三十六折
貺都御所、紫陽花殿は花宴で和やかな装いをみせていた。春のかすみに浮かぶ今年の左近の桜は葉桜。みな桜など見向きもせず、酒を片手に話しに花を咲かせた。
隣に建つ正殿、紫宸殿での神事のあと、遅れて渡殿を渡っていく春宮と春宮妃に、視線が集まる。春宮──ミカドの紅顔は、今日も造面の下。がっかりとした嘆声が轟くなか、ミカドは唇に指を添えた。
「ごめんね。もう一度だけ、咲き乱れて」
左近の桜が葉を落とし、寂しい冬枝になったかと思うと、つぼみをつけ泡が弾けるように花を咲かせていく。歓声と共に桜へ注目がそれた隙に、ふたりは高御座まで上り詰めた。
隣に建つ自身の御帳台へ入ろうとするミカドを春宮妃──折姫が引き止める。
「しばらく主上の玉顔を拝めておりません。拝謁してもよろしいですか」
「やめておきなさい。御簾が下りている」
御簾が下りていては、拝謁が叶わないのか。
折姫の疑念は帳台へ入りすぐに晴れた。
中宮の押し殺したような声が高御座から聞こえる。
「高御座は中宮も立ち入れぬって言ってたのに!」
「あの人の言葉を鵜呑みにしてはいけないよ。カヲルのところへ移ろうか」
「はい」
腰を据える間もなく帳台を出ると、背の高い屈強な上達部がカヲルの帳台の前で仁王立ちしていた。
左大臣と右大臣だ。
ミカドは面のなかで、うんざりと顔を歪めた。
「ごきげんよう、春の君。折姫も」
「おやおや春の君。祝いの席で面なんぞつけて早くも主上気取りか?」
「いえ。私のわがままでつけていただいてます」
折姫が差し出口をはさむ。
「折姫、あなたもなかなか強かな女だ。後宮女人から春の君の顔を忘れさせ、競う相手を減らすおつもりであろう」
「ほほう。そういった効果もあるのですね。勉強になります!」
ちなみに、ミカドの造面は公の場で鼻血を流さぬための、折姫の自己防衛対策である。関心する折姫の背中を押して、ミカドがなかへ入ろうとするが、左大臣が止めた。
「待て。今日は娘も宴に来ているから、少し話していかないか。親の良く目もあるが美しく育っているぞ」
「遠慮させていただきます」
「話さなくてもいい! 御簾越しに覗くだけでも!」
「行っていらしたら?」
「折姫!」
左大臣の長女はミカドの正室候補として育てられてきた。正室の座には折姫と断言しているため、いずれは側室として入内することになる。
今から顔を合わせておいても、早いとは思わない。
あと左大臣の酒のつまみ、極上と小耳にはさんでいる。
「お土産お待ちしてます」
「もう! 意地汚いんだから!」
肩を抱かれて退くミカドに手を振る。その様子を右大臣は呆れて見ていた。
「ずいぶんと肝が座った姫様だ」
「失礼ですが、右大臣様に姫君はいらっしゃいませんか」
「あいにく、みな嫁にいっております。ああ、ひとり居るには居るが──、あの暴れ馬に妃は務まりますまい。あなたも側室探しはほどほどに。そのうちいやってほど入ってきますから」
女御たちの御座を見下ろし、うんざりと言う。
千鳥足の右大臣を見送って、折姫はカヲルの帳台へ入った。今日も元気に女房を侍らせ、果物にかじりついている。
「お邪魔しまーす」
「邪魔だよ? 勝手に入るな」
「いただきまーす」
「勝手に食べるな!」
去年のように干し杏子をつまむと、畳に散らばる墨の絵を一枚拾った。
「きれいな桜! シオンに見せてあげたい」
カヲルの写実的な描写とは異なり、力強い躍動感があり、今にも花びらが浮き出てきそうだ。
「きっと喜ぶわ。この桜は誰が?」
「弟が描いた」
「弟? カヲルに弟がいるの?」
訪ねてから、極めて愚問だと気づいた。
ミカドが皇太子ならば、カヲルは二の宮。三の宮以降、何人の男御子が居ただろうか。折姫が指で数えていると、カヲルはさらりと答えた。
「クウガという、まだ七歳の童子だ。薔薇の壺で何度も行き合っているだろう」
「カリナ様がいつも従えている、男童のことですか」
「こいつ《・・・》は使いやっこではない。種違いの弟だ」
種違い?
首を傾げたところで、助言はない。
カヲルは気だるそうに女房の膝へ頭を預けた。
「今日は羽目を外したい気分なわけ。春宮妃様は、己れの帳台へお戻りくださる?」
「えー、だって主上と中宮がイチャイチャしてて居づらいんだもん」
「俺だって女とイチャイチャしたいわ!」
本当にお邪魔だったらしい、煌めく碧眼が涙目である。
主上といい、カヲルといい下半身が軽い。
「ふたりをよく見ているはずなのに、どうしてミカド様だけ生真面目なのかしら」
「男心だよ。遊べと言われたら、面白くない。放っておかれると、己れの巣に帰りたくなる。そういうものだ」
「なるほど! さっすが御所一の女たらし」
「褒めてないなそれ」
「おにぎり握ってきたけどいる?」
「え? まだ居座る気?」
おにぎりは、いるけど。
カヲルが居直ると、広げた風呂敷からおにぎりが山になって現れた。トンっと置かれた瓶子には冷やした果実水が入っている。
「どんだけ楽しみにしてたんだよ!」
「なんと、当たりがある」
「当たりって、おにぎりの具に?」
「時鮭のハラスと」
「なんだ鮭かよ」
「エビマヨネーズだー!」
「のった!」
カヲルは酒の追加と他の御子たちを呼びに、女房を使いに出させた。左大臣の酒に付き合わされたミカドは今年もまた恨めし気に、笑い声のたえぬ上座を睨み上げていた。
火灯し頃になって、ようやく解放されたミカドがカヲルの帳台へと戻ると、折姫の膝にへべれけになったカヲルの頭がのっていた。
怒りにいきり立つ程度には、ミカドもまた酔っている。隅に置かれた刀をつかむと、鞘から抜いた。
「今日こそは許さん」
「え? え? ミカド様?」
「俺もまだしてもらったことないのに!」
膝枕ならば一度あるが、その折は腹に矢が貫通していたので、ミカド的にはノーカウントだ。
「額に怪我をしてしまったので、護符を貼ろうとしていただけですよ」
「どうせ女房を妬かせて瓶子でも投げつけられたんだろう」
「さすがミカド様、ご名答でございます」
「では殺す」
「シオンー! トランプ仲間が死んじゃうー!」
折姫が桜の精霊、シオンを使役できるのは日が昇っている間だけだ。日が沈みきっていなかったか、トランプが効いたか、シオンは花びら多めで折姫とミカドの身を春宮御所へと移した。
カヲルを斬り殺せず、ミカドの機嫌はすこぶる悪い。
「折姫は湯浴みへ行っておいで」
「えー、私、お腹空いてまして……」
「言っておくけど! 今日は膝枕だけでは終わらせないから」
構わないが、腹は減っている。
ツンとした態度で御寝所へ向かうミカドの命により、渋々湯殿へ向かった。
三、四人を想定し握ったおにぎりをみんなで分けたため、折姫の宇宙の胃袋はひもじさの限界である。ちなみにありつけたのは、はずれの具なし。
身体を清め、余計に空腹を覚えながら御寝所へ入ると、造面をとったミカドが縁にいた。美味しい湯気がのぼる。
「ごはん!」
「薔薇の壺から、炊きたてをもらってきた」
「その手もとにございますのは!」
「土産だよ。桜の葉でしめた鯛のお刺身だって」
折姫は拳を天に突き上げた。
さすが左大臣のつまみ、想像の斜め上を行く。
自分の局から器と調味料を持ってくると、ふたりぶんのどんぶりを盛った。
「では、いただきます」
「刺身に対して、ごはん多くない?」
「多くないです。まずは、お塩」
折姫は四種の器に入った調味料で、自分で味を調整する、この国の文化を気に入っている。いわゆる匙加減というやつだ。
パラパラと刺身にふりかけ、あつあつのごはんを包んで口にふくむ。ひと噛みであたたかな桜の香りが鼻からぬけた。
「しあわせすぎて、おかしくなりそう」
「その台詞、食事以外のときに言って欲しかった」
「ミカド様も、ほら」
「……まあ、酒のシメにはいいかな」
黒い豊かなまつ毛を御簾のように下ろし、どんぶりに箸を入れるミカドの壮麗な食べっぷりに、よりいっそう食欲が増す。
鯛茶漬けまで楽しんで、お櫃のごはんを平らげた。
「いつものことだけど、カヲルとシオンのぶんまで食べちゃったね」
「今日もまたゲームですか?」
ミカドとカヲルは去年、務めに追われていた時間を取り戻すように、睡眠ではなく男の夜遊びに費やしている。
「今日は遠慮してもらったよ。カヲル、最初は拗ねてなかった?」
「そういえば」
「膝枕」
ミカドは折姫の腰をつかむと、自ら強引に頭を預けた。
「ねぇ、そろそろ慣れた?」
「ミカド様の件でしたら、難しいですね」
今まさに鼻頭へ血液がのぼってきている。
天を仰いでいると、手に冷たい金属の感触があたった。
「少しでも慣れて。はい」
「耳かき?」
「膝枕だけでは終わらせないって言ったでしょう。……もしかして、何か期待してた?」
吐息まじりでそのような台詞をやすやすと呟くので、自分が嫁ぐ前はさぞかし女を泣かせていたことだろうと思う。
折姫は色っぽい襟足に目がいかぬよう、耳掃除に集中した。
「さすがミカド様。耳のなかまで綺麗……でもないですね」
「恥ずかしいから言わないで」
白かった耳がほんとうに赤らんでいく。
「己れではどうも苦手でね」
「以前は恋人にしてもらっていたのですか」
「あけすけに訊くなぁ」
不満そうに、寝返りをうつ。米粒を詰め込んだお腹にミカドの唇があたる。
気合いで引っ込めながらカヲルの言葉を思い出した。
しつこく妬いたことを言ったり、行かないでと見苦しくすがったほうが、きっと男は外に目を向けるに違いない。
「そういえば、左大臣の姫君はいかがでしたか」
「気は強そうだが綺麗なひとだったよ」
中宮のような方だろうか。
「お話しされました?」
「挨拶程度には」
「まあ! ではご趣味は? 好きな食べ物は?」
ではなくて──。折姫はあぐねた。
家族になる姫君に興味はあるが、嫉んだ言葉がみつからない。
「読書が好きらしい。食べ物は甘いものだったかな」
「あら? あいさつ程度にしては、お話しが弾んだようですね」
「そうだね。気は合いそうだよ。目を合わせても誰かさんみたいにうつむかないし」
「目を? では、面をお取りになったのですか」
「もちろん。相手に失礼だろう。几帳で隔てることもなく、こうして──」
ミカドは顔を上げ、いじわるに笑いながら折姫の顎を引き寄せた。折姫は豆鉄砲をくらったかのように目を皿にした。眉を下げて、なにか苦しむように。
「どうしたの、食べ過ぎてお腹が痛くなった?」
「そう、みたいです。あはは」
「もう寝ようか。明日も早いし」
悪酔いを自覚し身体を起こすと、折姫が袖の裾をにぎった。
「いやです」
「ん?」
「今の、笑ったお顔は、だめです。ほかのひとに見せないで」
らしくない言葉に、綺麗になったばかりの耳を疑う。顔を覗き込むと、目に涙を溜めて唇を結んでいた。
「いやです。笑った顔は私だけにって、今ほんとうに、思っちゃいました」
ミカドは折姫を軽々と抱き上げると、帳台のなかへ乱暴に放り込んだ。
「あー可愛い。なんて可愛いんだ私の妻は」
「ミ、ミカド様?」
「いつになったら、名前だけで呼んでくれるのかな? このまま朝まで睦み合い──呼ばせてみせようか」
舌なめずりをする。
残念ながら肩に矢が刺さり、ミカドは折姫にひと触れもできず、夜の御所に春宮妃の可愛いくない悲鳴が轟いた。




