二十六折
八つ刻の紫宸殿。
高御座の下でふたりの男が声を荒げていた。
「春の君、春の君……!」
「どうしたってまたこんな大事な日に」
左の桜。右の橘。
ふたつの紋様が目にうるさい。
左大臣と右大臣はミカドに詰め寄りすぎて、互いの額を小突きあった。
「いてて……っ、ああもう、春の君といい、折姫といい」
「折姫?」
右大臣の問いにミカドの肩が微かに揺れる。
左大臣は頭をかきむしりながら言った。
「今日の神事、観ていなかったのか? 春の君が祝詞を間違え、神の機嫌を損なわせた。適当に供饌を折ってくれと折姫に頼めば、上がったのは四角く折っただけの油揚げ。それもズレてるときた。なかなかの地獄であったぞ」
「……たしかに、御所の気が乱れているような」
「ですから、主上不在の今、結界を見直さねば!」
「任せるよ」
「春の君……! ああもう、薫の君はいずこへ!」
「ここでーす」
パタリ、倒れ込む。
主上に付き添い中宮を御用邸へ送り届けたはいいが、中宮の濃い瘴気に異形が集まり、夜通し刀を振り回していた。さて帰ろうかと御所を目指すも、ぼろぼろの近衛兵を山賊に狙い撃ちにされる始末。
「無事であったか」
ミカドが吐き捨てる。
「今、舌打ちしなかった?」
「ちょうどよかった、話がある」
「舌打ちしたよね。舌打ちだけは許せないなあ」
「うるさい」
カヲルの襟足をもってずるずると奥へ消えていく。
「春の君! 話しは終わっていません!」
「まあまあ、今は私たちのできることをしましょう」
諦めきれぬ左大臣に、それをなだめる右大臣。
その下にも殿上人が不安気に口ばかり動かしている。
「主上も我々も、あの子たちに頼りすぎだ」
右大臣は御所の地図を広げ、ひとり考えあぐねた。
ミカドが向かった先は薔薇の壺の湯殿であった。
「あー、もう! お前の空間術式、疲れてるとめまいする」
「うるさいし、血生臭い。さっさと返り血を落とせ」
「なんでお前も入るの!? 為事しろ為事ー!」
「話しがあると言った」
言い争ってはいても皇子。湯に浸かるときは水飛沫をあげない。
「はあー。生き返るー。……で、話しってなに」
「ふられた」
「へぇ。──は? ええ?」
カヲルはじととミカドを見据えた。
なるほど、いつもある目の下の深いクマが、紅を滲ませたようにただれている。
「……そうかよ」
「それで、折姫に折った御守りの効力がなくなった」
「はあ? お前馬鹿なの? 俺だけじゃなくて、ほかの男に襲われたらどうすんだよ」
「でも、もう折れない。だからカヲルが護ってやって」
「なんだよそれ」
御所にはカヲルの武力に勝るものはいないが、理性との戦いには本人がいちばん勝てる気がしない。
「あ──────! もう、疲れてんだよ俺は!」
両腕を岩肌に投げ出す。右手が震えた。柄を握りすぎたのだ。
「ミカド、俺はじめて、生身の人間を斬ったよ」
「そうか。つらいか」
「いや、怨霊と変わらん。なにも感じない。それがつらい」
──人を斬るために生まれた。
カヲルが齢五歳の春、主上が言い放った。近衛大将になるべくして生まれたのだと、周りも褒め称えた。
カヲルは嬉しくなかった。
主上のような陰陽師になりたかった。
それなのにミカドと同じ口伝を受けられず、刀ばかり握らされた。握るたびに思い知らされた。
自分が極めるべき道なのだと。
ミカドはさらりと言う。
「悪いが今は、慰められない」
「間の悪いことで。己れでどうにか立ち直るから、お前もいいかげん為事に戻れ」
「御所は護るよ。明日くらいから」
「今すぐやれよ」
「今夜は無理なんだ」
「はあ? なんで──、ああ! そうかお前、泣いたのか!」
「うるさいよ」
ミカドの精神の核たる陰陽は均一で乱れのない、水面のようだ。だがそこに涙が垂れると、容易に波紋を広げ、泣けばなくほど水面は乱れた。陽を遮り、すべての霊力が陰へ傾くと、自ずと闇の精霊を喚んでしまう。
それを引き起こしたのは、人生でたった一度だけ。
母の死だった。
桜の御息所の怨霊が彷徨うなか、カヲルのはじめての役は、腐った死体をバラバラに斬り捨てることだった。
闇の精霊は土に埋めた死体を掘り起こし、傀儡にして彷徨わせる。傀儡は刀で斬りはらえばよかったが、精霊は違う。精霊を還すためには恐ろしいほど霊力を剥ぎ取られるため、当時太刀打った主上はしばらく寝込んだ。
「精霊はどうしたよ」
「還した」 さらりと言う。
「だがそれだけで霊力が尽きた」
「当然だろうよ」
「傀儡は春宮御所へ閉じ込めてあるから、いつかよろしく」
「やだよ。なにその無益な戦い」
「俺だって情けないよ。これで少しでも眠れたらいいのに」
「おっ、殴ってやろうか?」
ふたりのやり取りはそこで潰えた。
鼓膜を撃ち破るような警笛音が、御所を突き抜けた。
*
少し刻を遡り、薔薇の壺。
供饌のやり直しを命ぜられた折姫は、カリナと膝をつきあわせひたすらに折っていたのだが、
「あー、もう! やめ、やめ!」
カリナが先に匙を投げた。
「こんなの捧げたら天罰がくだるわよ。今日はおやすみ、息抜きに果物でも食べましょう」
目の前にぶどうの房をみせつけられ、わずかに自分を取り戻した折姫は、板間に散らばった紙クズを見て愕然とした。
何かしらに折られた折り紙たちは、形を成せず、シワのない紙に戻りたがっていた。
「ごめんね」
自分で巻いた種だが、まさかこんなにも打ちのめされるとは、思っていなかった。まるで行き場のない「衣折」が道を塞いでいるようだった。
だからといって、もう戻れない。
「もったいないので紙屋院へ持って行きます」
「はい、行ってらっしゃい」
折姫は包み布へ紙を広い集めると、シオンを喚んだ。
今日のシオンは機嫌が悪いのか朝からずっと黙している。いつもはうるさすぎるくらいなので、助かるが何があったのか。
「行きずりの桜に失恋でもしたの?」
「失恋……? 姫様の口から、失恋などと、冗談でも言わないでください!」
「主人に八つ当たりしないでくれる!?」
シオンは折姫を紙屋院へ送り届けると、すぐに消えてしまった。
紫宸殿に近い書殿では、書物の保管所の横で使えなくなった古紙を復元する紙屋院がある。見知った女官をみつけ、ぶどうひと房とともに折り紙を託した。
「少しお待ちいただければ、お渡しできますが」
「ではお願いします」
折姫は庭へ目を移し、不意を食らった。
「彼岸花……?」
「ああ、この殿舎では蔵所を護るために気温を下げています。そのせいか、毎年早咲きなのですよ」
「そう。とっても綺麗……」
頭を垂れながら女官が下がる。
折姫はしばし見惚れた。庭を埋め尽くす一色の花。鮮やかな紅に魂までが惹き込まれてしまいそうだ。
ミカドの唇もそんな色をしていた。
「……あーあ。なんにも、変わらないや」
結局、ミカドのことを考えている。
自分の首をしめただけだった。
「何が変わらない。私には、とても変わったように見えるがね」
「あなたは……!」
折姫は左手を庇うようにして間をとった。
紫の袍──、内大臣だ。
「今までどこに隠れていたのですか。みんな探していました」
「結界だらけでねぇ、出るに出られない。それがどうした、今日の御所はあちこち穴だらけじゃないか。こんなことでは、ほら──」
一輪の彼岸花に火が灯る。
「鬼火が、書物を啖うぞ」
火を灯した彼岸花が爆ぜ、花火のように火花が散った。火花は周りの彼岸花に燃え移り、また爆ぜた。爆ぜれば広がる火花の花。
「あぁ、ほら。ぼうっとしているから」
爪先ほどにみえた火花が、一斉に火柱をあげた。
──魍。
その爆風は庭の塀をのぼり、外へもれるほどの勢いだった。とうぜん、ちいさな折姫の身体は吹き飛ばされ、背中を向けていた柱に身体を打ちつけた。柱の角で折れた右手があらぬほうを向いている。
「呆気のない。ひとりでは何もできない、ただの小娘ではないか」
その男は軽々と折姫を抱き上げた。
「だが今や高嶺の花。ああ──。悔恨にかられた、みなの顔が愉しみだ」
折姫は混濁した意識のなかで、男の唇の詠唱を読んだ。転移術──、唇が閉じれば、どこかへ連れ去られてしまう。わずかに動く左手で袖をたぐり、もはや感覚のない右手を、男へ引き寄せた。
「な、んだ、これは────?」
男は折姫を落とすと、胸をおさえうずくまった。袍に手のひらの呪符を押したのだ。わずかに心臓からずれたが、脅かすにはじゅうぶんだった。折姫は身体を板間に打ちつけながらも、左手を袖のなかへ入れた。乾いた紙の感触を手繰る。
男は胸を焦がす呪符に悶絶しながらも、声高らかに笑った。
「やはり、すぐに殺したほうがよさそうだ」
男は懐から薙刀を取り出した。刃身に炎の色が映り、やけにまぶしい。折姫は目を瞑り、手のなかの折り紙を握りつぶした。
鳩の断末魔が屋根をつきぬける。
折姫が再び自分を取り戻したのは、冷や水を浴びせられたわずか数秒後のことだった。
「おり、ひめ……? うそだろ、おい……!」
カヲルにきつく抱きしめられながら気づいた。
胸の御守りに効力がないこと。
それは、水を浴びたからではないこと。内大臣に抱き上げられた時にはもうすでに、意味をなさなかった。
カヲルの肩越しに、ミカドが見えた。
ミカドは白い犬のようなものにまたがり、殿内を走り回っていた。ミカドが駆け抜けた回廊は水が渦を巻いて火を絡めとっていく。
「ヒコ、さっそく助けてくれてありがとう」
「まったくだ」
「カヲル。……あとは、頼んだよ」
ミカドはふたりを一瞥すると、殿舎を出て行った。
入れ替わりに近衛兵が詰めかける。
──まるで、捨て猫みたい。
折姫の瞳はうつら、うつらと閉じながら、少しずつ虚無に染まっていった。




