三十五折
桜の壺の桜は年中満開であるが、外の桜が蕾をつける頃、シオンは示し合わせたように枯れては、同時に花をつける。その頃咲く桜はより一層鮮やかで、部屋のすべてが薄紅色に色づくようだった。湯浴みを終えた宵に纏う湯帷子も、桜色に染まっていた。
足に擦りつくクロを抱き上げる。
「次の清明には、花宴ですね。今年はいっしょに紫陽花殿の桜を観れるでしょうか」
「にゃお」
「ふふ、そのにゃおは、どっちですか?」
鼻を突き合わせ、瞳の色を見る。
クロは、春宮御所で飼われるネコで、憑きネコという妖の仔だ。瞳の色が琥珀色から墨色に変わっていたら、ミカドが憑いている。ミカドの本体はというと、春宮御所の縁か帳台で酔い潰れているはずだ。
「おやすみの、ちゅう」
「にゃ!?」
瞳の色を確認しなくとも、キスをして後ろ足をバタつかせたらミカドだ。毎夜そうしてから御寝所へ入ると、一年前と同じように、ふたりひとつの帳台で眠るのだった。
春宮妃の朝は早い。
巫女の神拝を再開させたためでもあるが、禊の前にもうひとつ為事が増えた。起きてすぐに渡殿を渡り、隣接された春宮御所へとその身を移す。
舎人のシオンを叩き起こすためだ。
使役しても喚べないときは八割がた、春宮御所の帳台で寝転んでいる。
「精霊って、眠る必要あって?」
「イターイッ」
文字通り、分厚い少年誌の角で叩き起こす。
シオンがグズグズ泣いていると、川の字になって寝ていた男ふたりも起きだした。
「おっはよ、折姫。今日もいい眺め」
「おはよう折姫、単衣のまま来ちゃだめって言ったでしょう」
カヲルの首をしめながらミカドが言う。
取っ組み合うたびにパラパラと、お菓子のクズやらトランプやらが落ちる。
折姫は挨拶の代わりに溜め息をこぼし、シオンを引きずって自身の殿舎へと戻るのだった。
禊のあとの着付けはシオンの務めだ。起こさなければ朝が始まらないというのに。
「だって姫さま、ババ抜きもウノもふたりより三人のほうが楽しいんですよ!」
「明日遅刻したら切り株にしてやるから」
しゅん、とするならまだしも、主人の帯を絞めながら「ゾクゾクする」と武者振るいをするので、今夜にでも電動ノコギリを発注しようと心に決めた。新しい扇子を帯にさす。
「ミカド様はあとから?」
「行けるよ」
白い狩衣姿のミカドが隣に並ぶ。
手を差し伸べながら、造面に透ける紅い唇を動かした。
「愛しているよ、折姫。さあお務めと参りましょうか」
「はい」
「今朝は朝露のように綺麗だね」
毎朝、御歯向きの言葉を囁かれながら手を取ると、紫宸殿へその身が移る。ミカドの祝詞に聞き惚れながら折り紙を折る、朝の神事はすっかりふたりの為事となった。その後は以前のように、供饌を折りに後宮を周る。
「それでは」
「ああ、折姫。今日は梅壺を最後に」
「かしこまりました」
またヒコのお説教かと目を座らせる。
シオンを喚ぶ直前に、ミカドと左大臣とのやりとりが聞こえた。
「ですから、私の娘も入内の準備が整っております。折姫が桜の壺にいらっしゃるのでしたら、春宮御所にあとニ、三人は」
「いらない。主上も春宮時代に側室はいなかったと聞いているぞ」
「ですが、折姫があの様子では──」
「折姫の前で二度とその話しはするな」
聞かないふりも難しい。
背を向けたまま次の殿舎へと移動する。
芙蓉殿は相変わらず主上の御子で賑わっていた。みなひとりの種から産まれたのだ。毎日見ているが、とても信じられない数である。
供儀を終えて子どもたちに飛行機を折っていると、内侍司が背後で笑った。
「春の君、おかわいそうに。春宮妃を思いやり夜遊びひとつできないなんて」
「あら、寂しいの?」
戦闘機を折りたいところ、折姫は最後にウサギを折った。
「どうぞ」
「よろしいんですの!?」
白いウサギに思い入れがあるようだ。内侍司は花のように笑った。
「もちろん! 寂しい夜には動かなくなりますが、──ご勘弁を」
広間が凍りつく。
神拝を再開してから、女官たちの蔑みや嫌がらせは目に見えるところであったが、折姫は屈することなく、たまにこうした言葉を落としていくので、虐めは少なくなった。浄らかなだけの巫女では終わらない。折姫の強かさは少なからずとも、内宴を観ていた人間が知っている。
「それではまた明日」
「あっ、折姫様! よろしければこれを」
去り際に、乳母から小包みを渡される。隙間から紅く熟れた実が覗く。
「こ、これはイチゴではないですか!」
「種子からの栽培は苦労しましたよ」
腫れ物扱いには慣れているし、仲の良い女官とはこうして変わらず付き合えている。今日の折姫は脇にかかえたイチゴのおかげで、機嫌よく梅壺まで辿り着けた。
釣殿で釣り糸を垂らすキリヤに手を振り、敷居をまたぐと、ヒコの怒号が耳をつん裂く。
「お前というやつは、また昨夜ひとりで抜け出したな!」
「申し訳ございません」
「また心ない謝罪を。未だに内大臣の尻尾がつかめておらんのだ、無力な夜に外へ出るなと、何度言ったらわかる!」
「はい。何度も聞きました」
うんざりしています。
心で唱える。
中宮の赤子の夜泣きがひどく、見舞いに行っているだけなのに、ヒコはいつまでもうるさくするし、なかなか天界へ戻らない。
「空からは朝から晩まで、女神様が見張ってくれておりますし、ヒコ様はお帰りいただいてもよいのですよ?」
「女御の前でひどい女だ」
「まあまあ」
ヒコがとぐろを巻く真ん中で梅壺の女御がクスクスと笑う。そんな彼女に愛しそうに顔を擦り寄せながら、言った。
「いやな気配がする。そう遠くない未来で、また私を必要とする時がくる」
「はいはい。第二子がお産まれになったら、ヒコ様はこの下界でしっかり子守をしてくださいね」
「え!? なにそれ聞いてない!」
自身のことになると途端に鈍くなる。
尻尾振りやまぬヒコの背に乗り、桜の壺へ戻った。
湯浴みを終えると、作業しやすいようにシオンに着付け直してもらい、囲炉裏に炭を入れる。薔薇の壺の再建が終わるまではと、夕飯どきにみなが集まるのだ。
日が陰り灯籠に灯りが点くと、妖がそれぞれ土産を持って現れる。
「今日は鯛を釣ってきたよ!」
「わしゃあ、あさりじゃ」
「トマトはいったかね」
油すましは、オリーブオイルの瓶をかかえている。
「おやおや。アクアパッツァが出来てしまうねぇ」
毛女郎が笑う。折姫は生唾をのみ込んだ。まさか囲炉裏でナポリ料理を囲えるとは。隣では中宮が赤子を抱きながら袖でよだれを拭いた。御息所に憑かれたころが嘘のように、顔色も良い。
「食欲戻ったみたいで、よかったです」
「たくさん食べないと、母乳のためにも」
折姫の胸をねめつける。
中宮は、夢のなかで会ったときのことを未だに恨み募らせている。
「折姫のほうがいい乳でそうだけど、絶対吸わせないからね!」
「吸ったところで出ません」
彼女にとって、赤子の性別を言われるより胸の大きさのほうが癪に触った。
三女を授かることは一年前から主上が予知をしており、また男はいらないと常々言われていたため、挑発にならなかったのだ。
「どうやったら、一年でこんなに育つのよ!」
中宮が折姫を襲うその向かいでは、カヲルが小さな男童を膝にのせ、筆を走らせている。
「いやぁ、眼福ですな」
「おぉ、薫の君は絵がお上手で……、え、春画?」
「お、小豆洗いではないか! ぬらりひょんの漫画の続き持ってきた?」
「対価は高くつきますぞ」
貧乏神社を営む小豆洗いは、今日も小遣い稼ぎに勤しんでいる。
「ほれ、ミカド様も」
「ありがとう。いつも助かるよ」
ミカドもまたアスナとコトハを膝にのせ、嬉しそうに何か受け取った。
折姫がぼう、とその様子を眺めていると、火消し婆が悪さをする。部屋の灯りをすべて消して、光源は囲炉裏の炭だけとなった。
ちいさなロウソクの火が、火の玉のように向かってくる。
「ハッピバースデー! 折姫!」
ハリウッド女優の美しさでジャパニーズイングリッシュ 丸出しのカリナが叫んだ。パチパチと拍手が鳴る。
「うふふ、十六歳の誕生日おめでとう」
折姫の瞳が涙で潤んだ。
「ケーキだぁ……!」
一〇歳の誕生日以来、ずっと食べていないバースデーケーキだ。
カリナが言う。
「生クリーム作るの大変だったんだから! スポンジも膨らまないし、何度も作り直したのよ」
バレンタインの女子高生みたいに言う。
「味は補償するわ。果物はみかんだけどね」
「それが私……、本日、なんとイチゴを手に入れてしまったのです!」
折姫が乳母からもらった包みを開けると、シオリが立ち上がった。
「まさか、ショートケーキ食べられちゃうの!? これは夢!? はやくのせて!」
ロウソクの刺さっていた隙間をイチゴで埋めて、みんなでケーキをつついた。カリナが作ったケーキはいかにも家庭的な味だったが、家族のお祝いごとを締めくくるには最高のアイテムだった。
「みんな、ありがとう……!」
折姫は口の端にクリームをつけて笑った。
貺都には誕生日を祝う文化はない。きっと漫画や小説で得た知識から、ミカドがみんなに声をかけたのだろうとそちらを見ると、目が合った。
あからさまに首ごと、そらしてしまう。
その夜の宴会はいつものように夜遅くまで続いた。
子どもたちが寝静まるころ、片付けを手伝おうと襷をかけていると、髪きりに「みがきをかけてきな」と湯殿に押し込まれた。適当にすませ、あがると着替えに見慣れない着物が置かれている。
浴衣だ。
初夏を匂わせる若草色の桜が咲いている。
これもプレゼントだろうかと喜んで袖に腕を通し、みんなに見てもらおうと勢いよく戸を開けた。
「わぁ……!」
北池だ。桜の花びらが一面、雪のように池を覆っている。梅壺の釣殿に足を踏み出せば、あの日の夜のように舟が一隻とまっていた。
ミカドはすでに舟の上。薄緑色の小袖に袴姿という、いつもと違う様相で手をのばしてきた。
「つかまえた」
「わっ、わっ!」
舟が大きく揺れる。
今日は抱き寄せられるどころか、折姫がミカドを押し倒してしまった。
「ミカド様……! 申し訳ありません!」
「あはは、どうしてもうまく乗れないね」
「今すぐ退きますので──」
逃げようとする腰をおさえる。
「カヲルに仕立ててもらったんだけど、なるほど。白いだけの単衣よりずっと、魅力的だ」
「こ、この浴衣ですか」
「私はどうかな」
「似合っておりますとも!」
そりゃあもう、背景の桜に映えて、目も眩む美しさである。
ミカドは折姫にかぶさるように座ると、春風を受けながら言った。
「今日は風が強かったから、桜が散ってしまったね。それに、夜はまだ少し寒い」
折姫は首を傾げた。
汗ばむほど身体は火照っている。
「その、……どうして、また舟に」
「いやな思い出を、いい思い出に上書きしたくて。そういえば、あの日に返した真名は、ちゃんと拾った?」
「いいえ。そのまま置いてきてしまいました」
「そう。池の水に溶けて、なくなっていればいいけど」
舟は風の勢いもあり、よく進んだ。広い北池を奥に進むと、再建中の薔薇の壺が見えた。
「足場が解体されていますね。もうすぐ完成でしょうか」
「ああ、来週にはみな移れるだろう。やっと春宮御所が静かになる」
宴のあと、みんな面倒になって流れるように隣の春宮御所で雑魚寝をする。そのうちカヲルや妖だけでなくアスナやコトハまで泊まるようになった。
春宮御所は主殿のほかに東西南と局が分かれており、みなが居なくなれば、御寝所だけで三つ部屋が空く。
折姫は思い切って、申し出た。
「私のほかに、お嫁さんは迎えられないのですか」
言ってすぐに後悔した。応えのないまま恐ろしいほど沈黙が続いた。それなのに舟はちっとも、釣殿へ戻らない。耐えられなくなり、折姫のほうから話しを終わらせた。
「ミカド様には我慢させていますし、私もその方が気が楽です。よろしければ胸にとめておいていただけたらと」
「考えておくよ」
ミカドはそれだけ言うと、舟をまっすぐ釣殿へ向かわせた。折姫は胸を撫で下ろしたが、ミカドはその微かな吐息を耳で拾っていた。
「──っ、やっぱりこんな終わり方で、舟をおりたくない」
ミカドは立ち上がると差し向かいで胡座をかいた。舟の先尖は明後日へ舵をきる。折姫はやおらに扇子を開いたが、ネコの顔色をうかがう前に奪われてしまった。
「私と目を合わせるのが、そんなに難しいこと?」
「そういうわけでは」
「またそうやってうつむく」
ソッと瞼をあげると、ミカドは苦虫を噛み潰したような横顔で、夜の空を見上げていた。
「帝になれば、いやでも側室をとらなければならない。今この一瞬を、ふたりの時間を大切にしたいと思うのは、そんなにいけない?」
「嬉しいお言葉ですが、私では」
「女御の務めを担えない? 我慢はしているよ。でもそれはあなたを傷つけたくないからであって、他の女で満たせるものじゃない」
恨めしげに左手を取ったが、直ぐに離した。
「ぜんっぜん、治ってない!」
「はぁ。こればっかりは、どうしていいものやら」
内大臣につけられた左手首の呪禁の紋様は、男を惑わす。
毎日湯浴みのたびに包帯を巻き直さなければならないので、さすがに自分でも面倒でたまらない。
「手首を切り落として、すぐにくっつけてみてはいかがでしょう」
「そんなことできるわけがないでしょう!」
両手で髪をかき乱す。そんな子ども地味たことをしても様になる。折姫は口をへの字にして下を向いた。そんな彼女を見て、ミカドはまた誤解を抱く。
「……落ち着いた年上の陰陽師だと思っていたのに、同年でガッカリした?」
「え?」
「重荷? 皇后になる覚悟ができずに、私から逃げているの」
「逃げていません。共に生きると、心に決めております」
「じゃあどうして、離れようとするの」
訊ねるたびに顔が近づいてくる。
壮美で甘美な顔が。
「もう! 近いんです〜〜〜〜!」
折姫は両拳を力いっぱい握って叫んだ。
「そんなに、いや……?」
ミカドが目を潤ませる。折姫はその瞳を密かに《漆黒のダイヤモンド》と名付けている。
折姫にとってミカドはいわゆる鑑賞対象というやつなのだ。
未だ、ではなくまさに今現在。
後宮へ種をまき、何十という御子を産ませた主上だと、思い込んでいたころのほうがまだ向き合えた。
寵愛していたはずの中宮は、義母。
次に親密だと思っていたカリナは、カヲルの実母。
御執心なのは義妹のアスナとコトハ。
女の影を探せど今のミカドには、恋人ひとりいない。
心を通じ合わせた日は勢いもあり、なんとか持ち堪えてみせたが、今はもう何の自信もない。
「そもそも私、一生に何度かお会いできれば、幸せだったのです」
「一生に、何度か?」
「それが、ミカド様のつ、つ、妻だなんて! あまつさえ、毎日毎日愛を囁かれて、私の心臓はもう限界突破してます!」
扇子を奪われた折姫の顔は全身の血液を集めたように充血している。
「それになんですか! 誕生日にケーキだなんて! それだけでも夢心地なのに、いつも礼服のミカド様が着崩して船上デート! 殺す気ですか!
この際、浮気でも子作りでもなんでもして、この私を失望させてください────!」
キツネでなくとも周りに轟く声で叫んだ。
梅壺がどよめくが、ミカドは釈然としない。
「私をからかっているの」
「とんでもない」
「だって、毎朝一緒に出仕しているし、夜は一緒に寝ているのに」
「朝は面をつけていらっしゃるので、ギリギリオッケーです。あとクロのミカド様は大好きです。ずっとクロで居てください」
「ずっと?」
それでは、いっそネコでいられたらよいのにと願ったころに引き戻されてしまう。
自棄になったミカドは袂から小さな箱を取り出した。
「それは?」
「呪いの箱さ」
容易に開け、ニタリと笑う。
再び折姫の左手を取ると、薬指に指輪をはめた。どんな呪いの装備かと思いきや、小豆洗いに発注していた結婚指輪だ。藍晶石が埋め込まれたプラチナリングは、いつ測っていたのかピッタリとはまる。
ミカドは薬指に口づけ、言った。
「返品不可ですよ、愛しい人」
さて、失望させろと言うのであれば、夜空の下であなたに惑わされよう。
背中に手を回し強く引き寄せると、折姫の首があらぬ方角へ傾いた。
「え!? 折姫?」
惑わされようにも白目で卒倒した妻を襲うことはできず、ミカドはその夜もカヲルと深酒を煽ることになるのであった。




