで、思わず包み込みたくなるような、しなやかな曲線を描いている。その柔肌をみつめていると、まるで口のなかに果実を含んでいるようだった。視覚で酒に深みを与えるとは恐るべき女である。
「水を弾く弾く!」
「むしゃぶりつきたいわ!」
「なにに!?」
「後ろには、蛇の痣以外になさそう。折姫、前をむいて」
「えー!」
無防備な背後を晒すのも嫌だったのに、ふくれた腹を笑われると思うと屈辱である。
「もう一個あげるから」
「いただきますけど」
折姫は受け取りながら首をひねった。
前は自分で確かめられるのではないか。
「はい、手を顎に添えて」
「もっと腰をひねって」
「それって必要なこと!?」
年長者に逆らえず、言われたとおりに渋々気取ってみる。
ふたりは同時に酒を煽ると、深い溜め息を吐いた。
「この見事な身体が、ミカドの好きなようにされると思うと……!」
「まだ誰にも触れられていないっていうのも興奮しますね」
「ちょっとおふたりとも、ちゃんと探してます?
霊力の強いおふたりにしかみえない印があるかもしれないんですから、しっかり見てくださいよ」
「では立ってみてくれる」
「足の裏は? 脇の下とか」
「やっぱり、もういいですー!」
折姫は手のなかのチーズを一気に頬張ると、湯のなかへと逃げた。
「つからないでよ、まだ堪能してないわよ」
「堪能って言った!」
「いやぁ、主上の話し半信半疑だったけど、その身体で呪禁はキッツイわ」
シオリは腰をさすりながら言った。
主上が午前に帰ってきたので、具合が悪いのかと案じて御寝所へ連れて行けば、そのまま離してもらえなかった。解放されたのはつい先ほどのことだ。すっきりした顔で、さて為事に戻るかと言い出したので、子守を押しつけてやってきた。
折姫は目を据わらせた。
「ではシオリちゃんは、ほんとうに私の裸を見に来ただけなのですね」
「そう! と、言えたらよかったのだけれど」
シオリは盃を置くと、辺りを見回した。
岩に一匹、黒ネコが涼むだけだ。
「このネコは?」
「憑きネコだけれど、瞳の色が琥珀色なら誰も憑いてないわ」
「では話せますね。春の君が居ない今、御所のなかで主上の目が行き届かない場所は、折り紙のふやける湯殿だけ。……そう思いませんか」
唇を噛みしめ、ひと息吐く。
「どうか、私の話しを聞いてください」
*
その一日が災難であったのは、折姫だけではない。
三人の妃が湯に浮かぶ同じ頃、カヲルは荒地の土に顔を埋めていた。
腰になじみ始めた刀を抜き、ミカドが言う。
「御所の外の土は美味いか」
「美味でございます」
折姫の背中の痣は、本人も知らぬことだったと聞いて、ミカドは間髪入れず二度、カヲルの美顔に拳を入れた。今まで気づいてやれなかった己れの不甲斐なさと、あっさり見抜いてしまうカヲルへの腹立たしさに、殴らずにはいられなかった。
尚も、歯噛みする。
「まさか己れの呪いが移るとは。それも一生解けぬ呪い。どうか、ささやかな呪であるようにと、願うことしかできない」
カヲルはというと、二発目の拳が脳天を揺さぶったことで、地から頭を離すことができない。喋るたびに土が口に入ってくるが、構わずぐだぐだと続けた。
「あー、最悪の一日だ。俺、なんか罰当たりなことしたっけ?」
「心当たりは」
「あり過ぎてわかりませんな」
「お前はついているよ。私はその理由のほうがわからない」
ミカドがカヲルの頭上を見上げれば、天の川のような羽衣が宙を漂う。
天后の恵みで東西南北どこへでも身を移せるという、実に羨ましい異能をもったカヲルが、またとんでもない女神に懐かれた。
「彼女がいなかったら、お前の首は私に斬られて、今ごろ胴から離れていた」
「笑えないなそれ」
「ほんとうに、偶々か」
「偶々だ。シオンに捨てられた沼にいた」
カヲルは底の水草が見える美しさの沼へ落とされた。
怠惰なシオンは折姫に沼を指定され迷わず、毎朝禊の水を汲みに来ている沼へと落とした。
湧き水がこんこんと溢れるその沼には、銀髪をふたつに結った、女童の神が囚われていた。なにゆえか、細い首をしめ縄で縛られており、沼の中心から出られない。かわいそうに思い縄を切ってやると、容易く沼を離れてついてきてしまった。
「まさか、封じられてた邪神ってオチじゃないよね?」
「神こそ見た目ではわからんよ。稲荷神と引き合わせてみるか」
「蛇って、たしか稲荷神の天敵じゃなかったっけ?」
カヲルが見上げる彼女の肩に巻きつくのは、羽衣だけではない。
「なに、折姫が仲を取り持つだろう」
「でた。嫁への絶大な信頼」
「ああ、お前は明日も折姫に会えるのか。また腹が煮えてきた」
「勘弁してくれよ、兄上」
土混じりの血反吐を吐き立ち上がると、ミカドはなんの猶予もなく刀の切先を向けてきた。
「兄弟喧嘩してる場合じゃなくない?」
「お前に一太刀入れられたら、修行の成果を得られ、なにより気が晴れる。一石二鳥ではないか」
「まあ、そう易々とやられる俺ではないけどね」
カヲルが愛刀を抜く。
すると、村ひとつぶんはある広い荒地に微々たる振動が起きた。真剣で打ち合いを始めた男ふたりを鼓舞するように、荒地の土を素材にして傀儡が創り出されていく。
カヲルがうんざりと言う。
「ミカドよ、また泣いたのかよ」
「いや? まったく」
「ではなにゆえ──」
ひとつ、ふたつではない。
五十、六十という傀儡がふたりを取り囲む。土が減った大地は泥になり、足場を縮めた。
「もとは戦場と聞いていたが、こんなに埋まっていたか」
「げえ、結構食っちまったぞ」
「そんなことより」
「そんなことだと?」
「どうやら、彼女の戯れのようだ」
見上げれば女神が両手を拳にして、あどけない笑みを浮かべている。
「ほらぁ、やっぱり邪神じゃん!」
「彼女なりの激励かもしれん」
「俺が兄弟喧嘩って言ったから?」
「仲良く敵を斬れということか。まあ、肩慣らしにはいいか」
「元気だなあ」
そういうカヲルも、胸を弾ませ肩を回した。
相手は傀儡。なにも考えずに好きなだけ斬れる。ミカドが肩慣らしならば、カヲルは憂さ晴らしだ。
ふたりは背中を合わせ、同時に泥に足を沈めた。




