三十九折
後宮の九つの殿舎それぞれに神殿が建つ。神前で供饌を捧げ礼を尽くすと、主上の待つ出居へ向かった。
念のため足音をたてぬよう、忍び足で覗いてみれば案の定。
「もう、……忘れたと思っていたのに」
「まだ六年だ。忘れるには難しい」
薔薇の壺の女御、カリナと主上が抱き合っている。
いや、カリナは元皇后であらせられるし、後ろめたいことは何もしていない。しかし現在、主上は白百合殿の中宮を寵愛なさっており、一生を捧げると誓い合う仲。やはりこれは有罪かと、生唾を飲んでいると、扇子で頭を小突かれた。
「カヲル!」
「お前、また取り違えてるだろ。こっちこい」
今日は珍しく白い狩衣を身にまとっている。その裾を追いかけ、出居の隣の局へと入った。几帳で囲われ薄暗いなかで男童がひとり、お尻を向けている。
カヲルは御簾を下げながら言った。
「弟のクウガだ。クウガ、ご挨拶を」
「折姫様でしょう。知ってるよ」
「それは挨拶と言えないな」
一段と暗くなった部屋で、男童はわずらわしそうにお尻を後ろにして、顔を上げた。
「こんにちは、折姫様」
「こんにちは──あ?」
折姫は目をまるくした。
露わになったクウガの顔はエントツを潜ったように墨だらけ。
だがそのちいさなキャンバスに配置された目鼻立ちは一寸の狂いもない、美しさだ。
「天使! 天使がいる!」
「お前もか」
カヲルがうんざりと、溜め息を吐いた。
わかりやすく言うと、クウガはカヲルをちいさくしたような可愛いさだ。触れたら溶けそうな金色の髪に白い肌。瞳は碧い泉に墨を落としたよう。
筆先から墨がこぼれた。
「……絵を、描くのが好きなの?」
「うん」
クウガの居る一段上がったひと間には、床が見えぬほどの半紙が重なり散らばっている。
目が酔う。
紙に滲みた墨がひとりでに動いている。まるで深い沼の水面が揺らいでいるようだ。一枚手に取ろうとすると、カヲルが止めた。
「決して絵に触れるな。クウガ自身、制御できていない」
「制御?」
「呪のない絵と、呪のある絵。視覚的に解ればいいが、動いていなくとも、ほら」
カヲルがつまみ上げた半紙には、可愛らしいネコが描かれている。指を添えると、爪を出して襲ってきた。
「危ないってのに、この調子でずっと描き続けている。昨日も筆をもたぬ条件で宴へ連れて行ったのに、いつの間にか約束を破って描いていたから、すぐに下がらせたんだ」
「だって、春の君が咲かせた桜、とても綺麗だったから」
満足気に言う。
折姫は笑った。
「そう。描けてよかったね」
折姫は折り紙を取り出すと、手早く風船を折った。
「私も、ずっと折り紙を折ってた。折っているときはひとりでも寂しくないから」
なかに息をふくと、灯りが点り、ふわふわと宙に浮いた。
「わぁ」
クウガの顔がやわらかく笑んだ。
「好きなら、たくさん描いたらいいと思う。でも灯りは必要よ。わかった?」
「うん!」
クウガはさっそく、風船の折り紙を描き写すと、宙に飛ばしてみせた。
「ほんとうに、制御できてないの?」
「できていない。ほら」
ふたつめが、火の玉のように激しく燃え盛り、消し炭となって床に落ちた。
カヲルはその炭を指ですくうと、確かめるように手のなかですり潰した。落ちてきたのは、灰でも炭でもない、墨汁。
墨を操る呪書き。
その血はしっかりとクウガへ受け継がれている。
「よく聞け。クウガは、内大臣の子どもだ」
「内大臣!?」 折姫を二度も襲った男だ。
「母上と内大臣との間に産まれた不義の子だ。主上も公認されてる。さすがに内大臣が大罪を犯したあとは、為ん方なくこうして密かに過ごしているがな。普段は存在を消す香を燻しているから、見えたり見えなかったり」
カヲルは鬱々と手の墨を拭った。
内大臣は目鼻立ちも良く強いのに、奢ることなく、気さくで妙に人懐っこい男だった。心を許すとネコのように甘えるところが、ミカドに少し似ている。
務めとして後宮を周りはじめてまもなく、母──薔薇の壺の女御カリナと懇ろになった。内大臣は不義をはたらいてすぐ、主上へ自ら申し出たという。
桜の御息所の件もあって、揉め事に慎重になっていた主上はふたりを許し、自分はなるべく平等に後宮を渡った。
クウガが産まれ一年ほど経ち、はじめて立った日。桜の御息所が身罷られた夜のことだ。
内大臣は何の前触れもなく刀を握ると、薔薇の壺で年長であった命婦の首を刎ねた。それだけでなく、殿舎にいる女房たちを次々と斬り殺していった。それから内侍司。典薬寮の御医。
そのすべてが、実妹の桜の御息所に蠱毒を盛った、関係者だった。
「……昨夜、牢獄のなかで内大臣の死体がみつかった」
「死体……? だって、私は」
つかまれた手は確かに、人のそれであった。
「自ら死して怨霊となり、誰かに取り憑いて現れていたことが、わかったんだよ」
「内大臣は、死んでいた……」
「さっき、ふたりは抱き合っていただろ。主上は母上を慰めていたんだ。大罪人であろうと、子までなした恋人が、亡くなってしまったのだから」
母が不憫でならず、カヲルの目から涙がこぼれ落ちた。
愛する男のふるった刀が、長年従えていた命婦の首を目の前で断ち切った。彼女以外の直属の女官も毒を盛る悪女ばかりだった。
以来、カリナは薔薇の壺へ後宮女人を立ち入らせていない。
宴にも出ない。酒もお喋りも好きなのに。
誰よりも艶やかな女御であるのに、今でも人の目を避けるようにして生きている。
折姫のか細い指がカヲルの髪を撫でる。
「よし、よし」
「うん? お前、また俺を子ども扱いして」
「実際、子どもじゃない」
「わたしも!」 クウガが頭を出す。
「よし、よし」
御簾が沙、と上がる。
「……私は、なにを見せられているんだ」
ミカドが腰に手をあて立っていた。
西陽が眩しい。
「お務めは?」
「真っ最中。カヲル! そっちは終わった!?」
「は、はい。滞りなく。やましいこともありません」
「では始めるぞ。折姫は出居へ戻って。主上がお待ちだ」
顔は造面のなかだが、よくわかる。愛しのミカド様はご機嫌ななめだ。
折姫は転がるようにして部屋を出た。
「遅い!」
出居では、先ほどの艶っぽい現場はどこへやら、主上がおにぎりにかぶりついていた。ほどけた風呂敷は一枚ではない。
「主上……、今お口に入れましたの、私のおにぎりでは……?」
「遅いから食った」
「暴君!」
カリナが茶膳を持って、肩を並べる。
「あらあら、ずいぶんと打ち解けて。妬けちゃうわねぇ」
さりげなく茶碗をそれぞれの膝先へ置いていく。垂れる髪は女の折姫が思わずつかみたくなるほど綺麗に手入れされている。
折姫は涙をとめるように、空腹に熱い茶を流し込んだ。主上も同じように、一気に飲み干すと膝を立てた。
「行くぞ。次は芙蓉殿だ」
「あのぅ、お米ひとつぶだけでも」
「先ほどの局は神間といって、殿舎の数だけある。この調子では日が暮れるぞ」
「薔薇の壺だけではなかったのですか!」
「馬鹿もの。この御所に命を捧げた女御が、一体何人眠っていると思う」
ふざけて千人くらい? と呟くと、その倍だと返された。
腹になにも詰めぬまま、折姫は夜の帳が下りるまで、主上に連れまわされることとなった。
「シオン〜、なんでもいいから、ごはんください〜」
シン、と静寂が夜の桜の壺をなでる。
そうだ、シオンは今日からミカドに使役されているのだと、春宮御所へ渡れど、灯りひとつ点いていない。
絶望感が全身を駆け巡る。
夜食に隠していたミカンは、今朝食べてしまった。
夜に無力な折姫は、隣の殿舎から米粒を恵んでもらうこともできない。
飢え死にだけは絶対にいやだ。半べそをかきながら、納戸を漁った。
「あった!」
漫画や小説に紛れて、いつぞやもらった白玉粉が出てきた。こうなったら自分で作るしかない、折姫は囲炉裏に炭を入れると、黙々と団子をこねていった。
シオンがミカドに従い帰ってきたのは、ちょうどみたらしのたれを煮詰めていたときだ。
「この匂い……! もしかして、お団子?」
嬉しそうに近づくミカドに今日は一寸、イラッとしてしまう。
「ミカド様のぶんはございません」
「え!? なんで!」
「私……なんと、朝からなにも食べてないんです。……私がですよ!?」
頭の回るミカドはすぐに察し、シオンに御膳を取りに行かせた。
「おにぎりは?」
「主上に食べられました」
「いつも盗み食いしてる供物は?」
バレてた!
「そんな隙はありませんでした。あの人、背中に目があるのでは?」
「まあ、あながち間違いとは言えないな」
と、いいながら出来たての串をさらっていく。
折姫は涙目になった。
「い、いいでしょう。一本くらい」
「ダメですう! 一本目は、私のです!」
「じゃあ、はい」
ミカドはしっかりひと口食んで、その串を折姫の口へ運んだ。憮然としながらも、口を開けて歯で残りをすくう。
ミカドが、ほっとしたように朗らかに笑った。
「美味しい、ね」
折姫の顔が赤く灯る。
「お団子になにか呪を込められました?」
「んーん?」 すでに二本目に手をつけている。
腹が減りすぎていたのか、ミカドに食べさせてもらった団子は、噛むと口のなかがしあわせいっぱいに広がっていくようだった。
三本目をとる。
「……ふつうに、美味しい」
「折姫が作ったお団子は、貺都一美味しいよ」
「大げさ過ぎます」
捏ねて茹でただけの団子だ。
「務め上がりに食べるからかな。ほんとうに、そう思うけど」
「出来立てだからでは」
「それもあるけど、ほら」
今度は折姫の持つ食べかけを自身へ引き寄せ、団子だけさらっていった。
「ふたりで分け合うから」
恐らく同時に勘付いた。
互いに飲みくだした団子は、熱を帯びて腹をおりていく。
ミカドは噛みしめるように言った。
「うん。美味しい」
「では、よしよしして貰えますか?」
「よしよし?」
「私も、頭を撫でてもらいたいです」
昨日の一の君みたいに。
頭を突き出し待っていたが、なかなか手が乗らない。
「それは難しいな」
「え……?」
ミカドは扇子を開くと、表情を奥へ潜ませた。
「どうしてですか」
「だめ」
「手をのせるだけでも」
「むり」
「指一本も?」
「今の務めが終わるまでは、あなたに触れないと決めた」
「それはいつ終わるのです!?」
「さあ──、長くて、三月くらい」
その夜の折姫の食事はお団子一本ぶんで終わった。
すぐに夕膳が運ばれてきたが、シオンとすれ違うように御帳台へ籠ってしまったから。ミカドの命により、よそってきた高盛りのご飯三膳は腹ペコでやってきたカヲルの腹におさまった。




