三十一折
男ふたりが酒を持って釣殿へ消えてすぐ、折姫は懐から簪を取り出した。
白百合の簪だ。
血塗れのミカドの頭を膝にのせながら、「約束ですよ」と、男にねだった代物だ。対価にと、中宮のために折った、蓮の花の折り紙を渡した。
折り紙と簪を交換しながら男は言った。
無垢なようで血の似合う、鬼のような女だと。
百合の花は汚れひとつなく、最も美しいとされる花の開きを描き、一粒の藍晶石をとどめていた。石は夜明け前の空のように青く、朝霧のような模様をたなびかせている。じっと見据えていると、中に人影がみえた。
「そこにいるのね」
折姫は石を握ると、布団に横たえ目を瞑った。
もう眠くはないのに、敷妙に溶けていくように意識が沈んでいく。
桜の折り紙に埋もれ眠る折姫は、まるで帳台を棺桶にしたようだった。
朝霧にみえた模様は白百合の花畑だった。
深くまだらな空の下で、白百合殿の中宮はひとり佇んでいた。
「ひどい格好だこと」
中宮は振り向きもせず、その言葉を吐いた。
血に染まった白い湯帷子に身を纏い、桜の簪を挿す折姫は、桜の御息所を彷彿とさせる。耳に咲く桜を見せつけるように、深々と頭を垂れた。
「ご無礼を」
「約束を破って簪を挿してまで、なにを訊きに来たの」
「愛について」
「愛? ふふ、お互いそれに疲れたのではなくて」
「はい。疲れました。私には、もう愛でる桜もありません」
「桜? ……ああ、あの役立たずな舎人のことね」
鼻で笑う。
折姫は一歩ずつ、怒りを任せるように百合を踏みしめ、中宮のもとへと近づいた。
「中宮様──シオリちゃんは、まだ主上を愛していらっしゃいますか」
「まだって、どういうことかしら。どんな過去があろうと、この先裏切られようと、変わらないのよ。主上への愛だけは……!」
「そうですか。よかった」
「よかった?」
「だって、親が不仲では、三人の可愛い女御子様たちがかわいそうではありませんか」
「女……? あなた今、三人の、女御子と言った?」
「はい。ご存知ありませんでしたか?」
折姫は頭を上げ、笑った。
目を逸らせぬほど距離を詰めていた。
「お喜びください。もうすぐお産まれになります御子様は、また《・・》姫様ですよ」
「……そう」
「生きて、抱きしめてあげてください。あなたがいなくては──」
中宮の両手をとり、自分の胸へと引き寄せる。
「私が、お乳をあげることになりますよ?」
中宮はムカデにでも触れたように、手を弾き飛ばした。頭上ではまだらな空の濃いところが、よりいっそう深くなる。
「御息所も、あなたを気に入ったようよ。今すぐにでも移りたがっている」
「それはよかったです」 晴れやかに笑う。
「……今夜の内宴、薫の君が舞台から下がったら、主上が御告文を読まれる。それを奪い、あなたが舞台へ上がりなさい」
「舞台へ上がり、私が御告文を開くのですね」
「ええ。ここへ来たことを後悔するくらい、苦しめてあげる。……はやく去りなさい」
その言葉を最後に空が夜の帳を下ろし、息を吹き返したように折姫は目覚めた。現実もまた夜を迎えており、暗闇に吐いた息が白い。
呼吸を整えていると、几帳の向こうに行灯の灯りが増え、一気に騒がしくなった。
ヒコの大きな影が映る。
「春の君が目を覚ました。折姫に会いたいのだと」
「しかしこの格好では」
「梅壺の女官に手伝わせる。身支度が終わったら声をかけろ」
急いでいたのではないのか、身支度には四半刻かかった。内宴にと下賜された主上からの調度品だという、豪奢な唐衣裳はまるで夢のなかの空のように青を基調とした桜が咲き、晴れ晴れとしている。
几帳の外へ出ると、ヒコがキツネの姿で待っていた。
「乗れ」
「はい。はい!?」
身体に豊かな尻尾が巻きついたかと思うと、ヒコの背中に押しつけられ、そのまま走り出した。宙をかけるように滑らかに御所をまたぎ、瞬きをする間に白百合殿へ着くと、阿吽の座る裏道でその勢いをとめた。
「おりろ」
「は、はい。ありがとうございました」
「礼はいらん。主上の勅令だ」
「では、私からもお願いが」
「はっ、笑わせるな。お前ごときが私を──」
折姫の手にある日の供饌がのっている。
油揚げだ。
四角く折っただけの、油揚げではない。
皿のなかでつゆに浸って、今にも湯気がでてきそうな油揚げだ。
ヒコは折り紙を相手に、ゴクリと生唾を飲んだ。
「昼に折った、帳台のなかにあるすべての折り紙を使って、御所を彩って欲しいのです」
「あの量の折り紙を? 私に撒けと」
「ヒコ様にしか頼めないことです。ちなみに撒き終わるとこの折り紙、あつあつのお揚げさんになります」
「そんな馬鹿な話しがあるか」
「あっ、折り紙が食べ物になるのではありませんよ。梅壺の女御様が、ご用意してくれます」
「嫁の油揚げだと」
ヒコは涎をまき散らしながら梅壺へと戻って行った。今日のためにしばらく油揚げを出さぬよう、女御へ口出ししていたのは他でもない、折姫である。
阿吽は対価なしに折姫を通した。
回廊を抜けると昨夜、百合の苗を植えた庭はなく、白い几帳で隔てられたちいさな部屋に出た。几帳の奥には医療用の帳台があり、なかへ入ると、昨夜の男が未だに着替えず、ミカドの枕もとで目を瞑り胡座をかいていた。瞼を開き、言う。
「こんばんは、折姫」
「中宮様の簪、ありがとうございました」
「会えたか」
「はい。おかげさまで」
白百合の簪を男の膝もとへ差し出す。
なにを語り合い、話し合ったのかを男は訊かなかった。
「うむ。あとは頼んだよ。私も内宴の支度をせねば」
男は簪を受け取ると、すぐに帳台を出た。
ミカドは目を開け、折姫に抱擁を求めるように手を宙へ掲げて、笑った。
「よかった、無事で。怪我はない?」
「あなた様はいつもそう。いつも人の心配ばかり」
そばへ寄れば、宙に游がせていた手を簪に添える。無理して作った笑い顔は、おしろいをはたいたみたいに白い。
「私の不手際で、ミカド様に大怪我をさせてしまいました。どうお詫びしたらよいか」
「そう言うと思ったよ。すべては私の間違いで起きたことだから、あなたが気にやむことはない」
決して人のせいにしない。
佳人短命とはこの人のことだと、折姫は思った。
手首の呪禁に反応し暴走した傀儡も、中宮に手紙を書かせたのも、矢の引き金を引かせたのも、すべて自分のせいなのに。悪鬼と同等といえる疫病神から、一刻もはやく解放してあげたい。
ミカドは笑い顔を崩さない。
「そんなに思い詰めた顔をしないで。お詫びの代わりに着替えを手伝ってくれる」
「まさか、そのお身体で内宴に出御されるのですか」
「そのまさか。出なければならないのならと、あなたを呼んだ」
ミカドが肘を立て起き上がろうとする。
折姫は慌てて背中に手を差し込むと、ゆっくりと上半身を立てた。それだけの動作でミカドの額に汗粒が浮く。
「痛みますか」
「ちょっとね。このまま立つから肩を貸して」
肩に片腕を置かれたので、折姫は向かい合わせになって膝を立て、抱きしめるかたちで背中に手を回した。ミカドは一応確認した。
「立つだけだよね!?」
「お、おばあちゃんがぎっくり腰になったとき、こうして起こしてたので!」
おばあちゃんとやらに感謝しながら、気合いで立つ。
だが、いざ単衣を脱ぎはらうと、折姫はすぐにミカドから離れた。
「痛みますよ!?」
「申し訳ございません! 刺激が強すぎて!」
その割には、目を手で覆いながら背中をみつめる。
「この痣は……?」
蛇のような螺旋状の紅い痣が二本、後ろから心臓を包み込むように染みついている。
「母上の遺した呪いさ」
「呪い……?」
「言ったでしょう。呪に好かれていると。それより下をとって」
「下!?」
下衣の着替えに苦労したが、事情により割愛する。
「お着替え終わりました?」
「もう目を開けて大丈夫だよ」
「結局、お役に立てず申し訳ありません」
狩衣を被せることに成功したくらいで、あとは言われたものを手渡す程度にしか手伝えなかった。
「あの汚いものを見る目、忘れられないな」
「誤解です! ちょっと驚いただけです!」
「心が深く傷ついた」
そう言いながらも狩衣のなかに扇子を入れると、いつものミカドに戻った。
「さあ、行こうか」
「はい」
白百合殿から紫陽花殿まで、渡殿を渡れば五分とかからない。最初はミカドの腕に手を回し支える程度だったが、歩みを進めるにつれ、ミカドは前屈みになっていった。
「やはり戻られては」
「帳台まで上ってしまえば、あとは休めるから」
「ではもっと、身体をお預けください」
紫陽花殿の正面へ出ると、広間は役者の登場に沸き騒然とした。特に几帳の奥では、魚の群れが暴れるように揺れている。
「たいへんだ。春の君が、桜の壺の女御を連れているぞ!」
「巫女として紫宸殿へ上がったのは、貴妃の修行であったか」
「そんな、我々の宵の明星が」
明星? と首を傾げる。
ミカドは息を切らせながらも「あなたのことだよ」と笑った。
帳台までの階段は浅く高い。一歩一歩、踏みしめるように上る。女御の御座では案の定、恨めしい眼差しが束になってふたりへ向けられた。
「折姫様が、春宮妃だったというの」
「あんなに親密そうに」
「では、薫の君は──」
花宴の日のように、階段で待ちうけている。ただ今日という日の正装なのか、カヲルもまた白い狩衣に着替えている。カヲルは折姫の反対側へ立つと、背負うようにミカドの腕を高く持ち上げた。
「いたたたたた、いたいいたい」
「俺まで晒しものにしやがって。この貸しは大きいぞ」
「ねぇ、カヲル。はるのみやひってなに」
「お前はもう少し勉強しろ!」
それぞれ勝手を言いながらも高御座の右手にある帳台へと入る。カヲルは帳に背中を預けられるよう角にミカドを下ろすと、舞台を見渡せるよう几帳を上げた。墨色の足場がかがり火に照らされ、よく映える。
「よし、こっからよく見ておけよ」
「もう始まるの」
「おうよ。哀愁たーっぷりの笛の音を聴かせてやるよ」
貺都御所の内宴での雅楽は貴官や女官への労いとして、皇族だけで舞台にあがる。去年はカヲルの笛にあわせミカドが舞を観せた。今年はミカドに代わってアスナとコトハが巫女舞を踊る。ちいさな主役を迎えに、カヲルは舞台へと下りていった。
カヲルと円陣を組むふたりの姫君は快活な笑顔をみせている。
「おふたりとも可愛いらしい。……あっ」
不躾にこちらへ指をさす女官に気付き、扇子を探す。
「扇をお探しですか」
「はい。そういえば、桜の壺へ入ったっきり……」
「鍵として使ってしまうと、消えてしまいます」
ミカドは瞼を閉じた。
折姫の頭には、カリナの姿が浮かんだ。
どうも帳台のなかで、眠くなる香が焚かれているようだ。
「そうでしたか。……あの」
「なあに」
「声が止みませんね」
特に女御の御座から高らかな声が上がってくる。今さら傷つきはしないが、そのほとんどが折姫への恨み節だ。
「ああ。元服したら、内宴にて決まった姫君と帳台へ上がらなければならない。去年、カヲルとふたりで並んで来たら、みなに咎められた。では来年は春宮妃と上がるからと、舞台の最後に宣言してしまった」
「それで、その、失礼ながら春宮妃とは……?」
「春の妃。私の妻だよ」
「ミカド様の、妻!」
心滾る折姫に睡魔の到来はない。
「ほんとうは昨年にお披露目したかったのだが、せめて春休みまで待ってほしいとせがまれてね。入内は三月となり、それから……多事多難ばかり、重なって……」
ミカドは次第に声も眠りに惹き寄せられていく。
「今日だけ。今日だけだから。……みなには、ちゃんと弁明する。だから今は、どうか気にしないで……」
ついに胸が深く、上下し始めた。
蓮の花の御守りを懐に押し込むが、それでも起きない。
「今日だけと仰るなら、いいですよね?」
折姫は一世一代の勇気を振り絞って、ミカドの紅い唇に口づけた。




