四十二折
早朝にシオンを喚び出し桜の壺へ行こうとすると、寝ぼけ眼のカヲルに呼び止められた。
「少しいいか」
「うん」
今日はカヲルが冷や水を準備したが、折姫はそれに口をつけることもなく、縁に腰をかけることもしなかった。
勘づいているなと、カヲルは溜め息を一度、噛み砕くように話した。
「昨夜、お前が寝たあとに正式な勅命が出された。今日から六月の大祓までミカドは留守にするから、お前はこのまま薔薇の壺に移れ。詳しい話しは主上からあるから、今日は寝るなよ」
「留守? ……そう、もう、お会いすることも叶わないのね」
「そんな大層な。今支度をしているから、会っていけよ」
「ううん。禊があるから、もう行く」
「おい、意地を張るな。少し待てって」
のばした手は、花びらを掴んだだけだった。
正殿の神事には珍しく、主上が立った。元より主上の務めであるし、昨日のミカドのあとだ。訝しむものは居らず、折姫もまた淡々と供饌を折った。
その日の供饌は、人参であった。
説教を今か今かと待っていたのだが、そんな日に限って主上は押し黙ったまま。後宮をまわりきった八つ刻に薔薇の壺の神間に入ると、主上は女御たちを起こさぬまま、魔法円の上で胡座を組んだ。いよいよかと折姫も正座をきめる。すると主上は力なく笑った。
それから首を深く、膝の高さまで下げた。
「主上ともあろうお方が、およしになってください!」
「いやお前の目が覚めるかと思って」
「おふざけでしたか!」
「ふざけてはいない。こうして頭を下げるほど感謝しているし、すまないとも思っているよ」
また悲しげに笑む。
「さっそくだが、お前の折り紙のおかげで謀叛人が明らかとなった。なにを目論んでいるのかもな」
「それは、どなたですか」
「と、好奇心が勝り自ら訊いてきた奴には話さんことにした。口が軽いし顔に出るからな」
ちなみにカヲルがそうだったと、そこまで言われては閉口するしかない。
「いずれわかることだ。折姫は、大祓の内容をミカドから聞いているか」
「はい。一年の穢れを人形に託し、浄め祓うのですよね」
「去年は鯉の件もあり、高官のみ密やかに行われたが、今年は違う。御所裏の川上まで牛車でのぼり、盛大に宴を催す」
「御所の外へ出るのですか」
「年末の大祓をも略したため、御所の守護神である水神が御社へ直々に、祝詞奏上を望まれたのだ。従五位以上、後宮は女房まで全員参加だ」
「では私も」
「お前は絶対だ。私とお前で祝詞をあげる。この日のために川の水で禊を続けてきたんだろうが」
ああ、あの冷たいお水は水神様の座す川のお水でしたか。
などと今さら言えず相槌を打つ。
「そして謀叛はこの大祓にある。人を集めた川上か。人を払った御所か。どちらも見張れるよう、大がかりな仕掛けが必要だ。加えて内大臣が怨霊化すれば、太刀打てる人間はミカドだけ。そのためミカドは寝食もままならぬ務めを担うことになった。それに関してすまないと思う」
「嫡子によくそのような役を任せられたものですね」
「代われるものなら代わってやりたいさ」
殴ってもいいような皮肉にのってこない。
折姫は口を閉じ、頭を垂れた。
几帳が紅く灯るまでは顔を上げずにいようと待ったが、主上は話しを続けた。
「ミカドは国を背負う覚悟を、神々へ示さねばならない。たったひとりで、命をかけて。その背中を黙って見送るお前は、最も皇后に相応しいと言えるだろう。きっとお前の胸の内は、こうだ。
たった一年連れ添った仲、このまま逢えずに自分のほうが死んだところで、ミカドはすぐに忘れてくれる。どうかお幸せに」
その通りだ。
自分のことなど、さっさと忘れて新しい恋をして幸せになって欲しい。
心のなかで頷きながらみつめていた板間に、はたはたと涙が落ちる。
「ミカドは一生忘れない。一生悔いて祈り続ける。俺を見ろ、折姫。成れの果てだ」
折姫が顔をあげると、主上は涙をそぼふらせたまま手を広げていた。
「桜の御息所は、私が初めて愛した女だった。彼女のために、春宮御所の隣に桜の壺を建てたんだ。あの頃は幸せだった。……それが、いざ玉座に座れば、皇后を差し置き桜の壺にばかり通う私を、お前のように彼女は拒んだ。私は彼女の言葉のままに、カリナの帳台で寝たし、後宮もまわったよ。どれだけ側室をとろうと、あなただけを愛していると、散々宣ってね。
蠱毒を盛られたあとは、彼女は私を拒絶し続けた。触れるどころか、遠目に見ることしか叶わなくなった。それでも私は彼女を愛していた。その十年は、果たして幸せと言えたか? 私も彼女も後宮も、ぐちゃぐちゃだ。そして彼女は気づいてしまった。
怨霊にでもならなければ、主上は初恋を断ち切れないと」
主上は一冊の本を折姫の膝もとへ滑らせた。ミカドから取り上げた書物だ。
「厭魅の書……」
「彼女は蠱毒で死んだのではない。蠱毒に苦しみながら、最期は厭魅を選び、自死した。怨霊になる呪いを自らにかけてな。すべては、私のために」
しおりを挟んだ頁に、その呪禁が載っていたのか。主上はその一枚を破ると、手で細かく割いていった。
「笑うといい。彼女の思うがままだ。彼女が人でなくなり、一年たたずして中宮を迎えた。彼女の魂はもう二度と輪廻することもなく、消え失せたというのに、私は────、愛する人ができてしまった。シオリを、愛してしまったんだ。どうしようもなく」
主上は手のなかの紙屑ごと、顔を覆った。紙が涙を吸っても、まだ溢れた。
折姫の頬も濡れた。
──なんて、かわいそうな人。
純粋に愛する人を想い、その人の言葉を信じて生きただけなのに。多くの女を、その子どもたちまでも巻き込み、大きな蠱毒を作ってしまった。愛した人は怨霊となり、それだけでも悲しくて辛いのに。怨霊は人を啖い悪鬼となり、次に愛する人へと取り憑いた。
最後は完全に消え去ることで、まだ主上を苦しめている。
そして、目の前でその姿を見せつけられても、自分も同じことをすると、気づいてしまった。今は主上の手のなかの、紙屑を異常なまでに欲している。
「頼むから、ミカドを二の舞にせんでくれ」
主上は呪を唱えた。
神間に女御を喚ぶ呪ではない。
瞬きを一度。折姫は御所正門、桔梗門の砂地に突っ伏した。
「いったーい!」
身体も痛いが、涙に濡れた顔に思いっきり砂がついてしまった。案の定、目に砂が入りまた泣いた。
「折姫……? どうした。何があった!」
男が騎馬で駆け寄る。女がひとり、涙と砂で顔をぐしょぐしょにしているのだから無理はない。手を引かれたのでその手を握ると、ひょいと腰を持ち上げられ、男の前に乗せられた。まずい、こんなところをミカドに見られたら、またいらぬ誤解を招いてしまう。
「あ、でももう、ミカド様はいないんだっけ」
「私がなんだって?」
泣き腫らした目で見上げる。
ミカドだ。
馬の前脚がガクン、と上がった。
「わー! こら、落ち着け! 折姫も!」
「私!?」
「あなたが折った暴れ馬だろう! あー、もう、やっと手懐けられたと思ったのに」
去年の花宴で折姫がミカドに折った馬の折り紙だ。抑えきれない愛を詰め込みすぎてしまった。
「あ! でしたら、これを」
袖から今日の供饌を取り出す。人参だ。
ミカドが馬の口もとへ人参を放り投げると、顎で拾い上げ、美味そうに咀嚼した。同時にすん、と大人しくなる。
「おお、馬が変わったみたいだ」
「今日は増して落ち込んでいましたから」
「よし、よし、いい子だ」
馬のたてがみを撫でたのではない。
折姫の頭を撫でた。
「なんで思いつかなかったんだろう。こうして馬の上なら、惑わされることも──、わっ!」
また馬が一段と暴れだした。
「人参、もっとない!?」
「どうぞ」 何度も折り直したので、出来損ないなら袂に山ほど入っている。袂のなかを覗いたミカドは、ふき出した。
「私のことは言えないな。着物のなかをこんなに散らかして、ほんとうに姫様?」
「き、今日だけです!」
「そう?」
ミカドは馬の口に人参を二、三放り込むと、桜の壺の方角へとゆっくり脚を進ませた。
「ねぇ、こっちを向いて」
「ダメです」
「もう、私の顔も見たくない?」
「いいえ! 砂だらけで、私が見せられる顔ではないのです」
「じゃあ、見ない」
強引に顔を引き寄せると、あっさりと唇を重ねた。頬を包んだ手のなかがザラつく。
「ふふ、見なくても砂だらけだね」
「み、ミカド様、しっかり前を見て馬を走らせてください!」
「私に目はいらないよ」
折姫の袖から器用に人参を取り出して、また馬の口へ放る。今度は砂を拭うようにして口づけた。重ねるたびに、深くなっていく。
「……口のなかは、きれいになったかな」
離れ際にミカドの紅い舌に砂がのっているのを見て、折姫は意識をとばしかけた。
「主上から大祓の話しを聞いた? 母上のことも」
「はい。つい先ほど」
「私も昨夜、初めて知った。主上はあなたの前でも泣いてた?」
「はい」
「驚いたよ。あんなに感情を露わにしたあの人を見たのも、初めてだった」
泣き虫だなぁ、とは思わない。
よく二度も同じことを話せたなと、折姫は思う。それほど、自分を反面にして、息子たちに学ばせたかったのだ。
「着いたよ」
桜の壺の門が開いている。
扉の前では、シオンが立って待っていた。
「シオンは、ミカド様に従うのでは」
「御所のなかも安全ではないし、なによりシオンが、あなたがいいって。それに精霊を連れていては、神々へ誠意を示せていない気がする。帰ろうと思えば、すぐに帰って来れてしまうし!」
馬を降り、折姫を受け止めるとそのまま強く抱きしめた。
「あーあ、行きたくなくなっちゃった。このまま帰りたい」
「まだ外にも出ていませんよ」
「相変わらず冷たいな」
折姫はこの期に及んでまだ思っていた。
忘れてくれるなら、そのほうがいい。
できることならミカドの頭のなかから、自分の記憶を消してしまいたいと。
「言っておくけど。私はあなたのことも、ちゃんと聞いているよ」
胸に埋めていた顔を上げ、ミカドを見た。涙を流せぬミカドは、すべてを紅い唇の奥へ流し込んでいるような、そんな顔をしていた。
「それでも私は行くよ。あなたを死なせないために。主上も、カヲルも全力で、折姫のために動いてる。だから、あなたも生きる努力をして。私のために、生きるんだ。さあ言って。絶対に、死なないって」
折姫は眉を下げ、唇をふるわせて、言った。
「死に、たくない」
「よしよし。上出来だ」
ミカドは頭を撫でた。
折姫の顔はまた、ふき出したくなるほどひどかったが、長い髪ごと抱きしめると、彼女の魂そのものに包まれるようで、肌に触れるよりずっと、離れがたくなってしまう。
「折姫、愛しているよ。……もう、行くね」
「はい。あの、よしよし、ありがとうございます」
「そんなに、して欲しかったの?」
「はい」
折姫は子どもみたいに鼻を啜ると、あどけなく笑った。恥じらいながら、耳もとで囁く。
「私も。ミカドが大好き」
直後、ミカドがそのまま門を潜ろうとしたので、シオンは冷静に折姫から引き剥がすと、馬を呼び寄せ、踏ませた。
なんだかんだ、ミカドが御所を出たのは、空が黄昏てからだった。




