三十二折
撫でるような笛の音が背中を上っていく。
殿舎の人間すべてが舞台に意識を奪われるなか、折姫は高御座の几帳を潜った。
ミカドはとなりの帳台で眠っている。当然、無人だと思い込んでの行動だ。
「皇后も立ち入れぬこの玉座へ無断で入るとは、慮外にも度が過ぎる」
男の覇気に気押され、折姫は声が出なかった。ただ入り口で頭を下げた。
「しかし、式は吉か」
男と折姫を隔てる式盤のうえでは、男が式と呼ぶレンゲのようなものが、くるくると回転し続けている。そのすぐそばに、白い文──。
「くわえ、今宵は娘たちの晴れ舞台。あの娘たちを救ってくれてありがとう」
恐る恐る顔を上げると、男は舞台へ肩を向けていた。造面をしていても、横顔でよくわかる。ミカドが父上と呼んだ、白百合殿の僧侶だ。
男の広い背中は、山吹色の袍に覆われている。以前ミカドが身に纏っていたものより、やや黄色みが強く落ち着いた色だ。
男ははっきりと、言った。
「皇帝の背中を目に焼き付けておけ。この色こそが黄櫨染──、天位の象徴、絶対禁色だ。春宮の纏う黄丹と、二度と見紛うなよ」
男──、主上は、振り向きもせず言った。
自身が皇帝だと言い開いたのだ。
折姫は一度の拝礼にすべての礼を尽くすと、文をすり替え高御座から消えた。
「ためらいひとつ見せなかったか」
それだけつぶやくと、主上はアスナとコトハの可愛らしい舞に目を綻ばせた。
*
少し遡り、折姫が帳台を出てすぐ。
ミカドは大きなまなこを開き、喜びに打ち震えていた。眠気など、懐を触れられたときに既に吹き飛んでいる。
「なに、今の」
唇に指を添える。
同時にカヲルの笛の音が舞台から上がってきた。
「俺、ふられたんじゃないの……?」
口の端をゆるめながら、ひとり言つ。
異母兄弟たちには悪いが雅楽鑑賞どころではなくなった。帳を支えにして、ゆっくりと立ち上がる。とにかく今は折姫を追いかけねばならない。公にしてしまった以上、彼女は春宮妃として、改めて好奇の目に晒される。
一歩踏み出すたびに激痛が走るが自身の身体を労ってやる余裕はない。歌の佳境で裏手へ出ると、高御座から主上がにやにやといやらしい笑みを浮かべていた。
「あの娘、いや──春宮妃か。この私に為事を押しつけていきおったぞ」
「為事、ですか」
「宴の後始末だ。お前は気張れよ。この後、人生で二番目に大変な為事があるらしい」
「また嫌な予知を」
「くれぐれも死ぬな」
そう言うと、主上はひとり紫宸殿へと移り、朱雀を喚んだ。
ミカドはその気配を感じとりながら、そろりと階段を下りていた。みな手負いの春宮に興味がないようだ。それほど今年の雅楽は素晴らしいのかと耳をすませば、もはや笛の音は聞こえない。では主上の御告げを待っているのかと舞台へ顔を向けたミカドは、階段を踏み外しそうになった。
折姫がひとり、ぽつんと舞台に立っている。
カヲルはそんな彼女を連れ戻そうとせず、周りに叫んだ。
「決して近づくな……! 全員退避だ!」
辺りに響く悲鳴や喧騒、足音──。
共鳴するように、舞台に波紋が拡がる。
漆で塗られた足場は同じ色ながら、墨の池と化していた。
近衛兵の骨を溶かした鬼の墨血。
その血に浸る折姫の唐衣裳の裾が青黒く染まっていく。顔は御髪に隠れ、表情が読み取れない。
もっと近くで確かめようと、転がるようにして舞台まで下りれば、手紙はちいさな手のなかで開ききっていた。
肝が冷えた。
だが、ミカドの顔は笑っていた。
「なぁんだ、そういうことか」
ミカドはご機嫌に口笛を吹いた。
間もなく、ヒコが横にならぶ。
「約束どおり、御所の浄化をお任せします」
「わかっておる。まったく夫婦して、私をこきつかいおって」
「それからみなを、ここから退けて。アスナとコトハをお願い」
「お安い御用だ」
ヒコは姫君たちを背にのせると、舞台を囲っていた幕を巻きとっていった。逃げ惑っていた人間が四方へ散っていく。
舞台を嬉しそうに見上げるミカドを、カヲルが見つけ、肩を貸しながら訊ねた。
「助けられるから笑ってんのか? 諦めて狂ったのか、どっちだ」
「だってさぁ、これでも色々尽くしてきたつもりだったんだよ。どうにか幸せにしてやりたいって、そればっかり考えてたのに。まさか命を犠牲にするなんて」
ミカドは扇子を取り出し開ききると、扇子の山の頂上──、天を唇と平行に添えた。
天には、剃刀が入っている。
「この私が許す譯がない」
舞うように扇子を滑らせる。膝もとに止まった扇面へ、ミカドの血が滝のように流れた。地から谷へと脈のように枝分かれし、谷から落ちた血の雫は丸くなり、宙で消えた。
「おい、おい。何柱喚んだんだよ」
「上から順に喚べるだけ、たくさん」
空に血の色をした柱が十三柱。弧となり現れた。
ミカドの異能は紅いその唇に集く。
呪を唱えれば、敵うものおらず。
魔法円へ口づければより一層に強く。
血印を捺した護符には神の手が下り。
その血を与えれば全能の神すら、かしずく。
贅沢に血を滴らせたまま扇子をひと振りし、ミカドは言った。
「悪鬼、桜の御息所の消滅を命ずる」
使役された破壊神五柱が灯火を消し、一柱ずつ、口を突いていく。
「実母の御霊の消滅とは、実に嘆かわしい」
「実母? 悪鬼どころか悪神といえる強さであるぞ」
「封印では治らんか」
「ここで滅さねば都に平穏はない」
「だがしかし、兇悪なり。心してかかろうぞ」
柱の気配が消える。
舞台が血の池地獄のごとく沸き立ち、黒い人形が五躰、産み出された。
折姫の持つ手紙へ無数の手が伸びる。
桜の御息所は、未だ手紙のなかにいた。
だがその力の強さは墨のように濃く、しつこい。
手紙から黒髪が溢れ出れる。
髪は破壊神の手を容易く絡めとった。
そのまま腕を締め付け、手拭いのように絞っていく。ついに首まで巻き付いた髪は、容赦なく締めあげ、骨ごとちぎった。
ミカドはごちた。
「破壊神を秒殺か。さすが私の母上」
人形たちは瞬く間にばらされ、舞台へ沈んだ。黒髪はそのままとどまることを知らず、舞台ごと飲み込もうと長さを伸ばす。
折姫の肌に髪がかからんとし、ミカドは扇子を振った。血飛沫が舞う。使役されたのは、火の神が三柱。
「彼女を先に救い出す。道を切り拓け」
「御意に」
「髪か。焼き払いましょうか」
「そこのいい男、貸してくれるかしら」
「どうぞ」 ミカドがカヲルの背を押す。
「は!? 俺!?」
三柱の灯火が消え、同時に舞台を灯す篝火が火柱を上げる。腰を思いきりひるませカヲルが前へ出ると、さしていた太刀がひとりでに宙へ抜かれ、火をまとった。
「はい、はい、はい。これで、斬ればよろしいので」
覚悟を決めて柄を握る。
篝火の火が豪炎となり舞台を焼き尽くすと、舞台の墨が昇華し足場ができたが、髪は痛みに悶えるように鞭打った。その脈絡のない攻撃と鉄臭さに苦しみながら、カヲルは丁寧に斬り払っていく。
その背後でミカドは血を呪具に魔法円を描き、座敷一帯に結界を敷いた。
「退け! そろそろ来る」
「うおおお、もっと早く言えよ!」
御髪の痛みに耐えきれず、引いた墨が高波となって反逆に出る。カヲルは間一髪、結界内へおさまったが、波は階段上まで上っていった。
「殿舎を護って」
「仰せのままに」
扇子の血脈と柱がまたひとつ消え、高御座まで上った黒い波は凍り、ガラスのように砕け散った。
「おかしい」
「なにが」
「破壊神五柱、火の神三柱を退ける強さ。紫陽花殿におさまるはずがない。外から父上が防いでいるのか──」
いや、後始末と言っていた。
「内ならば、折姫か」
ミカドは扇子を左に持ち替えカヲルから刀を奪うと、右腕に重心を預けて、投げた。
「っ、手紙を狙え」
傷みに耐えながら扇子を叩く。
その柱、刀を矢の如く運び、手紙を狙い打ち、言った。
「殻を破る。耳を塞ぎなさい」
刀が手紙へ到達すると、釣鐘が天から落とされたような、裏返った音が波紋となりひろがり耳をつん裂いた。
かすむ目を瞠れば、折姫の手にあった手紙は蓮の花へと姿を変えている。慈しむように蓮へ視線を落とす彼女はまるで蓮上の観音菩薩のようだ。
ミカドは闇夜を仰いだ。
「あれを破れるものは」
居ない。わかっている。
手のなかの蓮は、折姫の折り紙。浄化の呪符の花びらで鬼を囲い力を封じている。そのまま自身の身体へと移し、破裂させるつもりだ。だが彼女の慈悲を穢すような神など喚んだ憶えはない。
カヲルがミカドの左手を掴む。
「おい、それ以上は死ぬだろ」
「笑わせるな」
空いた右手で腹の傷を裂いた。
「ばっかじゃないの!?」
「古傷が開いただけだ」
「扇子は預かるからな!」
「残り三柱。女神か──、では援護を頼む」
カヲルに扇子を託し魔法円を出ると、龍神が肩を並べた。足をずりながら、折姫のもとへと歩み寄る。
龍神は仰々しく言った。
「天地開闢より龍脈に蔓延る悪そのものの私を、一日に、二度。言っておくが、対価がいるぞ」
「血では足りぬか」
「驕るなよ。腕一本では済まない」
「そうか。目でも耳でも、なんでも持っていくがいい」
舞台へ上がる。
背後の墨が溶け、また波となり襲いかかった。カヲルが空へ扇子を翻す。
「お願いだ! ミカドを護って!」
柱は嬉しそうに煌々と輝いた。
「主ではないけれど──、いい男だわ」
「いい男? 先ほどの太刀筋をみた? 最高よ!」
「兄弟を護ろうと必死ね、かわいいじゃない」
三柱が消え、夜空が暗くなる。
羽衣で着飾った女神たちが人型となりミカドを取り囲んだ。
「あの男に逢わせてくれたご褒美よ。背中をお預けなさい」
カヲルの異能は女神の恩恵を何の代償もなく受けられることだ。本人に自覚はないが周知のことである。
女神が墨をおさえこむ間、ミカドは振り返ることなく、蓮の花びらに手をかけた。
「爪を貸せ!」
「私の爪を? 後で泣くなよ」
鋼のように硬い花びらをこじ開けていく。古から大地を切り拓いてきた龍神の爪が最も容易く欠け、思わず笑ってしまった。
「これが、人生で二番目……? 先が思いやられる」
「お前に先などない」
「ふざけるなよ、死んでたまるか」
子どものようにムキになって花びらをむしりとっていく。自身の爪ばかりか龍神の爪も剥がれ、うろこまで弾け飛んだ。
蓮の花びらはやがてツボミの大きさまで小さくなった。それでもなかを暴けない。
一朝の怒りにその身を忘るるとはこのことだ。
ミカドは腹に拳を入れた。
「元服して一年。毎日、毎日、……朝から晩まで、働かせやがって。寝る暇もなきゃ、嫁にひと目、逢うことすら叶わない。このまま嫁とたわむれもなしに、死んだら俺が、末代まで祟ってやる……!」
拳を開き、器にして血肉をかき出すと、蓮にダバダバと流し入れた。
龍神は鋭い牙を削るほど歯噛みした。
「こやつ、最初からそのつもりで……!」
「いいや。今思いついた」
「私は、かしずかんぞ……!」
「命令だ! 私の血肉ごと、蓮の花を噛み砕け……!」
「馬鹿な、逆らえん!」
龍神は拒むように足をばたつかせたが、花から目が離せない。ミカドの血がはやく啖えと、外からも内からも誘う。もういらないと誓えば誓うほど、喉が枯れる。血では足りないと言っておきながら、涎が溢れるほど欲している。
昼の味見が、すべての始まりだ。あの時すでに、結びができていたのだ。
最後は溜め息混じりに、蓮の花を飲み込んだ。
手のなかから蓮の花が離れ、折姫の身体が舞台へ沈む。
ミカドもまた膝から崩れ落ち、太極図のように向かい合わせで横たわった。
「許さないと、言っただろ」
爪を失い血濡れた手を折姫の頬にのばすが──、
安堵は絶望にすり替わった。
一匹の蛇が、折姫の懐から顔を出した。
蠱毒の蛇だ。
その白蛇は、必死につかもうとするミカドの腕をすりぬけ、
折姫の首筋に噛みついた。
その頭上では、夜空をかきむしるように龍神がのたうち回っていた。長い蛇の胴がみるみるうちに膨れ上がり、弾け飛ぶ。桜の御息所の残骸──死の瘴気が黒い霧となり、御所を包み込んでいった。




