二十八折
翌朝の紫宸殿はおよそ半年ぶりに儼乎たる空気が流れていた。久方ぶりに主上が高御座から玉顔を出したが、その表情がいかめしい。その下では大臣と共にミカドとカヲルが肩を連ねていた。
「それで? なにゆえ新米の内侍司に責任をとらせる」
主上の声が厳しい。
左右の大臣は戸惑いをみせたが、ミカドはひとり毅然とした態度である。
「私の命令を伝宣する立場にありながら、自ら背き、女御を命の危険に晒しました」
「お前の命、とは」
「後宮に届く手紙はすべて内侍司のあずかり知るところ。桜の壺の女御へ宛てられた手紙はすべて私へ渡すように命じておりました。それに背き、中宮の手紙を薔薇の壺へ直接送り届けたのです」
昨日の凶──、殿舎の崩壊は、主上とミカドの読みが一致していた。避けられぬ事故から死人を出さないよう、対策は念入りに練られた。
折姫が標的となるのは明確であったため、薔薇の壺の結界はミカドが複雑に重ね合わせた。
紙書院の二の舞や、巻き込み事故を防ぐため、御所の人間すべてを外へやる必要もあった。そこでヒコの目の行き届く梅壺で紅葉狩りを催し、念には念を、宮廷女人の送迎にはひとりひとり牛車を出した。
ミカドの結界内の薔薇の壺にはカヲルとカリナが居る。近衛はすべて梅壺の北池へと配置を決めたのはミカドだ。
主上は鼻で笑った。
「つまり内侍司は結界を容易く通り抜け、手紙を薔薇の壺へ届けたという譯だ。春の君よ、お前は言っていたな。己れの結界は何者にも崩せぬと。豪語であったか」
「それは──」
言い澱むミカドを見ていられず、カヲルが口をだす。
「畏くも、桜の御息所は生前、紙に呪禁を書き写す呪書きと聞いています。結界師家出身の中宮とでは相性最悪ですよ。鬼を封じた手紙の表面には、結界を無効にする術式が描かれておりました。たとえミカドでもさすがに難しいかと──」
「ほう。近衛大将は、私の寵妃を愚弄するか」
「ちょっと父上、ご機嫌悪すぎー!」
「このバカ……!」
横にいた右大臣に頭を押さえつけられ、カヲルは板間に額をつけた。
「呪書きは、御息所の兄である内大臣も同じ。折姫の左手首の紋様がその証拠であろ」
「内大臣、そうです。ヤツこそ足取りがつかめない。御所のなかも、臣下の邸も調べ尽くしました。主上の占に、映りはしないのですか」
左大臣が冷静に訊ねる。
「映らん。まるで蜘蛛の糸を手繰るようだ。その風のような気配は、あの男に似ている。天狗風をあやつる、お前の息子に」
カヲルと共に垂れていた右大臣の頭に扇子をつきつける。
右大臣は顔をあげぬまま、低い声で言った。
「……愚息には、御所を出て生きていける強さはありません」
「どうだかな。たしかに軟弱ではあったが、身を隠す術にだけは長けていた」
「主上、話しが逸れておりますぞ」
左大臣が釘を指す。
右大臣の嫡男は天狗風をあやつる異能をもっていたが、その風を利用し夜な夜な後宮を渡り歩き、不浄をもたらしていた。御所を追放されたのは当然のことだったが、五年も前の話し。
右大臣はその贖罪として、五人いる娘を後宮へ入れず、地方の豪族に嫁がせた。その結果、各地の情勢の見通しがよくなり、交易も順調である。
右大臣ほど国に貢献し、謙虚な男はいないのだ。
八つ当たりも甚だしい。
主上は扇いでいた扇子を閉じた。
「予知通り殿舎は崩壊したが、幸い死人は出ていない。よって内侍司は不問とする。以上」
主上が以上と言えば、それ以上はない。
たとえシオンを犠牲にしていても。
ミカドはカヲルに目配せをして、紫宸殿を離れた。行き先は壊滅し、足の踏み場のない薔薇の壺だ。住人たちはみな芙蓉殿へと避難している。生きた苗が残っていないかと庭を見やるが、瘴気ですべて枯れていた。次には屋根のあるところを渡り歩き、倒れた几帳の下敷きになった、折姫の化粧道具やカリナの香具を探した。屋根が崩れた出居の調度品は諦めなければならない。冬の雨に降られ花びらがしずみ、シオンの亡き骸があらわになっている。
「消えないな」
遅れてやってきたカヲルが呟いた。
「幹や枝が残っているということは、精霊が本体へ戻れぬまま消滅したのか」
「そうだろうね。シオンには、もう会えない」
「ミカドと背比べした柱も、見事に木っ端微塵だ」
幼少期をそこで共に過ごしたふたりは肩を並べ、風に晒された部屋を渡りながら、文字通り感傷に浸った。
「ひでぇなあ、こりゃ」
「建て直してもらえるかな」
「さあな。中宮に桜の御息所が取り憑いてからは、主上は御用邸にこもりっきり。建て直しなんて二の次だろうよ。現に、主上が下がったあとの紫宸殿は、不平不満で溢れてる」
御寝所の天井を見上げる。
青い空と白い月が、浮かんでみえる。
「ああ。困ったな、今日から何処で寝ようか」
「俺の邸を使っていいぞ」
カヲルをジトとねめつけた。
御所の外にはカヲルの私邸があるが、主人の帰らぬその邸は蜘蛛の巣がはっていると聞いている。
「では、芙蓉殿しかないな」
「内侍司が居る」
「俺の帳台でいっしょに寝たら?」
ミカドは一歩離れた。
あらぬ誤解をした譯ではない。
「お前は今夜、折姫と寝るべきだ」
カヲルは離された一歩を詰め寄った。
「ん? どうした、ついに気が触れたか」
「内大臣は折姫を無力化したいのだろう。ならば思惑どおりにしてやれば、標的から外れる。カヲルの妻になったことが公となれば、中宮の怨恨も静まるやもしれぬ。なにより、シオンを失くした彼女を慰めてやって欲しい」
「……主上の許可は?」
「私が取りつくろう」
「うーむ。うますぎるな、その話し」
カヲルは悩むふりをして顎に手を添えた。
「って、のるかよ」
「なぜだ。ふたりは想い合っているのだろ」
「はあ? なにそれ、いやみ?」
「真名を受け取ったのではないのか」
「もらってないし、知らん」
「……そうか」
少し安堵した様子のミカドにイラッとする。
「まあ、説き伏せればやらせてくれそうだから、聞くだけ聞いてみよっかなー」
「ああ、そうしてくれ」
ミカドが両手に荷物を持ち背を向けたので、カヲルもまた父に叱られに、紫宸殿へと戻った。
折姫の身は梅壺に引き取られた。
雨が跳ねる北池は白い霧をたなびかせ、まるで折姫の心のなかのようだった。
静かなようで耳うるさい。
気が散ったヒコは、釣殿に座り込む折姫を引きずって中へ入れた。降り込んだ雨に濡れ、豪奢な衣裳が台無しだ。袿を脱がせ白妙で包み込むと、冷えきった身体の周りを火鉢で囲んだ。
「まったく、なぜ私がこのような真似をせねばならぬ」
「申し訳ありません」
「心ない謝罪はするな。心を込めて感謝をしろ」
「ありがとうございます」
ヒコは怒りに喉を鳴らした。
生かしたい人間は今も少しずつ命を削っているというのに、目の前の娘は強い生命力を激らせながら、心を死なせている。
「そんなに逝き急ぎたいのならば、白百合殿の中宮にくれてやれば良い」
読んでいた通り、折姫が我に返った。
「私の命で中宮を助けられるのですか」
「中宮が望むのならば、お前を悪鬼に食わせてやれ。引き離せる可能性はある」
「シオリちゃんが望めば……」
「たとえば、中宮のゆかりのものに訊いてみるといい。長年愛用している櫛や、鏡など」
「わかりました。探してみます!」
折姫があまりに目を輝かせるので、ヒコもまた正気に戻った。
まずいことになった。
中宮を助ければ主上は喜ぶが、折姫を失えば主人が泣くことになる。そうなると御所ばかりか貺都の世界そのものに未来はない。
嬉しそうに地図をひろげる折姫に焦燥を隠せず、ヒコは梅壺に結界を張った。
中宮のゆかりのものを手に入れられぬよう、折姫を閉じ込めたのだ。ミカドほど強い結界ではないが、出られたところで、梅壺から白百合殿まで徒歩で四半刻。たどり着くまでに捕らえればいい。
そうして神をも判断を間違えるのだった。
師走の満月の日。
その日の空には朝から厚い雲がかかり、昼には雨が降り出した。諦めきれずに釣殿に立った折姫は、雨粒の波紋で揺れる水面を眺め、がっくりと項垂れた。
「そんな。シオリちゃんの出産まであとひと月しかないのに」
月が出なければ白百合殿へ転移できない。ミカドやカヲルのように、神へ拝んで雲を晴らすことなど不可能だ。
為方なく部屋へ戻ると、キリヤの両手を握って並んで立つ、アスナとコトハをみつけた。
「姫さま! お久しぶりでございます。……ひめ、さま?」
ふたりの顔は雪のように白く、唇も色をなくしている。自立し、息をしているのに人形のように動かない。
キリヤが言う。
「お正月を御所で過ごすために帰ってきたんだって。……表向きは。可哀想に、笑わないし、声も出ないんだ」
折姫は言葉を失った。
桜の御息所に憑かれた中宮──、アスナとコトハがそのそばで暮らしていたのは、三月あまり。
白百合殿の瘴気はただならぬものであったが、背後にいた男は、ふたりを護ると言っていた。
それに、確かに呪符を捺した梨を置いて行ったのに──。
「愚かもの。食べてなくなるものに捺したのか」
ヒコがキツネの姿で、ふたりを包み込むように丸く伏せた。
「主上からの勅令だ。来年の内宴に向け、梅壺にてふたりを療養させる」
「内宴に向けてって……」
宴がそんなに大事か。
「内宴は、一年で最初の満月に神々へ感謝する特別な公儀だ。皇族はひとりとて欠けてはならない」
「そうですか。言われなくたって、必ず治してみせます。主上のように、口先だけで終わりません」
「主上は随分とお前に嫌われておるな。弁解するつもりはないが、この娘たちはお前しか治せんことがわかったから、ここに連れてこられたのだぞ」
「だったら、もっと早く連れてきたらよかったのに」
「桜の御息所がそれを許さなかった。先ほど中宮の意識がなくなり、ようやく連れ出せたまでだ」
「シオリちゃんの意識が……?」
「主上が強制的に眠りにつかせた。お腹の子に差し障りのないよう、この瀬戸際になってしまったのだろうな」
折姫は怒りで手が震えた。
お腹に子どもを抱えた妻と、抵抗できない小さな子どもたち。脅かしているのは、兇悪な悪鬼怨霊、桜の御息所。
だが御息所もまた、後宮にうずまく妬み嫉みから生まれた犠牲者ではないのか。
「冷静になれ。二度も言わせるな、この娘たちを護れるのはお前しかいない」
ヒコの言う通りだ。
折姫はうなずくと、焦点の合わないふたりと目線を合わせ、右手をかざした。
「まずは心臓の辺りに捺してみます」
「待て」
ピシャリ。豊かな尻尾で手をはたかれる。
「もっとよく考えろ。直接的な浄化など、小さなこの娘たちには刺激が強すぎる」
紙書院で内大臣を名乗るに手をおしつけたときのことを思い出した。心臓を外したにもかかわらず、男はひどく苦しんでいた。
「苦しんでいた……? つまり、あの人もまたなにかに蝕まれて……」
「今は余計なことを考えるな。はやく折れ」
「折る?」
「折り紙だ! お前の特技はそれだけだろうが」
「失礼な。なにかひとつのことに秀でている。それはとても特別なことだ ──」
ヒコは「こいつ何言ってんだ」という眼差しを送ってくる。まったくその通りである。
だが折姫は、何度もその言葉に救われてきた。
「そうですね、折りましょう」
まずは梅壺の女御とキリヤの持つ、桃の折り紙をふたりの懐に入れ、自分の寝所で寝かせた。外側からも癒すことができないかと、呪符を捺した花の折り紙を、敷妙を囲うように咲かせてみた。
あやめ、紫陽花、ひまわり、菊──、記憶を手繰るように、様々な種類を折れるだけ。
「……あれ?」
桜を折り、手から離した瞬間に指に光が走った。呪符を捺しすぎて、霊力が尽きてきたのだと思ったが、次にカーネーションを折りあげたときには何も感じられなかった。
再度、桜を折る。カーネーションよりずっと簡易的なものなのに、折り終わりに指から力を吸い取られる感覚が起きた。
ならばと、折り紙を五枚使用したユニットの桜を折る。
「──っ、もしかして、左手に反応してる?」
左手首が異様に重い。恐る恐る包帯を取ると、呪禁の紋様がチリチリと熱を帯びていた。ユニットの桜をかざす。
傷みはない。痕が消えることもない。ただぽろぽろと、季節はずれな桜の花びらが呪禁から溢れ出た。
慌てて帳台を出て、ヒコを呼ぶ。
「ヒコ様! ヒコ様! これ見てください!」
「なんだ。……馬鹿もの! 呪禁を見せるな、私も歴とした雄だ!」
ヒコは几帳の裏に隠れると、嗅覚を削ぐためか男の姿に変幻した。
難儀だなぁと思いながらも包帯を巻き直し、ヒコに訊ねる。
「呪禁に桜の折り紙を当てたら、花びらが出てきました。こんなこと、桜だけです。なにゆえでしょう」
「なにぃ? ……待てよ」
ヒコは人の姿のまま釣殿へ出ると、キリヤと共に戻ってきた。キリヤは池に浮かぶ鬼火を捕らえる手伝いをしている。この日も網を片手に、水桶いっぱいに捕まえていた。
「水桶に折り紙を」
「はい」
折姫が桜の折り紙を水桶に落とすと、鬼火はすべて水のなかで弾け、花びらとなって浮かび上った。
キリヤの目が輝く。
「すごい……! 私だと、ひとつひとつ詠唱がいるのに!」
「ふむ。鬼火は瘴気のかたまり。桜の花が瘴気を浄化させ、無害な花びらにして散らせたか」
「これ、姫さまたちにも使えますか?」
「いや、それより。折って欲しいものがある」
そう言うと、ヒコはまた釣殿へ出て枯れた蓮の根を指差した。
「蓮の花は浄化の象徴。そしてその花は朝に花びらを開き、日暮れには閉じる。まるでお前の異能のようだろう」
ヒコが指を弾くと、蓮はみるみるうちに緑の葉を伸ばし、蕾をつけ、花を咲かせた。
「あれを折れるか」
「はい」
折姫は蓮の花だけで四種ほど折ってみせた。
一枚で折る平面のもの。立体のもの。三枚で折る少し複雑なもの。それから十二枚使用する、特別なもの。
蓮の花の花びらが開くたびに、雨雲で薄暗い部屋に灯りが点ったように明るくなった。
「どうでしょう。……ヒコ様!?」
ヒコは十二枚の蓮の花を扇子ではたき潰した。
「なんてもの生み出してくれた!」
「言われた通り折っただけですよ」
「決して生身の人間に触らせるな。極楽浄土へ導いてしまうぞ」
「なんてもの作らせたんですか!」
急いで他も片そうとするが、ヒコは一枚で折った立体のものを拾うと、キリヤの胸へと差し出した。
「なかが空洞になっている。御霊を包み込むように、ソッと──」
折り紙がキリヤの衣裳に溶け込んでいく。襟をはだけさせると、蓮の花が痣のように薄紅色に、肌に染みついた。
ヒコの頬にひと粒、涙が伝う。
「……同じものを、あと三つ。急げ」
ひとつめは梅壺の女御へ折り、ヒコに引き渡された。
残りのふたつ、アスナとコトハへ折り終えたところにヒコが戻ると、折姫へ跪いた。
「対価を」
「また対価ですか。この世界はなんでも対価、対価って」
「あの人の傍にずっと居られる。生身に触れることができる。お前は、私を一生従えられるほどの陽報を受けるべきだ」
「一生って」
来月には終えます。
涙を堪えられず、板間にぽたぽたとこぼしながら、頭を下げ続けるヒコに、折姫は言った。
「では、中宮様を助けるため、私に協力してください」
「なにぃ!? ……それは出来ん。先に私と契約したのは、春の君だ。陽報を受けるべきとは言ったが、お前の願いにだけは手を貸せん」
主人の想いびとである折姫の、死の手伝いなど。
「悪鬼抹殺に手を貸すことが、今の私の務めだ」
「ではせめて助言をください。悪鬼とは、御息所のことですよね。先ほど折った蓮の花で御息所の魂を浄化することはできないのですか」
「あれはもう人の魂をもたない。六天魔王と肩を並べられる、兇悪な悪鬼怨霊だ。その力を封じこめることならば、出来るかもしれん。いや──、出来る」
ヒコは自身が潰した蓮の花を見た。
たとえば、中宮から悪鬼を引き離せたとして、折姫へより移る前に蓮の花に封じることができれば、ミカドの力で滅することができる。
「……蓮の花に悪鬼を封じてから、お前はその花を胸へ引き寄せるといい。お前を依代にした瞬間、悪鬼は強い浄化で身体のなかをのたうちまわり、破裂するだろう」
嘘はついていない。
その前の刹那に討てばよいのだ。
大きな賭けだが、折姫とミカド双方の願いを受け入れるには、これしかない。
折姫は破裂という言葉の響きに目を爛々とさせた。
「ただ、滅したあとに溢れ出す瘴気もひどいだろうな」
「巻き添えになる人間が出ると」
「たとえ陰陽師であろうと、吸えば死に至らしめるような瘴気だ」
「防ぐには、どうすれば」
「……桜だ! 瘴気を花びらとして散らせる、桜を御所に撒いては」
「なるほどー! さすがヒコ様!」
「はあ、これはまた。しまったな」
ヒコの叡智を味方につけ、折姫はまた一歩、計画の成功へと近づいた。稲荷神は今世に落ち、頭を抱えてばかりである。
ふたりが話し込むあいだに、しびれを切らしたキリヤが帳台へしのび込むと、可愛い姉妹が「お腹空いた」と顔を出したのだった。




