四十折
春宮御所の西の対には畳が六畳敷かれており、散らかすのはその上だけと折姫に決められている。畳の上はどこからくすねて来たのか皇族専用の布団が三枚重ねられ、さらには本やらボードゲーム、飲みかけの瓶子が散乱していた。
そしてまたさらに、カヲルという大きな荷物が敷妙の上に置かれた。四肢を投げ出し、腹をさする。
「はー! 食った食った。シオン、スピードやろうぜ。負けた方が大炊殿からツマミとってくんのな!」
「仰せのままー!」
カードを広げる空間を開けるため、手で払った瓶子がころころ転がり、縁にいたミカドの膝に当たった。
「すまん、ミカド。ミカド?」
反応がない。
今か今かと構えるシオンに訊ねる。
「あいつ、なんかあった?」
「大ありですよ。あろうことか、お腹を空かせた姫様に喧嘩売るようなことを言って」
「ふーん。……すまん、シオン。ミカドとちょっと話してくるわ」
「御意のまま」
瓶子を持って縁へ向かうカヲルに一礼すると、「待て」が得意なシオンは愛しい主人のためにもと、聞き耳をたてて寝転んだ。
「で? 今度はなんで怒らせた」
ミカドの空になった盃に酒を満たす。
「……酒は、もういいよ。頭を冷やしたい」
「それで誰が救われんの? さっさと謝ってこいよ」
「出来たら苦労しない」
「あ? すまん。ごめん。最低三文字だぞ」
「それで、御帳台から顔を出されたらどうする」
「押し倒す」
なるほど。ぽん、と膝を打つ。
解決法を思いついたのではない。打つ手がないことに気づき、打った。
「蛇の生殺しとはこのことか。明日の朝には謝れよ。なにを言ったかは知らんけど」
「よしよし、しなかった」
「はあ?」
昼間のことを思いだす。
「もしかして、俺のせい?」
「いや、違うな。私ではなく、折姫が言い出してきた。頭を撫でて欲しいって」
「それで、お前は出来なかった譯だ」
「────っ、無理だろ。御髪は!」
頭くらい撫でてやれよ、とは言えない。
ミカドの性的嗜好が御髪にある、という理由は置いておいて、たとえば手を差し出し、向こうから触れられる分には堪えどころがある。だが己れの意思で手を出すということは、その先誰も止めるものがいない。そして折姫は、恐らくどんな仕打ちをされても拒まない。笑って受け入れてくれる。それに気付いた男は地獄だ。
結局、酒を煽るミカドの頭を撫でることくらいしかできない。
「よし、よし」
「いいよなぁ、お前は触れて」
「死と隣り合わせだからな」
折姫の懐には、ミカド以外の男が触ると爆破する御守りが仕掛けられている。
「こんな無駄な喧嘩を繰り返さないためにも、さっさと内大臣を炙り出したいな」
「上達部に謀叛人がいるんだ、主上はいつになく慎重だ」
「とは言っても、御所の外は広い」
「どう見積もっても、大祓に間に合わせるだけで精一杯だ。呪禁だけでもどうにかしたい」
「呪禁といやぁ、芙蓉殿に禁書を管理した書庫がなかったか」
「主上の許可がいる。今はそれどころではないと叱咤されてお終いだ」
「ところがどっこい」
ミカドの鼻先で鍵をチラつかせる。
「去年、御寝所へ入った際にみつけた。やるよ」
「お前ほんとうに皇族か?」 手ぐせが悪すぎる。
「俺も常々思っていた。きっと前世で徳を積みすぎたんだな」
今宵のカヲルはずいぶんと余裕がある。
細部に渡り訝しむミカドの悪い癖がでた。
「昨夜はどこで寝た」
薔薇の壺で寝起きし、そのまま役をさぼって寛いでいたのかと思えば、早朝には近衛に話を通し、為事を終わらせて来たのだと言う。
果たせるかな、カヲルの顔は筋肉を溶かしたように緩んだ。
「芙蓉殿で一夜の夢を」
一年前のちょうど今ごろは、芙蓉殿で毎夜のように女を抱いて眠っていた男だ。ただカヲルが居付かなくなってからは寝泊まりする女房も減り、賑やかな夜は花宴のあとの昨夜が久方ぶりのことであった。
ミカドの冷眼が刺さり、筋肉が戻る。
「いいだろ。春宮御所に結界まで張られて、ひとりで寝れるかよ」
泥酔した花宴のあと、気づいたら紫陽花殿は真っ暗闇。ふたりを冷やかしにいくかと魔法円を描いたが反応がない。ついにこの日が来たかと腹をくくり、空を仰げば朧月。風流な夜には笛でもと、いつも吹いている芙蓉殿へ身を移したが、広間がやけに騒がしい。興が削がれ、立ち入らぬ方角へ足を向けてみれば、御簾のなかで女が気持ちよさそうに歌を歌っていた。声音に艶があるが、まだ拙いところがある。
笛の音を合わせれば、その諧調に心を揺さぶられ、腰を据えた。曲の終わりには御簾の奥ばかり見据えていた。御簾は月を隠す雲のようだった。
さて月の顔ばせはと、酔いに任せ強引に雲の奥へ潜ると、驚くことにうら若き姫君がひとりで座っていた。宴のあとと言えど、従者をつけずに夜を過ごすとはあまりにも無防備でならない。理由を訊ねれば、決められた結婚の前に、一夜限りの夢を見てみたいと言う。
「ピッチピチの美少女がよ? 引き下がる俺じゃないわけ。歳は教えてくれなかったけど同じくらいかなぁ。豪奢な細長を羽織っていたが、着慣れていないかんじがまたそそられてさぁ」
「情緒の欠片もない話し方をするな」
「しかしかぐや姫にたとえるとしては男まさりというか、己れに奔放な女だった」
「男まさり? 成人前で芙蓉殿に泊まれるほどの上位貴族、十中八九、私かお前のどちらかの側室に育てられた姫君だ」
「だからいいんだろ? お前はどうせ断るし、俺の嫁なら運命だったのですねと、両手を広げて迎えられる」
「そうかお前もついに身をかためるのか」
「右大臣が正室だけでも入れろとうるさくてな。放っておいたら邸に見知らぬ女が住み着いていそうだ」
右大臣はカヲルの伯父にあたる。
元服の祝いにと、御所の外に私邸を建ててもらったのだが、一度も立ち入っていない。もっとも、御所から出られぬ役がほとんどであるし、主上もそれを許している。
「カヲルの正室か。苦労しそうだ」
「だからこそ彼女のような、自由な人がいい。いや、きっとそうだ!」
「いや、そこは苦労させないと言えよ」
「無理だろ。家に帰って来ない夫は、たとえ為事であろうと浮気していると思われる」
道筋をつけた顔で盃を干す。
カヲルなりに思惟を巡らせていたのかと、ミカドもまた酒と共に飲み込んだ。
しかし宴の席に男まさりな姫君など座っていただろうかと振り返ると、酔っていたわりによく憶えているものだ。己れも存分に打算的だと、自省した。
*
男ふたりが縁で酔いつぶれる一方、折姫はせまい御帳台のなかで、ひとり長い夜を過ごしていた。
「頭も撫でてもらえないのに、夫婦だなんて笑っちゃう」
いつしかミカドにもらった結婚指輪を、小箱におさめたままみつめる。
指輪は船でつけてもらってから、一度も指に通していない。翌朝の神事で、供膳を折るのに指に嵌めていては神々に失礼だと、右大臣に外すよう命じられたからだ。
嵌められない、お飾りの指輪。
自分を象徴するようだ。
「にゃ」
「あら、ネコの姿でなんの御用?」
飼い猫のクロが入ってきたときはすぐに追い返そうとしたが、遠くからミカドの声がしたので、好きにさせた。
すると、珍しくクロは慰めるように、膝へ乗ってきた。慎重に目の色を読む。
「琥珀色……、クロだ。ミカド様じゃない。私の帳台へ入ってくるなんてほんとう、どうしたの?」
黒色に染まっていれば、ミカドが憑いている。
ミカドではない普段のクロは、まったく折姫に懐いていない。ミルクをくれる人、程度の認識だ。皿が近くにないと寄っても来ない。それが今日は大人しく膝で丸まっている。
「ああそうか。もうしばらくいっしょに寝てないもんね」
半月前からだろうか。ミカドが桜の壺の帳台で眠らなくなったのは。深くは本人に言及しないが、クロと眠るひと時が安らぎであった折姫は、以前から落ち込んでいた。クロを撫でるのも久しぶりだ。
クロは、毎晩いっしょに寝ていたから、日中は甘えてこなかったのかもしれない。だから今日は撫でてもらいに来たのだ。そう思うと腑に落ちた。
しばらく撫でていると、クロの背中に涙が落ちた。
恐らく余命三月──、その間、ミカドにひと触れもしないと誓われた。どうやら主上の望み通り巫女として、生涯を神に捧げることになりそうだ。
「ねえクロ。またあの頃に、戻るだけだよね」
ひと目会いたいと願いながら、クロを抱きしめて眠るあの頃に。
花宴のあと、ちょうど一年前がいちばん、恋をしていたのではないかと思う。朝から晩までミカドを想い恋焦がれていた。会わない日が重なっても、その気持ちだけは決して朧げにならなかった。
思い返すほど、今の自分とは違う。無知なあの頃に戻れば楽になれると、自分に言い聞かせても虚しいだけだ。
十全十美の陰陽師様を紐解けば、十六歳の皇子。才に恵まれており、思いやりにあふれているが、若さゆえにたまに間違える。直視できないほど愛してはいるが、自分にだって大切な為事があるから、そう常に想ってもいられない。だからこそ、互いに望むことも増えるのではないのか。
「やっぱり、よしよし、してもらいたいなぁ……」
身罷られる直前にでも撫でてもらえるよう、文書にして懐紙袋にでも挟んでおこう。死に目に会えなかったら、神の間の几帳に映り込んでからでもいい。
そう決めた途端に、目の前の為事に引き戻された。
撫でていたクロが膝から下り、山積みの折り紙の周りをぐるりとまわったのだ。
「そうだった!」
折姫の長い夜とは、思い悩み泣いてばかりではない。その半分以上が宿題の折り紙だ。
結局一睡もできぬまま禊の時間を迎えてしまった。
*
その日の朝。
シオンは傷ついた主人のため、帳台前で待っていた。
「おはよう御座います、姫様」
「おはよう」
これで切り株にされなくて済む。
面を上げたシオンは、折姫の深いクマにギョッとした。舎人として由々しき事態である。
折姫が湯浴みをしている間に、薔薇の壺からとっておきのクマ隠しを借りてきた。今日のシオンは一味違う。主人の傷ついた心は癒せないので、外っ面だけでも護りたいのだ。
湯殿で眠りこける折姫を引っ張り上げ、引っ叩かれてもめげずに、洗髪から着付け、化粧まで完璧にこなしてみせた。御髪もつげ櫛で念入りにすく。
そんなシオンの心意気に気づいた折姫は、
「ごめんね、シオン。気を遣わせちゃった」
「とんでもございません! 姫様!」
「私、シオンがいないとほんとうにダメね。いつもありがとう。感謝してる」
「姫さまあああ……!」
「あ、五分したら起こして」
座りながら、すやすやと眠りに落ちた。
十分後、シオンはダラダラと冷や汗をかいていた。
折姫が肩を揺すっても、頬をつねっても起きない。このままでは切り株にされてしまう。
愛する夫に声をかけられたら目を覚ますだろうと為方なく、ミカドを呼んだ。
ミカドは一度目は優しく、二度目は遠慮がちに声をかけたが、あまりの反応のなさに、最後は駄々をこねるみたいに叫んだ。
「折姫、折姫ってば!」
「ミカド様、おはよう御座います」
「お、おはよう。五度目だけど」
いや、十回は呼んでいました。
だがしかし、やはりミカドの声の効果は絶大である。
これで切り株は免れましたね姫様! と折姫を見やれば、口もとに笑みを浮かべつつも、まぶたが開いていない。
ミカドがホッとしたように言う。
「よかった」
なにが?
涙がこぼれないように、必死に隠してますけど?
「そろそろ行かないと」
「はい」
シオンはすかさず折姫のそばへ寄ると、ミカドの死角で手拭いを取り出し、涙を吸わせた。ふらふらした身体を支え、ミカドのそばまで連れていく。
するとミカドは造面ごしでも厳しい尊さで、深々と頭を下げた。またその日の朝日が後光に眩しいこと。
「昨夜は本当にすまなかった。どうか許してほしい」
「許す……? あ、はい。大丈夫です。その件でしたら、了解致しました」
目を細め、社交的に言う。
シオンは思った。
あ、これ許してないやつだ!
「でも、シオンが寝不足だって」
「あ、それは、主上の宿題が多くて」
「これです、これ!」
シオンは休みの日のゴミ出しみたいに、ふくらんだ包み布をふたつ持ち上げた。
「こんなに折っていたの!?」
「はい」
「それはたいへんだったね。ご苦労様です」
はい、今がよしよしのタイミングですよ。
折姫はわかりやすく頭を突き出したが、ミカドは手を後ろに回した。
シオンが舌打ちする。
よしよしされたら、一発で目が覚めるのに!
一日どころか三日は切り株免れるのに!
折姫の頭がどんよりと垂れる。
シオンはゾッとした。
顔が見えないと怨霊のようだ。
ミカドもちょっと引いている。
「徹夜だったのなら、今日は休みなさい。みなには私から言っておくよ」
怨霊の頭がビクッと跳ねる。
そうです姫様、宿題ごときで休んだら、主上の説教が百倍になって返ってきますよ。
シオンが両手を拳にして応援していると、折姫は髪をかき分け、居住まいを正した。
「大丈夫です。身体は、なんともありません」
身体は? 身体、は?
シオンがミカドへ目配せするが、ミカドは折姫の顔ばかり見つめて気づかない。折姫の顔はシオンの施した化粧で完璧なまでの造形を成している。
「うん。今日も綺麗だ」
どの面下げて言っているのか。シオンは心のなかで悲鳴をあげた。
「つらくなったら、すぐに言って」
「はい。どうかご心配なさらず」
「では今日も、務めと参りますか」
シオンは拳にしていた両手で顔を覆った。
ミカドがいつものように手を差し出したのだ。
恐る恐る折姫を見やると、案の定首を傾げている。
声にならない「はい?」が聞こえてくるようだ。
ミカドが尚も手をつき出す。
折姫はついに、一歩退いた。
「折姫……?」
「あの、ミカド様。わたくし、了解したと申し上げましたよね? もう二度と、触らないでください。いや、触ろうとも、しないでください。では参りましょう。はい、どうぞ、お先に。私にお構いなく」
シオンはまた心のなかで叫んだ。
声を出していたら、喉がつぶれていた。
折姫はその美貌を駆使し、満面の笑みで送り出した。背中は押せないので両手で宙を切ったが、その素振りはシオンの顔が真っ青になるほどの拒絶ぶりであった。
その日の神事の具合は言うまでもない。




