三十七折
「息子の肩に矢を射る父親がいます?」
「ここにいるが。痛手を負わずに、果たして止められたかよ」
「無理でしたね」
御所より遠く離れた谷底で、ふたりの男の声が響いた。聖獣朱雀にしか降りられぬ深い谷底には、八百万の鳥居が伏見稲荷神社のように建てられている。
罪人の獄舎だ。
墨で印を捺された罪人が鳥居を潜ると、八百万の呪に身も心も蝕まれる。牢屋へ入れられる頃には、ただ長く生かされる傀儡となるのだ。
最も、貺都の罪人はそのほとんどが極刑に処されるので、ここ数年通る者は居ない。
「それで、見せたいものとは」
「内大臣の牢だ」
簡素な鉄製の牢は脱獄しましたと言わんばかりに鍵が壊されている。検非違使らが慌て上奏するのも無理はない。
「出られたとして、鳥居を潜れると思うか。潜れたとして、果たして谷を登れるか」
「内大臣ならばやりかねませんが」
「私も奴の強さに甘んじて、そう盲信していた」
主上は牢へ入ると、なかをぐるりと一周した。ちょうど中心部で浅沓が深く沈む。
「掘り返せ」
近くに立つ近衛兵に鍬を持たせる。やわらかな土は二、三刃を入れるだけで、骨肉にあたる嫌な音がした。
ミカドが眉を顰める。
「遺体……?」
「私がなぜ内大臣を生かしていたかわかるか」
内大臣は、かつて後宮で無差別に殺人を繰り返す大罪を犯している。
「怨霊化を防ぐため、ですか」
実妹である桜の御息所──母は死後、魔王に並ぶ強さの悪鬼と化した。兄にあたる内大臣の首を刎ねたところで、同じこと。
掘り返され、腐肉を残す遺体の首を、主上は弄った。
「喉仏がない。厭魅の代償に溶けたな」
「自ら生き埋めになり、己れを呪い殺したと」
厭魅とは、呪禁で人間を呪い殺すことだ。一部の呪禁師だけに伝えられてきた、蠱毒にならぶ禁術である。
主上は今にも人を斬りつけんばかりの表情で言った。
「折姫と行き合っていた内大臣は人の形を成していた。つまりは、御所の誰かにすでに取り憑いているという譯だ。そうなると、折姫だけでなくカリナも危ない」
「また薔薇の壺ですか」
カリナは薔薇の壺の女御、二の宮カヲルの母であり元皇后だ。主上が白百合殿の中宮を寵愛して五年、女官を退け妖怪を囲い、自由気ままな生活をしているが、昨年末に鬼に襲われ殿舎を壊されている。
「生身の脱獄だと思い込んで、一年。色々と脹むには充分な時間だ。念入りに事を進めるぞ、折姫の力を借りたいが──口添えは遅かったか?」
「もうその言葉は聞き飽きました!」
邪魔ばかり入った一年、こちとら欲求不満が脹らんでいる。
見る影もない伯父を一瞥して、ミカドは御所へと戻った。
人の姿のまま、帳台を潜る。
「ああ、もう!」
ミカドは一歩も踏み込めずに踵を返すと、手を一拍打ち、式神を喚んだ。
折姫の左手首には内大臣につけられた、呪禁の紋様が火傷の痕となり残っている。男がその紋様を視覚的に確認すると、強制的に発情してしまう。
そのため折姫は湯浴みのたびに、呪禁を抑える呪符と包帯を巻き直さなければならない。それでも手首からは残り香のようなものが発せられ、たとえ日中、十二単をまとったところで消え失せることはなく、折姫が出歩くだけで御所の貴官はみな惑わされた。
内宴を壊した今でも宵明帝に侍る巫女として、宵の明星と呼ばれ、まるでかぐや姫のようにもてはやされている。
籠った帳台のなか──それも、包帯がほどけかけてなどいたら、たまったもんじゃない。
あと寝相も悪い。
後ろ足で直立するネコの式神が、遠慮がちに瓶子を渡す。
「まだお呑みになるので? 明日に響きますよ」
「呑まないでやってられるか」
ネコから瓶子を引ったくると、記憶をとばすように直に呑んだ。
御所では男は酒、女は湯浴みで一日の穢れを浄める。春宮御所に湯殿はなく、折姫は隣接された女御の殿舎、桜の壺で湯浴みをするのだが、湯上がりにはいつも同じものばかり好んで着ている。
色柄や素材を変え、ミカドが何枚仕立てても、真冬にも。肌の透ける白い練り絹の湯帷子一枚で眠るのだ。
それも、入内したばかりの頃の幼さはどこへやら、実に女らしい曲線を描きながら、淫らに眠る。最近はもう、ネコになっても堪えきれない。
桜の御息所を滅して三月。傷が癒えてひと月。
呪禁があっては傷付けてしまうと語らいを避けてきたが、限界に近い。花宴のあとにはと、
「思っていたのに。あのクソ親父!」
「それお伝えします?」
「いいから、さっさと消えろ!」
式神に八つ当たりする。
どうせ眠れぬのだからと地図を広げ、はやめに為事を片付けた。
*
朝ぼらけ、心地良い寝覚めから始まった折姫は、禊のため帳台を下りた。主上の厳命で夜通し務めていたのか、ミカドが縁で瓶子を抱いて寝ている。酒ではなく、自分をそこに入れて欲しいものだが、ネコになる力も残っていないほどお疲れなのだ。掛け衣で包むと、ソッと頬に唇を落とし、桜の壺へ渡った。
毎朝、シオンが整えた水桶の水をかぶるのだが、これが冷たい。どこかの川の水らしいのだが、上流で汲みすぎではと思う。
禊に湯浴み、肌がふやけたあとは洗髪だ。
いつものようにタライに頭を預けると、シオンが泣き出した。
「どうしたの。衣裳に墨でもこぼした?」
次やったら、根っこをさかがきに切ると言ってある。シオンはぶんぶん、首を横に振った。
「主上の命により新たなお役目が与えられまして、私はしばらくミカド様に従うことになりました」
「そう。それで?」
「冷やか! それで、後宮をまわる際には主上が同行されるそうです。本日より、神事が終わりましたら紫宸殿から白百合殿へお渡りになってください。うわぁ、すごく嫌そうな顔」
「主上に従うなんて、畏れ多くて」
「はんにゃ顔で言われても」
百回目の溜め息で着付けが終わると、隣にミカドが並んだ。
「はぁ。おはよう折姫。シオンから聞いた?」
「はい。白百合殿へ行けばよろしいんですよね、はぁ」
「今日は送っていくから。はぁ。さあ、行こうか愛しい人」
「はぁ」
溜め息の多い夫婦である。
正殿、紫宸殿での神事では、いかにも憂鬱そうなふたりに昨夜喧嘩でもしたかと大臣たちは訝しんだ。
とぼとぼと渡殿を渡り、白百合殿への敷居をまたぐと、狛犬の式神、阿吽の手前で主上と中宮が待っていた。
「お待たせ致しまし──」
出会い頭に腹へ一発拳を入れられたミカドは、その場に跪いた。
「誰がクソ親父だって?」
しっかり伝えられていた。
更にミカドの背中を踏みつけたので、折姫の溜め息が思いのほか強くなってしまった。
「はぁ──!?」
柳眉を逆立てるとはこのことだ。
折姫の顔をみて、主上もまた喧嘩を買った。
「この私に、はぁ!? とは、なにかな!? 新しいご挨拶かな!?」
「畏くも、主上とあろうお方が生の拳で暴力をふるわれると思わず、つい! 口をついてしまいましたわ──!」
折姫は怖気付くどころか、より語尾強めできちんと言葉を返した。日頃募らせた不満が勝り、御御足を扇子で払う始末。
「息子を足蹴にするなんて、不作法では」
「この小娘……! 調子に乗りおって!」
「どうどうどう」
中宮が暴れ馬を宥めるように、主上の帯を引く。
折姫とふたりで後宮をまわると聞いて、手を出さないか心配で見送りに出たのだが、違う意味で手が出そうだ。
折姫はミカドを抱き起こすと、主上に背を向けた。
「典薬寮へ行って参ります」
「そんなもん、護符を貼りつければ治る」
「日々の過重労働による疲れは、護符では治りませんので」
「お前、なに様なわけ!?」
「愛する夫を思いやる、奥様ですけど──!?」
そんなやり取りがしばらく続いたが、気を取り直したミカドと中宮の仲立ちにより、午にはなんとか落ち着いた。ふたりともお腹が空くと無口になるからと、しっかりおにぎりを持たされ、園児のごとく送り出された。




