四十四折
「見事に腫れておりますね」
「日暮れまでの約束だ」
近衛中将は、面のなかでほくそ笑んだ。
部下を並べ従え、偉そうに腰に手をあてる近衛大将の顔の半分が文字通り紅く腫れあがっている。
昨夜、折姫の背中のことを伝えにミカドへ会いに行き、殴られた痕だ。矢を射られた傷痕含め、夜まで決して治すなと言われた。
「はい解散ー! なんかあったらすぐ知らせろよー!」
「長は春の君に従われるのですか」
カヲルの肩についた痛々しい血のりを見据えながら、後ろに控えていた中将が、訊ねる。
「ああ。春宮妃の様子を見てから、御所を出るつもりだが」
「お気をつけくださいませ。春の君の白羽の矢は、春宮妃に触れたら射るから、一尺以内に近づけば射るへ、変更されております」
「かー! 厳しいー!」
「春の君と契約し、矢を射るまで一日足らず。無節操にもほどがあります」
中将は、面のなかで呆れ返った。
中将には特殊な異能が備わっている。常に背負う白羽の矢は、ある一定の条件下で発動し、指定された箇所へ射られる。
たとえば、「ミカドが惑わされたら」を条件にして、「左肩へ」と指定すると、結界をすり抜けその通りに矢は立つ。
その異能のため中将は、主上と大将にいいように利用され、裏で忍びのような役を担っていた。
カヲルがごちる。
「いやしかし、矢の契約は二本までだろう。俺はもう使えないってこと?」
「恋文を射る命ならばお断りしますが、残念ながら緊急時に備え、まだ有効です」
「主上がミカドに譲ったとでもいうのか」
「それが、最近になって三本まで射られるようになりました」
「なにぃ? お前、いつの間に!」
「長が大将の座で胡座をかいている間に」
面のなかでニタリと笑う。
中将は近衛兵のなかで唯一、カヲルに一目置かれている存在だ。弓矢を持たせれば右に出るものはいないし、太刀筋もよい。なにより頭がキレる。いつぞやの山賊も、亥の一番に頭の首をとりに行き、敵の士気を削いだ。
カヲルは思う。
中将は異能の代償だと言って、鬼神をかたどった面を四六時中つけている。その面は頭ごとすっぽりと覆い、顎先すら覗けない。どんな顔をして矢を射っているのか。冷徹な奴だと思わずにいられぬほど、弓を引くその姿は爪の先まで乱れがない。
「弓矢の腕ばかり磨いて。お前はもう少し筋力をつけろ」
黒い狩衣から覗く細腕をとろうとするが、人間とは思えぬ脚力で塀の上へと逃げ馳せる。
「大将こそ、もう少し頭を使って異能を役立てては」
「俺の異能? 女たらしの?」
「そうやってふざけていられるのも、今のうち。私はいつでもその座を狙っておりますよ」
そう言って、姿を消した。
その日の折姫はご機嫌だった。
昨夜の歓迎会では久しぶりにお肉が食べられたし、今朝は採れたての木苺が膳に上がった。供饌のねずみは可愛く折れたので、ほかの殿舎のぶんもまとめて折っておけと命じられても、喜んで引き受けた。
だが薔薇の壺へその身を移し、そのご機嫌は一変する。
「脱げ」
神間に腰を下ろした主上がその言葉以外、発してくれない。え? は? と返しても、「脱げ」の一点張りである。
まさかとは思いながらも帝の命である。単衣一枚になると、主上は言った。
「脱げ」
「お断りします! まだミカド様にも見せたことないのに!」
「背中の痣もか」
首を傾げる。
「あざ?」
「お前さぁ、人には話せ話せとうるさいくせに、自分はどうなの?」
「はあ」
「その痣を他の男に先にみつけられた、ミカドの気持ちを心配しろよ」
「他の男? それで、痣とは」
「まさか──、己れが気づいていないのか!」
折姫の惚けた顔に、主上は深い溜め息を吐いた。
「お前の背中に紅い蛇の痣があるそうだ。それを昨夜、カヲルにみられてるんだよお前は!」
「ひっ!」
ゾッとして腕を組む。
背中なんて見ないし、見えない。誰かに見せる機会もない。折姫の昨夜の記憶は、残念ながら肉汁の余韻で終わっている。
「とにかく脱いで私に見せろ。印によっては、急がねばならん」
「は、はい」
主上へ背を向け、単衣を腰まで下ろす。
その間に主上は呪を唱え、几帳へ女御たちを映した。
「どうだ」
「どうだ、と言われましても」
女御たちが顔を見合わせる。
「瓶子の栓程度の大きさの蛇の痣が、心の臓の真後ろにございます」
「春の君と同じ痣──のようで、少し形を変えておりますね」
「蛇が二匹、みじろぎしているよう」
「絡み合っていた蛇が互いに離れようとするような、そんな形です」
「そうか」
主上は手で目を覆っていた。
「あの、ご自身で確かめられては」
「そのつもりだったんだが、思いのほか呪禁が強くて……、もういい、着ろ!」
脱げといったり、着ろといったり、忙しない。
「シオンを使役してもよろしいですか」
「ああ、早くしろ」
折姫が単衣の帯紐を結び直すあいだに、シオンが手早く唐衣を重ね合わせる。袿で手首を隠したところで、主上はようやく息を吐いた。
「さすがに同情するわ。あいつら、よく堪えてるな」
「それで、痣はどうでしたか」
「おおむね予想通りだ。ミカドの呪がお前に移った、それだけのこと。死印のような、死を招く不吉な痣ではない。ただ形を変えているのが気になる。これから梅壺に行って、稲荷神に話だけでも聞いてもらえ」
「仰せのままに」
「あっ! カヲルに会っても責めるなよ。お前が無防備なせいだ」
「はあ」
「呪禁が手首にあることを常に意識して過ごせ。まったく、よく今までのうのうと過ごせてきたな」
ぶつぶつと小言をこぼし続けるので、命令通りに部屋を出る。回廊ですぐにカヲルと行き合った。命により責めることはできないので、笑ってみた。
「ほっぺすっごく痛そう。かわいそうにねぇ」
カヲルはその無邪気な笑い顔を愛しいと思う自身に、怒髪天を衝いた。
「お前……っ、他人事じゃねぇんだよ!」
「どうして。私のせい?」
「お前のせいだ! ミカドも怒りを通り越して落ち込んでいるぞ」
「落ち込んでる……? なぜ」
「そんなに信用ならないかって。夫婦ってさ、喜怒哀楽を分かち合うもんなんじゃないの? 俺はお前みたいになんでもかんでもひとりで背負い込む嫁、正直ごめんだね」
八つ当たりである。
我に返れば、回廊の床に涙が水玉を描いていた。
「え? 泣いてんの?」
「ひどい……っ」
「俺? 俺のせい?」
「しょうがないじゃないっ、知らなかったんだからー!」
「そうきたかー!」
カヲルは頭をかきむしった。
たしかに己れひとりでは気づきにくい。折姫には、女御には必ず居るはずの側仕えが居ないことをすっかり忘れていた。
「すまんかった! まさか本人が知らなかったとは思わず!」
「カヲルが勝手に見たくせに……っ、どうしてそこまで言われなくちゃいけないの!? 私だって、ミカド様にみつけてもらいたかった!」
「わー! そうだよなあー! 謝るからどうか許してください!」
「いや! ぜったいに許さない!」
「えー! やだやだ、女の許さない、長いからやだ! なんでもするから今すぐ許せ!」
「では今すぐに、ミカド様の誤解を解いて! あと今夜出されるビワの蜜煮、カヲルの分もちょうだいっ!」
え? それだけ?
口にはしなかったが、顔には出てしまった。
折姫はシオンを喚ぶと、「この変態、その辺の沼に捨ててきて」と命じてから、梅壺へ渡った。
その頃には泥々に機嫌が悪かった。
雲泥の差とはこのことだ。
ヒコに「それが人に頼む態度か」と叱咤され、「ヒコ様は神様では」と返すほど、ねじけていた。
「こんの、小娘……!」
「父上ー! 怒りをお鎮めください!」
キリヤが仔ギツネ姿のヒコを抱きしめた。久しぶりの息子との抱擁にヒコの尻尾がプロペラのように回る。それからキリヤは折姫の機嫌の悪い理由を幼さゆえにわかりやすく説明した。薔薇の壺に身を置くキリヤは、痣のことをおしゃべりな女御から聞いていたし、カヲルとのやり取りは庭でしっかり見ていた。ヒコの息子だけに目耳はやたらと優れているのだ。仲立ちに間に合ってよかった。
ヒコは鼻を鳴らした。
「息子に免じよう。どれ、痣を見せてみよ」
折姫の目は、もうずっとすわったままだ。
どうせ素直に脱いで見せても、可視できないなどと理不尽なことを言い出すに違いない。
キリヤが遠慮がちに言う。
「私が見て、父上に伝えましょうか」
「名案です。お願いします」
几帳を隔てられた際は不満げであったものの、間もなくヒコは人のなりに変幻し、更には釣殿まで逃げた。
戻ってくる頃には一枚の絵が描き上がっていた。
「お前、呪禁がひどくなってないか」
「まあまあ、これをご覧ください」
「なにこのミミ──」
「ちなみに、キリヤが描きました」
「趣があって大変よろしい」
とは言ったものの、何を描きたかったのかは、わからない。波線が二本、半紙いっぱいに揺蕩っている。
キリヤも絵の才能のなさには自覚があるようで、申し訳なさそうに説明を付け足した。
「ああ、蛇ね。蛇の痣か」
「主上のお話しでは、ミカド様の痣が私へ移ったそうなのですが、その痣が形を変えているそうです」
「桜の御息所が、腹の子を蠱毒から護るためにつけた呪か。御息所の御霊は消滅したが、強い怨念が遺り、呪へ宿ったのだな。人の怨とは誠に恐ろしいものよ」
「では、痣に御息所の怨念が宿っていると」
「安心しろ。怨念は呪となり、完全に消えた。ただし呪は、呪だ。痣をつけた本人が消滅してしまった以上、その呪はお前に一生、ついて回ることになる」
折姫の背中に冷たいものが走った。
機嫌が悪いなどと、言っていられない。
もしその呪が命を縮めるとしたら。身近な人間を苦しめるものだとしたら。
「どうかお教えください。私の身体には、一体どんな呪いがかけられているのでしょうか」
「知らん」
「は?」
「は? じゃない! 蛇が形を変えているというなら、呪の縛りも変わっているはずだ。それはお前が己れでみつけるんだ。春の君がそうしたように」
「ミカド様が?」
「ふたつで愛を囁けぬと知った。果たしてお前は何年かかるかな」
「私には、そんな時間は遺されておりませんが」
「は?」
「は! そうでした! 私、生きるんでした」
自身を取り戻したように言う。
直ぐに自死を匂わす、折姫の発言にヒコは狐疑の目を向けた。
白百合殿の中宮を救うため、自身の命を犠牲にした彼女には呆れるばかりであったが、もしやその頃からなにかに蝕まれていたのではないだろうか。
──時間は遺されていない。
少なくとも、春宮妃として迎え入れられ、幸せに満ち溢れているはずの女が、発する言葉ではない。
「それが痣の呪いだとすれば厄介だが、内宴より以前からとなると、どうも収まらん。……お前、まだほかに印をつけられているのではないか」
「ほかにも!?」
「身体を調べるか──、薔薇の壺の女御が適任だな。今日じゅうに見てもらえ」
「はい」
折姫はげんなりと肩を落とした。
痣の呪いを知るために梅壺に来たのに、まさかの追加課題である。呪いの意味探しに、新しい痣探し。
人として、まともに過ごせる一日はないのかと溜め息を吐きながら、キリヤの膝にのろうとする餓鬼を扇子ではらった。
「す、すごい。ひと祓いで浄めた」
「帰ります。キリヤはどうする?」
「その、父上に聞きたいことがあって……。私は少し、残ります」
顔を紅潮させて言う。
ヒコはコン、と一度咳払いをした。
「気に病むでないぞ。狐はもとより早熟であるし、呪禁を目の当たりにしたのだから無理はない」
「やっぱり……、そういう……」
「なにがやっぱり?」
「はいはい姫様、おやつでご機嫌直しましょうねー!」
むず痒い空気を読んだシオンが折姫を連れ、花びらを残して消えた。




