三十折
刻は午。
主上のはからいもあったが、陽の光りに気づけぬほどに疲弊していたふたりは、寝汚くしていた。
まず先に目覚めたミカドは、寝起きから煩悩に苦しめられた。ふくよかな胸に顔を埋めていたので、ついにやってしまったと頭を抱え、起きあがってみれば、相手は折姫だ。肌の色が透けてみえる薄さの湯帷子に身をまとい、横になっている。意識せずとも手首に目がいき、帳台を飛び出た。
その一分後に目覚めた折姫は、今朝方の介抱を思い出し、即座に上半身を起こした。ミカドは探す手間もなく、帳台の外から顔を覗かせている。
「ほ、ほんとうにおりひめ?」
「はい」
「こ、ここで、なにを」
ひどく取り乱している。
「まさか、憶えていらっしゃらないのですか」
帳台で女が胸もとを乱しつつ、放つ言葉としては苛烈の極みである。残念なことにミカドの記憶は、肉を断ち切る感触で終えている。
「えぇ……、いや、さすがに」
「明るいですね」
「あ、ああ、もう昼日中だ」
「お昼! なんてこと、すぐに出ますので」
「待った!」
ミカドは背後を見渡し焦燥とした。傀儡の残骸は、定刻どおりに式神が綺麗に片していったが、本や漫画はご丁寧にもとどおり散らかしてある。ミカドは折姫がその場を通って来たことを、想定できないほど混乱していた。
「その、片付けさせておりますので」
今一度、式神を喚び命じると、為方なく帳台のなかへと戻った。外でネコがにゃあと鳴く。
「いつもは触るなと仰るのに、いいので?」
「いいから、とにかく一箇所にかためて置いて」
「ミカド様?」
「なに!」
「目の下のクマが晴れましたね。よく眠れたようで、よかったです」
折姫の無垢な笑みに、ミカドはようやく我に返った。
「もしかして、あれからずっと眠り込んでいたのか」
「はい。それはもう、気持ちよさそうに」
それもそのはず、薔薇の壺が崩落してからというもの、寝つける場所がない。いつどこで寝ても女に忍び込まれる。我慢ならず春宮御所で夜を明かそうとしたが傀儡の腐臭で過ごせたものではなかった。結界をすべて解き、匂いを消し火で浄め、さてひと息つこうと瓶子の蓋を開けたら、予期せぬ来客である。
「ん? 折姫はどのようにしてここへ」
結界は解いていたが、刻は真夜中。ひとりで出歩く時間ではない。
「ある方が、これを取ってこいと」
右耳にかかる簪を指す。
「父上か。あの人は意固地なところがあるから」
「ミカド様の、お父さま?」
折姫は眉をひそめた。
それにしては若すぎやしないだろうか。
どう見積っても、三十ほどにしか見えなかった。
「安心して。その簪を挿す必要はないよ。出仕したらすぐ、正式に離縁を申し立てる」
「離縁?」
「私と、あなたの」
「私とミカド様が……? 結婚していたのですか!?」
「実感もわかぬほど短い夫婦生活だったね」
「夫婦! 私と、ミカド様が!」
「ああ、あなたの世界では儀式があったか。やはりそれなくしては夫婦と言えないのかな。ではカヲルとの婚姻が決まれば、私がその場を整えよう」
「カヲルと? なぜ」
話が一向に噛み合わない。
折姫の頭のなかでは、入内とは単なる子作り要員。正式な夫婦関係であったとは聞いていない。夫婦。なんと甘美な単語なのだろうか。折姫は胸が熱くなった。
一方、折姫が梅壺に閉じ込められてふた月。気配ひとつ感じられなかったため、カヲルに説き伏せられたのだと、ミカドはすっかり思い込んでいた。
「カヲルを好いているのではないの?」
「好きですよ。友だちとして」
「では、なにゆえ──」
月が見えないのか。
手を伸ばせば触れられる距離で、ミカドは喉を鳴らした。扇子が欲しいが折姫側に置いてあり、取るに取れない。
「私、うんざりしていたんです。女の浅ましさやいやらしさ。怨になるほどの強い妬み嫉み。それを高いところから見ているだけの人間。まるで蠱毒じゃないですか」
ずっと思っていた。
後宮は、強い怨霊を生み出す蠱毒だ。桜の御息所はその犠牲者のひとりに過ぎない。壺を壊さんとするその意志は、誰よりも真っ当だと思う。
「壺のなかにいると、自分が壊れていくんです。誰かを犠牲にして出たくなんかないのに、心は思うようにいかない。だから、ズルして逃げ出しました」
こうして綺麗事をつらつらと言い連ねることにも、吐き気がする。
「だったら、あなたの幸せはどこへ」
ミカドの声は震えた。
蠱毒のたとえは恐ろしいほど理解できたが、後宮のその外はもっと惨たらしい。
折姫は表情を明るく、両手でこぶしを握った。
「ご心配なく! やり遂げたいことがありますので」
「そう。……巫女の先か。まさか出家するとか言い出さない?」
「言いません!」
「よかった。その御髪が切られると思うと、胸が痛む」
ミカドは控えめに、折姫の髪の裾をみつめた。五年前からずっと、待ち焦がれていた髪だ。
「私の我儘で、あなたをこちらに喚んでしまった。だから笑っていて欲しいんだ。私の隣じゃなくてもいい。どうか幸せになって」
ミカドは折姫の右耳へ手を伸ばした。
「だ、だめです!」
「どうして。これは私から返しておくよ」
「私に、必要なものなんです!」
「なぜ? 離縁するからには、先に返しておかないと──」
「離縁、しません!」
折姫の目から、涙がぽろぽろとこぼれた。
つい先ほど、笑っていて欲しいと言ったばかりなのに泣かせてしまった。ミカドの頭は大混乱である。
「離縁したく、ないです。私、まだ挿していたい」
折姫もまた、自分を抑えられなくなった。
どうせ命を絶つなら、ミカドの妻のままでありたい。
「わかった。わかったから泣かないで」
それだけ言うと、ミカドは帳台の外へ顔を出し、大きく息を吐いた。呪禁に惑わされたのもあったが、離縁しないのならと、華奢な身体に手を伸ばしてしまうところだった。
「ねぇ、片付けは終わっ──」
部屋は散らかったまま。
ネコを表した式神の依代に、黒い矢が刺さった。
その手もとに落ちたのは、中宮からの手紙。預かっていた呪禁の文、
全九通が床に散らばり、開こうとしていた。
「どいて」
ミカドは帳台へ頭を戻すと、折姫を隅へやり、畳ごと布団をひっくり返した。中から読みかけの漫画に飴の入った缶、食べかけのスナック菓子が落ちてくる。
「ああ、もう! あった」
石灰石をみつけると、浜床に孤を描き、細かい模様を激しく打ちつけた。魔法円だ。
「決してここから出てはならないよ」
「何かあったのですか」
「預かっていた中宮からの手紙の封印が解かれた。……九通すべて」
ミカドは笑った。自身が愚かすぎて。
呪はぶつかり合うと消滅する。式神が手紙に触れれば封印が解けるのだ。それを知っていて、片付けさせてしまった。
「私はまた間違えた。こんなことでは、国など到底治められない」
天蓋に黒い影が映る。
「責任はとらないとね。行ってくる」
颯と出て行ってしまった。
ひとり取り残された折姫は、魔法円をなぞった。魔除けの方術を基礎に、鬼の視覚を遮る結界と攻撃をはねのける呪術が複雑に組み合わされている。
「ミカド様のオリジナル? 本人しかできないかもしれないけど」
念のため書き写しておこうと、筆を探す。寝所の床は不謹慎にも、「あちゃあ」と溜め息をこぼしたくなるような惨状である。
「うひゃあー、このチョコいつの? 溶けてるし……、あっ、あった。ん?」
筆のそばに一枚、古びた写真が落ちている。幼い少女が桜の木の下で笑っていた。まだ明るい未来を描いていたころのイオリだ。十歳の誕生日、神社で厄除け祈願をしたときに撮った写真だった。
「どうしてこんなものが……」
折姫は結局、その魔法円を書き写すことができなかった。
近くの几帳に血飛沫が花のように散った。
心とは無関係に、涙がはらはらと落ちた。
シオンを滅したような強い鬼が九躰。外で暴れ、ミカドの身体のどこかを傷つけている。
折姫はうんと腕をのばし、血のついた几帳の裾を手繰った。
出てはならないと言われたが、覗いてはいけないとは言われていない。几帳をかぶるように向こう側へ出ると、
「────っ!」
声を出さぬよう、ミカドに口を抑えつけられた。
だがその手は鮮血にまみれている。見上げれば唇から血を垂れ流し、白い単衣を鮮やかに染めていた。
ミカドが言う。
「心配はご無用。自身でつけた傷です」
「女がいるのか」
さらに頭上で声がした。
姿はみえない。
「これだから最凶神は。血を与えただろう、さっさと働け」
「女のほうがよかった」
ふん、と鼻を鳴らした風が強く、几帳を翻す。反対側の几帳をも巻き上げ、帳台を剥き出しにしてしまった。背中から声がする。
「へぇー! かわいいじゃん!」
振り返ると白い虎が目を丸くして折姫を見ていた。御所御用達の四神獣、白虎だ。そちらは互いに可視できた。
「白虎! うしろ!」
「おっと、あぶない」
ミカドに声をかけられた白虎は、背後に落ちる手紙へ向き直る。ぬっ、と出てきた女の手に噛みつくと、そのまま振り回し、庭から這い出てきた鬼へぶつけた。呪禁もまた、ぶつかり合い消滅した。
「命中──!」
「ふん、神獣ごときが」
先ほどの声がまた聞こえたかと思うと、宙をうねるような風が部屋を駆け巡った。手紙がいくつか舞い上がると、まるで食べられるようにして消えていく。
折姫が見えていたならば、そこでは確かに龍神がトグロを巻き、手紙を餌に咀嚼していた。
「──四、五、六。六通だ。どうだ、邸を壊さぬまま終えられるぞ」
「まだだ、白虎が二通。あと一通ある」
ミカドは手紙をまとめて置いていた場所を睨んだ。カヲルが滅した十通目は殿舎を壊すほどの強靭な鬼を生み出した。だが白虎が投げた女の鬼のほうは明らかに弱い。手紙はを重ねるごとに強くなるとすれば、残っている鬼は何通目だ。重ねていたまま開いたとすれば、恐るるべき九通目。封印を解かれた手紙は、式神を弓矢で一網打尽にしていた。弓矢で──。
天を仰ぐ。
部屋の高い天井にはビッシリと、無数の黒い矢が針のように、下を向いていた。
白虎が白い息を吐く。
「わあお……。ボクには届かなそう」
「もはや鬼ではないな」
「串刺しになる前に帰ろうかなぁ」
「落ちてこない。引き金はなんだ」
「考えるだけ無駄じゃない? 焼き払っちゃえばいいじゃん。朱雀よんでこようか?」
龍神が歯噛みする。
「私を喚び醒ましておいて、笑止千万! この爪で薙ぎ払ってくれるわ」
「待て! なにか、様子が──」
一瞬の静寂のあと。
カサリ。
ミカドの耳が、乾いた紙の音を拾った。
紙だ。
昨夜に使った刀を探す。
六尺先で折り紙に戻り、
矢が刺さっていた。
紙だ。式神の依代も、折り紙も。
背後にいた折姫を見やる。
「よし、できた」
魔法円のなかでひとり、夢中でせっせと折り紙を折っていた。
「……白虎。父上を呼んできて」
そう言いながら、天井へ向き直る。
落ちてくる一本の矢。
紙を標的に射られたその矢は龍神の爪よりはやく、結界をも通り抜けると、直感でわかった。
折姫にその切っ先が届かぬよう、食い止める呪術はないか。
「はは。だめだ。まったく思いつかない」
一夜で霊力は万全まで回復にいたらず、最凶神を頼ったミカドに、残された力はもうない。心のままに折姫へ身体を向けると、折姫は供饌を捧げるように両手を差し出してきた。
「ミカド様、これを」
「私に? ありがとう──」
ミカドは折り紙を受け取った。
桜をかたどった御守りだった。
はじき飛ばしていれば、矢はそちらへ向かったかもしれない。だがそれはできなかった。
折姫の好意を無下になど。
「ミ、カドさま……?」
折姫の身体に桜の花びらが散った。
ミカドの唇は増して冴え冴えと、鮮やかな紅色に染まり、
新たな血を端から滴らせた。
*
その日は師走に戻ったように忙しなかった。
ミカドの結界術が解けたことで、主上が張っていた御所じゅうの結界までも均衡を崩し、またもや異形の巣窟となったのだ。幸い、折姫の御守りに頼る今、怪我人がでることはなかったが、其処ここで悲鳴が上がった。
ミカドは典薬寮とつながる白百合殿へ運ばれ、主上直々の治療を続けられている。呪禁の矢はミカドの腹を貫通し、手のなかの折り紙に突き刺さり、ようやく勢いを止めた。早急な手当てを必要としたが、体内の血液に呪詛が流れ込み、治癒の護符では治せない。主上の詠唱により一命はとりとめたものの穴を塞ぎきれず、体内の呪詛も蠢くまま。未だ意識を取り戻せていない。
折姫はというと、再び内大臣の餌食にならぬようにと、ヒコの結界とカヲルの護衛のもと、その身を梅壺へと移された。
無数の狐火が囲う折姫の帳台で、ヒコとカヲルは顔を並べてふてくされていた。
「私の目をかいくぐり、外へ出るだけならまだしも一夜を明かすとは」
「一夜明かした。明かしたのか。そうか。元鞘におさまったてことでいい!?」
「うるさい」
折姫は湯帷子のまま、ひたすら折り紙を折っていた。
「うるさい……? 神の私に、うるさいだと」
「この俺の美声が、うるさい!?」
「うるさい。出て行って」
折姫が言うのも無理はない。折り紙は帳台のなかを埋め尽くし、男ふたり居座ることを難しくしていた。
それも、ミカドに深傷を負わせた原因とも言える桜ばかり、黙々と。
ヒコは折姫の心の内を読もうとするが、なにか盾のようなもので遮られ、見えない。
「それも折り紙か。まあよい、ここからは決して出られぬのだから」
「あまり、根を詰めすぎるなよ」
カヲルがポン、と頭を撫でていく。
「カヲル。これ」
「ん? なんだ。御守りか」
折姫は蓮の花の御守りを渡し、言った。
「私、カヲルが好きよ」
カヲルは一寸、目を瞠ったが、すぐに柔らかく半弧を描いた。
「んなこたぁ、知ってるよ」
「今までありがとう」
「ん」
一語返して、帳台を出た。
カヲルはふられたのだと思った。
己れが二月三月寄り添おうが戻らなかった瞳の色が、一夜にして輝いているのだから。
ヒコが丸くなったその肩を抱く。
「いい酒あるぞ」
「やった!」
折姫の言葉には今生の別れをふくんでいたが、カヲルがそのことに気づくのは、一刻後の内宴のあとであった。




