二十七折
季節は移ろい霜月も末のこと。
ひらけた芙蓉殿の縁で、折姫は久しぶりに折り紙を折っていた。
身体の傷や火傷は簡単に治ったが、ヒコの呪符がついた右手を護符で癒すことができず、自然治癒を待つほかなかった。今朝に典薬寮で、右手の使用に許可が下りたばかりだ。
折姫の姿を見つけ、御子たちが集まってきた。庭で木刀を振っていたカヲルが、その純真な勢いをとめる。
「こらこら、折姫様は病み上がりだぞ。あまり無理はさせるな」
「大丈夫よカヲル。はい、カイロ」
「カイロ?」
「帯にはさんでみて。少しずつ、あったまってくと思う。ほら、みんなも」
淡々と折る、その指先に迷いがない。
火事に遭う前より洗練されている気さえする。
「……あったかいな」
「そうでしょう」
折姫は笑うと眉が悲しげに下がる。その笑みの奥に折姫は居ない。
カヲルはこの三月、暇ができれば折姫に付き添っているが、生き人形と接しているようだ。心の戸を叩いても、留守にしている。たとえば、
「すまないカヲル。内侍司を探しているのだが」
庭から現れたミカドの声に、以前ならば折姫の指が止まった。今の折姫にはもう、ミカドの声すら届かない。
カヲルはわざわざ沓を脱いで部屋へ上がった。
「なかにいる。呼んでくるよ」
しばらくして、ミカドの隣に可愛らしい姫様が並んだ。新しく入内した芙蓉殿の内侍司だ。
カヲルは庭へ戻らず、折姫の右側に腰を入れた。
「いいのか、放っておいて」
「なにを?」
「ミカドだよ。内侍司の顔みてみろよ、うっとりしちゃって。あの女、図々しく帳台の前で待ってたぜ? 今夜にも食べられちゃうかもなぁ、あいつ今なら簡単におとせそうだし」
「そう」
「おい折姫、しっかりしろよ!」
「なにを」
「ミカドが女官をひとり囲えば、また次々と入ってくる。後宮が女であふれかえるんだぞ!」
「そう」
折姫は紅くなった指先に息を吹きかけた。
「そういうの、疲れちゃった」
「……そうか」
カヲルは腰から笛を引き抜くと、折姫に被さるようにして座り直した。
「だったら俺は、あきらめずその隙につけ入る」
子どもが遠慮する熱量の笛の音が空へ駆け上る。
折姫は目を閉じた。
耳を傾けていれば、時間だけが過ぎていく。
カヲルの笛が好きだった。
カヲルが役で離れると、折姫は桜の壺へ向かった。明日からまた巫女の務めが始まるため、その準備だ。三月ぶりの桜の壺は、まるで毎日を過ごしていたように綺麗だった。
縁で桜の精霊が体育座りをしている。
「まだ落ち込んでいるの?」
「だって、姫様を助けられませんでした」
「いつものことでしょう。それでも怠惰にしては、綺麗にしてるじゃない」
「いつでも戻れるようにと、言いつけられておりましたので」
「ありがとう、シオン」
桜色の髪をなでる。
紙屋院が炎にのまれた日、シオンは主人の危機を察しいち早く駆けつけたが、鬼火に焼かれた彼岸花をみて卒倒した。折姫は彼を責めなかったが、のちのちミカドにひどく叱られたようで、姫様に顔向けできないと桜の壺に引きこもっていた。
「剪定されたくなかったら、そろそろ命令に従おうね」
「辛辣!」
「さてと、今のうちに復習しようかな」
折姫は御所の地図をひろげ、その横にミルクを注いだ皿をおいた。殿舎のどこかにひそむネコを誘き寄せるためだ。
「えーと、……今日は、満月。おそらく紫宸殿から芙蓉殿の中庭。満月と新月はだいたいわかってきたなあ」
「姫様、なんですかそれ」
「すごいでしょう。ミカド様の空間術式、十二日周期で法則があることがわかったの」
地図は十二枚。穴埋めはまだ終わっていないが、満月の日の法則はだいたいつかめてきた。たとえば紫宸殿の高御座の右から二つ目の几帳を潜れば、梅壺へ。三つ目が芙蓉殿の中庭につながる。本人でなければ入れなかったり、戸をふたつ叩いたりと複雑ではあったが、難解なパズルのよう。折り紙を折らない時間はとにかく暇で、気づけばのめり込んでいた。
シオンはそんな主人へ憐憫の眼差しを向けた。
無意識にミカドを目で追っていることに気づいていないのだ。
以前ならばそんな自分に気づくたび、自己嫌悪に陥っていたが、今は違う。まるでミカドがしゃべって動く飾り物のように、見えているようだ。
折姫は、この三月で変わってしまった。
夢中で地図に書き込むその横顔に訊ねる。
「お化け屋敷に乳母、巫女さま、次の目標は決まりましたか」
「目標?」
「姫様はいつだって、なにかに向かって頑張っていらっしゃいました。私は存じておりますよ、姫様はすでに神道の基礎をほぼ身につけておいでです。高見を目指すのでしたら、やはり陰陽師でしょうか」
「私が? 考えるだけでもおこがましい」
折姫は自嘲するように笑った。
巫女として神道の教示を受けたが、高い木の根本にようやく立てた程度だ。何年もかけて登りきったとしても、ミカドやカヲルのような陰陽師は、手の届かぬはるか雲の上。今ならば、ふたりの香りや佇まいだけで、その格の差を感じ取ることができる。
「夢なら、見ます」
「夢?」
「みんなが笑ってる夢。ミカド様も、シオリちゃんも。その夢を現実にしたい」
「中宮、ですか」
「シオリちゃんから、桜の御息所を引き離すにはどうしたらいいのかしら」
「難しいですね。後宮を滅するというふたりの強い念が、御霊同士を重ね、今にも溶け合おうとしています。ああなってしまっては、主上の祈祷も意味をなさない」
「これを使っても、難しい?」
折姫は右手のひらをシオンへ見せた。シオンはすぐに首を横にふった。
「苦しめるだけで、引き離すほどでは」
「そう」
シオンは心を痛めた。
折姫は息をするように、いつも誰かを思いやっている。今なら平気で命を投げうってしまいそうだ。主人の心を取り戻すためには、真実を語るしかない。
あなたが振ったミカドは主上ではなく、その嫡男である皇太子で、夫なのだと。
「姫様、実はこのシオン、折り言ってお話しが──」
折姫の目が一寸、輝いた。
「ふふ、来たきた」
クロがミルクを舐めにきたのだ。
小さなクロは、ちっとも変わらず琥珀色の瞳をミルクに映した。
「お前、ちゃんと餌をもらっているの?」
「ミカド様が毎日、膳の残りを猫まんまにして置いていきますよ」
「そうなの?」
「はい。この三月、桜の壺で飼われていたので、知った仲です」
「いいなぁ。私も、クロといっしょに居たい」
重々しく響く声。
「それはなりません」
ミカドだ。
ミカドは忙しなく部屋のなかを周り、柱へ床にと手当たり次第、なにか描いている。
「折姫、あなたはもうここへ来てはなりません」
「私が女御ではないからですか。ここへ、新しい姫様を迎えられるのですか」
「違います。先ほど、シオンに不吉な影が見えました。あなたが回復されたことを何者かが悟ったようです。恐らくあなたの舎人であるシオンが、次に狙われている。母体を傷つけられぬよう、護らねば」
「シオンが……?」
「残念ですがしばらく使役も控えてください。さあ、すぐに薔薇の壺へ」
「やっと、……戻れたのに」
不満がこぼれた。
御簾を下ろしていたミカドの手がとまる。
「また私は、判断を間違えたかな」
打ちのめされたように、言った。
「いいえ。シオンを護るためですもの」
折姫はそう自分に言い聞かせると、なにか言いたげなシオンを一度抱きしめ、薔薇の壺へ戻った。
「やあねぇ。私が教えること、もうないじゃない」
カリナは式盤を前に唸った。
式占を得意とするカリナと寸分狂わぬ結果を導き出し、舌を巻いたのだ。
吉ならば凶をひいた折姫が。
ひと月、算盤に集中した折姫は数字を特技に変え、残りのふた月で神道の基礎を頭につめこんだ。しかし占いの結果はよくない。
「この方位、方角、薔薇の壺に災いあり」
「やんなっちゃう」
「カヲルに伝えましょうか」
「待って」
カリナは折姫の手首を取った。
「あなた、勘違いしてない? カヲルは使い走りじゃないわ」
「そんなことは──」
あるかもしれない。
顧みれば、カヲルを頼っている。シオンが首を横にふることを、二つ返事で請け負ってくれる。
「あの子の気持ち、知っているのでしょう」
「カヲルの、気持ち」
「応えられないのなら、捨ててやって。その上で頼りなさい。この件は私から伝えておくから」
付き合わせていたカリナの膝が消えた。
「カヲルの、気持ち?」
折姫は首を傾げた。
式盤の上の小鬼も真似をして頭をひねる。
「あー、もう! なによここ、鬼だらけじゃない!」
荒んだ声に、小鬼がとんで逃げた。折姫が顔をあげると姫様が肩で息をして立っていた。
芙蓉殿の内侍司だ。
ミカドがよく利用する出居の蔀戸から現れた。
「こんにちは。よく入れましたね」
「はぁ!? ……失礼を、桜の壺の女御。お届けものがあって参りました」
詰め寄るように膝を近づけ、一通の手紙を差し出す。
「優しい公達が通してくださいましたのよ」
公達とは誰のことか、訊ねるべきか。
折姫は作り笑いを浮かべながら、思い直した。
入内したばかりの姫君に深入りさせてはいけない。
「わざわざご足労を。ありがとうございます」
「中宮様から折姫様へ宛てられたこのお手紙、決して折姫様に渡さず、春の君へと言われておりますが、ここへ来てすでに十通目。さすがに心が痛んでしまって」
「十通……?」
「内緒ですよ。幸せのお裾分けです!」
「この手紙──」
折姫は手にとらず、じっくりと見つめた。ただの白い紙にみえて、なにか術がかけられているようだ。
話しにのってこない折姫に、内侍司のこめかみがぷつんと音を鳴らせた。
「愉しみですわ! 今夜の宴に、春の君が牛車を出してくださいますの」
「宴……?」 知らされてもいない。
「紅葉狩りです。折姫様はもちろん、薫の君といらっしゃるのでしょう。あちらでお逢いしましょう。それでは」
お化粧し直さなければと、戻っていく彼女の後ろ姿に、春のころの自身と重ねた。ずいぶん昔のことのようだ。
手紙に向き直り、カヲルを待って開けようと思い、溜め息をこぼした。
カリナの言う通り。カヲルは舎人でも式神でもないのに。
念のため包み布で手紙を取ると、わかりやすいよう式盤の上に置いた。
「紅葉狩りかぁ」
折姫は庭を望める縁へと腰を移した。
薔薇の壺の紅葉も真っ赤に燃えている。梅壺が隣接する北池はさぞ美しいことだろう。
空を望めば、満月。
折姫は地図を広げた。今日の梅壺への扉は火鉢の向こう側の几帳。無論、潜る譯ではない。想いを馳せるだけだ。シオンを狙われているのに、むざむざとひと気の多い宴へ姿を現すほど愚かではない。
折姫は身震いをした。
今日は火鉢で暖をとることになりそうだ。火消し婆を探し、辺りを見回した。
「あ、そんなところに──」
部屋の隅で妖、小鬼がここぞと集まって、おしくらまんじゅうをしている。火消し婆は細い首を折れそうなほど横に振った。油すましが指をさす。
式盤の上に置いた手紙が開いている。
いや、内からの圧力で今も開きつつある。三つ折りにされた手紙の右側が開ききると、黒い、墨で描いたような指が現れた。
夜が早送りされたように、部屋が暗くなる。
「イオリ……!」
「おじいちゃん?」
小豆洗いの皺だらけの手が折姫の袖にかからんとするとき、頭ひとつぶんある黒い爪が狭間を切り裂いた。爪はひとつからふたつ、みっつよっつ増え、小豆洗いを握ろうとする。そうはさせまいと、毛女郎の髪が小豆洗いの身体を絡めとり、みなが居るほうへと引きずっていった。次は折姫をと髪をのばすが、あと一歩のところが届かない。
折姫は自力で行こうと板間を這うが、ナメクジのように遅い。手足が重くなり、思うように動かないのだ。広がるばかりの唐衣裳に爪が立った。
「折姫……!」
爪が薔薇の花びらのように散る。
カヲルだ。
カヲルの太刀は碧い炎をまとっていた。
この三月で会得した、鬼を斬るための術式──。刀は呪禁から目覚めた鬼の手を、一瞬で薙ぎ祓った。
折姫を抱き起こそうと手をのばすが、折姫の身体は明後日を向いた。八歩先でカリナが男童をかばい、背に傷を負っている。
「手は二本で終わりだろうなぁ!」
太刀で孤を描き、向かってくる爪を一度で切り捨てる。カヲルが母の無事を目で確かめ、折姫へ肩を向き直したその時だ。
ずしり。
黒く大きな足が、庭に沈んだ。
カリナが大切にしていた草花が黒ずみ、腐っていく。悲しみに暮れる余裕などあたえず、足は猛烈な風を起こし振り上がる。
一寸の、静寂。
家鳴りがぽとりと、落ちた。足は屋根瓦ごと家鳴りを踏み潰し、板間に沈んだ。カヲルはすかさずその足首に太刀を入れるが、そのために折姫からさらに離れてしまった。
恐らくもう一足。足首が消えるのを待たずに折姫のもとへ向かうが──。
家鳴りはぽとりと、折姫の膝にのった。
「い、やだいやだいやだ……! 折姫!」
折姫は、カヲルの絶望をふくんだ声に間に合わないのだと悟る。頭上から落ちてくる足裏を見上げ、右手のひらを掲げた。鬼には無意味な行為であったが、その袖についていた花びらに、折姫の危機が伝わった。
別れ際に抱きしめ、ついた花びらだ。
ぐしゃり。
板間を破り沈んだ足首をカヲルが薙ぎはらう。
カヲルは折姫と目が合った。折姫は大きな足跡のふちで、無傷で泣いていた。
「カヲル……、シオン、が……」
墨の帳が明け、夕陽が射し込む足跡を見下ろす。
壊滅した幹や折れた枝を隠すように、大量の桜の花びらが血溜まりのように広がる。小鳥が枝を揺らすような、パキパキとした音がわずかに残っていた。




