四十一折
後宮をまわりきった逢魔どき。
強い夕陽が広間を温める芙蓉殿で、折姫は不服を顔に貼り付け、正座で寝ていた。主上の玉音に耳を傾けていたのだが、とにかくミカドに謝れと何度も同じことばかり繰り返すので、為方ない。庭では狛犬の吽が、主上と阿に置いていかれ、拗ねて伏せている。
「もし」
女の声が耳元で囁かれ、怨霊! と飛び起きると、華やかな姫君が困った顔をして座っていた。
「よくおやすみのところ申し訳ありません。とものものを探しているのですが、通りませんでしたでしょうか」
「お力になれず申し訳ないのですが、残念ながら」
掃司に掃かれても爆睡してました。
折姫の居た広間は、女御を啖う鯉がでた場所だ。歴史にもまだ新しい。掃除が終わったあとにわざわざ立ち入る女官はいない。
「しかし心許ないですね、お連れの方の衣裳の色柄を教えていただけますか」
折姫は寝惚けながらも、空を見た。今ならまだ今日ばら撒いた折り紙の効果を試せる。
主上から教わったばかりの呪を唱え、袖のなかで折り紙を握った。
「その、私の乳母なのです。色は藤色、藤の花の模様でございます」
「なるほど……、これはまた、自分が怨霊になった気分です」
「怨霊?」
「失礼を。姫様は几帳の奥へ、なるべく息をひそめていてください」
「はい」
折姫は袖のなかから鳥の折り紙を取り出すと、「左大臣様、取り急ぎ芙蓉殿へ」と呟き、飛ばした。それから扇子を開き、居住まいを正す。間もなくして、庭から右大臣が姿を現した。
「これはこれは右大臣様、ご機嫌麗しゅう」
「折姫様、起きて! いや、ごほん。このような日暮れに芙蓉殿でおひとり、不用心ではありませんか」
「お恥ずかしい話し、うたた寝をしてしまいまして。すぐに下がりますが、右大臣様は何様で?」
「いや、その、人を探していてな」
「広間にはもうずっと、私しか居りませんが」
「そうですか、失礼した」
失礼してもまだ足を迷わせていたところに、お次に現れたのは左大臣。息を切らし、鬼のような顔をして右大臣の肩をつかんだ。
「ここに居りましたか、右大臣! そろそろ下がりましょうぞ。我々が残っていては、若い者がやりにくい」
「あ、ああ。そのつもりだ」
右大臣は憮然として踵を返した。
帰ろうと声をかけておいて、左大臣は折姫のほうへと駆け寄る。
「いやぁ、助かった! 娘はそこか」
「はい、ご無事ですよ。ただ一の君様の乳母が御寝所に閉じ込められております」
「寝所? あんな物騒なところに女を閉じ込めるとは、まったく信じられん男だな。私が行く、すまないが今少し待っていてくれ」
「はい」
几帳の奥から姫君が顔を出す。
左大臣の長女、一の君だ。
「あなた様が、折姫様……」
「お噂に違わずお美しい」
「え?」
「え? 違うの? 毎回このお世辞言われるのだけど」
「そんな、お世辞などでは」
「それもよく言われる」
毎日何人、何十人と挨拶がわりに言っていくので折姫はうんざりしていた。周りの女官と比べても、自分のような手で握りつぶしたみたいにちいさな女、どこが美しいのか。
姫君がまた困った顔をしているので、気を取り直した。初々しくも気品溢れる一の君のほうが余程愛らしい。
「こちらからお呼び出しいたしましたのに、なおざりにしてしまい申し訳ございませんでした。芙蓉でお過ごしになっていると聞いて安心していたのですが、こんなことになろうとは」
一の君は、今日より巫女見習いとして参内し、折姫に付き従う予定であった。だが今朝の神事を見た主上が急遽、中止にされた。御所の神々は怒りを通り越して、どうしたらミカドの機嫌を直せるか会議をする始末。
折姫を幾度問い詰めようと、本人にミカドを傷付けた自覚はないし、寝不足ときた。これでは見習いをつけている場合ではない。それに折姫と一の君がふたりで居るところなど、今のミカドに見られては災難だ。
主上は折姫を一日監視し説教をたれている間、一の君には芙蓉殿で過ごされよと命じた。御子の過ごす芙蓉殿は常に近衛の見張りがあり、何かあればすぐに知らせも来る。
最後に人をはらい、挨拶程度にふたりを行き合わせようと思ったのだが、まさか折姫が本腰を入れて眠ろうとは、占にも測れぬことだ。あろうことか玉音を子守唄にしたのだ、主上は怒りを通り越して呆れ、帰ってしまった。
そして右大臣がその一部始終を紫宸殿から見ていたのだった。
「芙蓉殿には、出居にいる一の君様と寝汚い私だけ。乳母を閉じ込めてしまえば、右大臣が一の君を連れ去っても公にする近衛はいないでしょう。あなたがご自身で広間に来ていなければ、本当に危ないところでした」
昨日の宿題は、芙蓉殿にも撒かれている。撒いた折り紙と同じ折り紙を握れば、殿舎の全容が脳裏に映し出される仕組みだ。閉じ込められた乳母と向かって来る右大臣の位置を知り、すぐに左大臣へ知らせた。
今ようやくに自身の置かれた立場に気づいた一の君はちいさく嘆声をあげ、深々と頭を垂れた。
「なんとお礼を申し上げたらよいか……! ありがとうございます!」
「美しいお顔をお上げください。私が寝ていたのがすべての元凶です」
主上が居れば、「まったくだ」と罵るところである。
「それにしても、よくここまで足を運べましたね」
御子を育む広間は紫宸殿からは見通せるが、芙蓉殿の裏手にあたる。表座敷となる出居からは長い回廊を渡り、角を三つ曲がってようやく辿り着ける。
一の君は花が咲いたように笑った。
「日中はこちらで過ごしておりました。恐れ多くも御子様たちがお相手してくださり、とても愉しくて、あの、この折り紙とか! これも!」
勢いよく膝を進ませると、手にいっぱいの折り紙をかかえて几帳から出てきた。紙飛行機に人形。いつしかカヲルと作った杖やパズルまである。
「すべて折姫様が折られたのだとうかがいました! 私、特にこの杖が、すごく感動して……!」
言うなり、掃除したばかりの床に動物の折り紙を広げていく。一の君が呪を唱えると、動物たちは一列に並び、きをつけをした。
杖を振る。
「さん、はい」
杖の動きに合わせて動物たちが歌を歌い、踊りだした。杖からは星粒がこぼれ、ちいさな舞台のようだ。
折姫は胸が熱くなった。もじもじしているだけだった動物たちが、歌って踊っている。
「すごい……! この子達が、こんなに胸を張って踊れるなんて!」
「すごいのは、折姫様です! 夢のような時間でした!」
「御子様たちもたいそうお喜びになられたことでしょう?」
「私が遊んでいただいたのです。御子様たちに、たくさん教わりました! どれも私の想像を超えたものばかりで……!」
「やだ! 嬉しい……!」
折姫が一の君の両手を取ると、ふたりはキャッキャッと喜びを分かち合った。動物たちも嬉しそうに踊っていたが、それを打ち消すように書物がバサバサと雪崩となり落ちてきた。星粒がぺちゃんこに潰れる。
「蠱毒。厭魅の書……?」
広間を散らかすには、どれも禍々しいものばかりである。見上げればミカドが顔を青白くして立っていた。
「なに、してるの」 片言である。
背後から左大臣が顔を出した。
「乳母を救い出すのに、春の君が手伝ってくださいましてな。折姫が広間に居るから、ご一緒に下がられてはとご提案したのです」
「そうでしたか」
空を仰げば、陽が隠れている。
「残念。もっとお話ししたかったのに。また来てくださる?」
「私からは、なんとも……」
寂しげに一の君が左大臣を見やれば、左大臣はミカドを見据える。ミカドは書物を拾い上げると、無言で踵を返した。
「難しそう」
左大臣は一の君の手を取り、言った。
「さすがに今日のことは私からも申し開くとするよ。改めて、娘を護ってくれてありがとう」
「とんでもございません。私は一の君様にお会いできて、嬉しかったです」
嘘のない折姫と、にこやかな娘の顔を交互に見て満足げである。
「帰ったら主上と春の君へ、すぐに文を届けさせるから。行こうか」
ふたりが下がると、折姫もまたすぐ吽にまたがり桜の壺を目指した。思い返せば左大臣、わざとあの場にミカドを連れ出したのではないだろうか。
左の桜に右の橘。どちらも油断できない男だと、閉じられた門を見上げる。もっとも油断ならない男を忘れていた。
「吽、入れる?」
「まさか。春の君の結界は、主上にも破れません」
「締め出されたー!」
折姫は扇子を恐る恐る広げた。扇子のなかは明日の予知。吉ならば、結界のなかへと入れる。凶ならば入れない。
美しい桜の木の下──、白ネコは折り紙に埋もれ、うつ伏せに横たえていた。
「明日は宿題山積みか! 凶!」
こうなったら、今日はひたすら惰眠を貪るべきだ。折姫は薔薇の壺の方角へと吽を走らせた。
薔薇の壺の門を潜ると、妖怪たちが急な来客に色めき立ち、出迎えてくれた。薔薇の壺の女御、カリナへかくかくしかじか、説明しているうちに夕膳が並ぶ。油すましと火消し婆のご飯は格別だ。折姫は目を輝かせて膝を揃えた。
「いただきまーす!」
「食べ終えたら、湯浴み前に手首を見せてくれる?」
「はい。でも、全然治っていませんよ」
「それでもあんたたち夫婦の話を聞いていると、手首の解呪が先決よ。だからミカドも、夜御殿の禁書なんか持ち出したのでしょう」
芙蓉殿はむかし、夜の御殿として使われており、主上だけが立ち入れる書庫に禁術関係の書物が保管されている。ミカドはひと目につかぬよう最短経路を通ったのだが、あろうことか出入り口で左大臣と出くわしてしまった。堂々と持ち出したことがバレて、主上の逆鱗に触れたのはつい先ほどのことだ。
「不憫でならないわぁ。夫婦なのに、抱きしめ合うこともできないなんて」
折姫の力を必要とする以上、初夜はお預け。せめて呪禁のない浄らかな肌に触れたいと思うのが、男の常というものだ。女であるカリナですら見ると少し熱っぽくなるのだから、同情せざるを得ない。
「ねぇ、手首を掴まれたとき、本当になにも言っていなかった? 呪のような」
「それがまったく」
「ではやはり、手のなかに仕込んでいたのかしら。それでも紙から焼き写すなんて方術、自然治癒以外にどうしたらよいのか」
呪書きの厄介なところは口で唱えず紙に書き記すため、解呪の際にも詠唱では解けない。
「あっ、そういえば! 手首をつかまれたときに、カリナにはわかるかなって言っていました」
「言ってるんじゃない! ……え? 私に?」
夕膳の席での会話はここで途切れた。折姫が湯浴みに席を退いたからだ。
折姫の居なくなった席で、みな顔を見合わせた。
「喧嘩だけが、原因かね」
「ほかにもっと深い理由があるのでは」
「あの娘が食べ物を残すなんてねぇ」
残すというか、小鳥が啄んだようにしか食べていない。どんなに辛いことがあっても、皿をさらえることは忘れなかった折姫が、まるで皿のなかが見えていないようだ。巫女になると言い出した日も、おかわりの果物を持って御帳台へ上がっていたのに。
「ミカド。あんたが責任もって食べていきなさいよ」
「はい」
ミカドの顔を覗き込んだ妖怪たちは、こちらも深刻だと溜め息を吐いた。
彼にももちろん、言い分があった。
朝のことは、己れに落ち度があったのだから、ひたすらに謝るしかない。だが芙蓉殿でのことは気になる点が山ほどある。なにゆえ側室候補の姫君と手を取り合っていたのか。まさか今朝のことで愛想も小想も尽き果て、春宮妃の座を譲ろうとでもしているのでは。問いたださなければ眠れないと、夕膳に足を運べば、これだ。
大食らいの折姫が、出来立てのおかずに手をつけていない。大好物の刺身すらも。
ミカドを打ちのめすには充分だった。
カリナが釘を刺す。
「寝不足で食べられないだけかもしれない。だから、今日はここで寝かせてあげて」
「はい」
「もう! ここで闇の精霊喚ばないでよ、新築なんだから!」
すでに半べそのミカドの背中を叩く。
残飯の香りが漏れていたのか、カヲルも酒を持って現れ、その夜は小声で激励の宴となった。




