二十五折
翌日、神事を終えると珍しくミカドから命を下された。
「今日の後宮の供饌は、梅壺を最後にしてほしい」
「畏まりました」
「稲荷神があなたと話しをしたいそうだ」
折姫はひそやかに肝を潰した。
あろうことか神さまへ啖呵を切っておいて、その後、桃の美味さで心を満たし、すっかり忘れていたのだ。
折姫はいたたまれない気持ちで昨夜と同じ場所に腰を据えた。礼を尽くし、深々と頭を下げると几帳が甲高い笑い声で揺れた。ヒコだ。
「昨夜の威勢はどこへいった。酒でも飲んでいたのか?」
「ごもっともですが、素面での無礼。誠に申し訳ございませんでした!」
「謝ってほしくて呼んだ譯ではないよ。あなたには感謝している」
ややあって、几帳の向こうからキリヤが顔を出した。折姫の困惑した表情を見て笑っている。
「わかるか。あなたのおかげで、私たちは家族になれた」
「家族?」
「あれからキリヤと話した。たくさん、たくさん、な」
「それからいっしょに、眠ったんだよ」
キリヤが恥ずかしそうに言う。
「寿命が縮むというのに、この子が聞かなくて」
蚊帳の外で月を眺めながら、三人ならんで眠ったという。なるほど、キリヤの頬には蚊に刺された痕がある。キリヤは誇らしげに、掻きむしった。
「父上はすごいんだよ! やさしくて、かっこよくて、母上が大好きなんだ」
後ろ手で女御のやわらかな笑い声がする。だがその声は徐々にかすれ、咳込んだ。悪いものを飲み込んだような音だ。
ヒコの声音もまた、神妙な表情へと変わった。
「折姫よ。あなたにお願いがある。私たちに折り紙を折ってくれないか」
「折り紙、ですか」
「私を暴いたあなたになら、折れるのではないかな」
几帳の向こうから、一枚の紙切れが送られてきた。円形の複雑な紋様がひとつ描かれている。
「手のひらを重ねてみなさい」
「はい」
「待った。あなたの左手には呪いがかけられているようだ」
内大臣のつけた火傷は肌に染みつくような痕を残し、未だ癒えない。ヒコは几帳の奥で唸った。
「はあ──、男を惑わす呪禁か。私には難しい。すまないが、右手で頼もう」
「はい」
稲荷神であるヒコにならば治せるかもしれない。かすかに抱いた期待はすぐに砕かれた。折姫は落胆しながらも右手を差し出し、紋様に重ねた。
紋様が生きたように紙からはがれ、手のひらへと移っていく。痛みはない。紙が白紙になると、手には冷ややかな光を帯びた。驚いて手のひらを返すが、貼り付いたはずの紋様は消えている。
「うむ。ではさっそく折っていただこう。折る前に、判を捺すように紙へ手のひらの呪符を捺し込むのだよ」
「呪符、ですか」
「意識して」
言われるがままに、折り紙を取り出し右手のひらを捺す。まるで紙に呪符を焼きつけるような熱を感じた。
「上出来だ」
「何を折りましょうか」
「そうだな。記念に今日の供饌にしよう。ふたつ頼むよ」
「では女御さまと、キリヤさまへ折るのですね?」
「そう。魂を浄化する呪符だ」
今日の供饌は桃だ。言われたからには責務を全うしようと、昨夜食べた桃に想いを馳せながら、黙々と折った。筆をかり、名を添える。
「できました」
「……素晴らしい! ここまでとは畏れ入った」
「失礼ながら、具体的にはどのような作用が?」
「私と時を過ごしたものは生気を奪われ、穢れがつきやすくなる。この呪符は生気を注ぎ込み、穢れをはね退ける力がある」
「では、おふたりの寿命は削られないのですね!」
「いや、わずかに止める薬のようなものだ。だがあなたの折ったものならば、ほんとうに半年は持ち堪えてくれそうだ」
「半年、ですか」
「春の君と契約を結んだ。彼が悪鬼を滅したあと、私は御所の浄化を担う。それから天上へ帰るよ。彼の異能を嫌っていたが、話せば見方が変わった。あなたのおかげだ」
扇子を開く、乾いた音がする。
「さて。褒美はなにがいい」
「褒美……? そんな、受け取れません!」
「そうは言っても、対価を支払わねば」
「この、手のひらの呪符が対価ではないのですか」
紙に捺すだけで、多くの人を助けられる。巫女として最も優れた異能といえる。
「その呪符は私の勝手でつけたものだ。心づけだと思って、好きに使うといい」
折姫は戸惑いながらも、考えた。
化粧道具も衣裳も揃っているし、不便はない。色のついた折り紙が欲しいと、紙屋院へねだり、作ってもらったばかり。念願の桃も食べられた。振り返れば、とても恵まれていると、理解しただけだった。
しびれを切らしたヒコは、折姫の心を読んだ。
「ふむ。無欲なようで、人間らしい一面もあるではないか」
とつぜんに、几帳をくぐり姿を現す。
折姫は取り乱し、開こうとした扇子を落としてしまった。袂をかぶるようにして目を覆う。
「どうした。私の顔を見たかったのでは」
「お顔を、ですか……?」
折姫は身も心もすくんだように、固まった。
そうだ。
その通り、几帳の向こうに座る公達のことが、ずっと気になっていた。気になって昨夜はその場から逃げ出したほどだ。
ヒコは、梅壺の女御が望んだ姿に化けている。
三夜限りで会うことが叶わなくなった、主上の玉顔を貼り付け、目の前にいるのだ。
袖を下ろせば、すぐそこに──。
薔薇の壺に戻る気になれず、とぼとぼと歩いていると、シオンの肩に折紙のフクロウが止まった。
「今から白百合殿へ上がるようにですと」
「白百合殿……、なにかしら」
「中宮が今から御用邸へ下られるようです。その前にひと目会っておきたいと」
「今から?」
「出産はまだ先ですが、ずいぶんと急ですね」
昨夜にようやく目を合わせられたというのに。涼しくなってから、手紙でも送ろうと考えていたが、遅かったようだ。
落ち込んだ様子の折姫に、シオンは今話すべきか悩んでいた。
ここ最近の折姫を見ていると、ミカドへの視線が厳しい。主上のことを非難するときの表情だ。まさか本当にミカドが主上だなんて思い込んでいるのだろうかと疑心していれば、梅壺でのヒコとのやり取りが、決定打となった。
愛憎は紙一重。
折姫がミカドを恨む前に、誤解を解かなければ。
「あの、姫様〜〜、このシオン、折り言ってお話しが……」
「でも、会ってお話しできるなんて嬉しい! なにかお土産を持っていきましょう」
「ええと、薔薇の壺に、食べごろの梨が実っていますよ」
「それだ!」
シオンは主人の転移命令のため、口をつぐんだ。
そのことを後悔しない日はない。
腕を組んで待っていたカリナへ頭を下げ、折姫は白百合殿へ向かった。ふたりの童子は変わらずちんまりと座っている。
「こんにちは、阿吽」
「折姫か」
「折姫じゃ」
名は阿と吽。狛犬らしい名だ。
「中宮さまに会わせてくださいどうぞ」
「梨か」
「梨じゃ!」
毎朝顔を合わせているので、慣れたものだ。嬉しそうに受け取ったので、そのうちに狭間を潜った。だがその先にあったのは、息を呑む光景であった。
美しい庭園は見るに耐えない朽ち果てぶり。樹木は枯れ果て、落ち葉もない。下生えの苔すら茶色く、肝心の百合の花は、枯れず根から腐ったような、異臭を放っていた。夏の陽射しを遮るようにして下された御簾には、びっしりと隙間なく護符が貼られている。
「シオン……?」
ついてきていたはずの舎人の姿がない。
「どうぞ、入って?」
中宮のやわらかな声音に胸をなでおろし、御簾をくぐる。同時にひどい寒気に襲われた。まるで冬のような寒さだ。
部屋も異様であった。
中宮を囲うようにして、護符でできた行灯が積み上げられている。一段ではなく、中宮の頭をすっぽりと隠しきるように、何段も、何行も。行灯を隔て、アスナとコトハが正座していた。ふたりも寒いのか、顔が青白い。
「座って」
命じられたように、その場に腰を据える。肩が震えるほど寒いのになぜか、こめかみから汗が垂れた。中宮の声は依然としてやわらかだ。
「笑っていいのよ? この部屋すごいでしょう。私、こうでもしないと御所に居られないほど、穢れているんですって。娘を抱くことすら、叶わないのよ……!」
中宮は、笑った。笑えば笑うほど、天井が軋むようだった。
──はぁ。
最後に吐いた、笑いをふくんだ溜め息にゾッとした。
「もうここには居られない。だから、アスナとコトハを連れていくの」
ふたりの肩が跳ねる。その目は涙をため、折姫へ助けを求めているようにすら見える。
ふたりの背後にかかる几帳裏から声がした。
「アスナとコトハのことは、私が命をかけて護るよ」
「帝は、黙っていて!」
折姫はたしかに聞いた。
中宮は几帳裏にひそむ男をミカドと、呼んだ。
「ねぇ? 折姫は、処女なんでしょう? 顔に処女を貼り付けて歩いて、恥ずかしくないの? 浄らかさを売りにしてなに。穢れた私への当てつけ? 私がつわりで苦しんでいる間にアスナとコトハを懐かせて、皇后の座を狙おうとでも企んでいたのでしょうけれど、それも今日で終わり。この子たちは私が連れて行くから」
中宮の母とは思えぬ言葉選びと剣幕に、ついにふたりは泣きだしてしまった。
「この子たちが、どうしてもっていうから会わせてあげた。それだけよ。ほら、ご挨拶しなさい」
声にならない。アスナとコトハは板間に涙をしたたらせながら、頭を垂れた。折姫は袂から梨を取ると、右手でしっかりと握り、ふたりへひとつずつ置いた。
「食べてね。きっとよ」
折姫の顎からは、ぽたぽたと汗が落ちた。息も苦しい。膝を少しずつずらし、退くが、敷居にたどり着かない。入り口に座ったはずなのに。
「そうそう、あなた。名を偽ったでしょう」
行灯の隙間から紙が滑り出てきた。いつしか交換した、縁結びの紙だ。
「おかしいと思ったのよね。折、だけなんて。案の定呪い殺せないじゃない。悔しかったわあ」
中宮の笑い声がよりいっそう高らかに天井をつきぬけていく。部屋ごと揺れ、行灯の壁が崩れた。
「あの頃から裏切られていたなんて」
現れた中宮の目は墨のように黒かった。
行灯に照らされているのに、光ひとつ帯びずに。
其処に居たのはたしかに中宮であったが、得体の知れないなにかでもあった。
几帳裏の男が滑らかに喋る。
「彼女を助ける術は探している。みつかるまで、どうか辛抱を」
御簾が一垂、上がった。
敷居の向こうはむせ返るような夏の暑さだった。
阿吽のはざまを抜けると、ミカドが立っていた。中宮のそばに居たのではないのか。振り返るがいつもの行き止まりに戻っている。
ミカドは造面をはぎ取ると、安堵した表情で折姫の手を取った。
「無事だったのですね。シオンが泣いて現れたので何事かと」
「シオンが……? あー!」
シオンがミカドの肩に隠れている。その精霊、白百合殿の庭の荒廃ぶりに恐れをなして逃げていた。
「姫さま! 誤解です! 助けを呼びにでただけです!」
「自分で戻ってこれましてよ、この役立たず」
「エーン」
シオンは嘘泣きで消えた。
今日はもう西陽が傾き始めているので、明日にでもお灸をすえてやろうと思う。
「それで、その、ミカド様。離していただけますか」
つかまれた手が握られたままだ。ミカドはそのまま手を引いて、裏道から表へ出た。
「え……?」
其処は梅壺の釣殿だった。
舟が一隻、停まっている。
「少しだけ休みをもらった。付き合って」
「え? ま、待ってくださ、え? えー!」
ミカドが舟へと跳び移ると、どんどん渚から離れていく。つながれた手と手がのびきり、折姫は思いきり舟へとんだ。
──つもりだった。
まったく間に合わず、池に真っ逆さまのところをミカドに抱き寄せられ、着地することとなった。舟が揺れる。
「ミカド様、申し訳ありません……! お怪我は!」
「危なかった。今の本気?」
「本気です!」
「あはは! ──いや、すまない。くっ」
くつくつと笑いながら袖のなかで印を結ぶ。
波紋を広げるだけだった舟が、なめらかに進み始めた。
「さあ座って。そちら側へ」
六名ほど乗ることができる木舟は簡素ではあるが、い草の新しい畳が前後に敷かれている。後方の畳へ座ると、ミカドと距離ができたが、折姫は心の底から安堵した。
折姫の心を読んだように、ミカドは前を向いたまま言った。
「昨夜、舟に乗りたがっていたでしょう。しばらく泳がせておくから。……好きなときに、戻りなさい」
「はい」
ミカドは手酌で酒を飲み始めた。
陽に焼けた山の端。空に浮かぶ白い月。
月から下りてきたような、美しい男。
折姫は思った。
こうして眺めているだけでよかった。
ほんとうに、今でもそう思っている。
──でも、もうそれも許されない。
桜の御息所は、依代に中宮を選んだ。
想いを捨てきれなかったことで、中宮と御息所を惹き合わせてしまった。
中宮の瞳を黒く染めてしまったのは、自身の欲の深さ。
昼間に行き合った稲荷神の顔は、見知らぬ青年のものだった。梅壺の女御の望みは主上ではなく、幼なじみの男と添い遂げることだった。それも今はぼんやりと形を崩して、互いに愛しいと思う、造形に変わったのだと言う。折姫はその話しを聞いて、作り笑いを浮かべながら、ひどく落胆していた。
未だ主上の正体を知りたいと思う、貪欲な自分がいたのだ。
ミカドを想うほど、心が穢れる。
「……ミカド様」
「なあに」
「中宮様は、もう御所を離れたのでしょうか」
「そうみたいだね。彼女の瘴気が少しずつ薄れている」
「ミカド様のお母様が、憑かれているのですね」
「ああ。中宮は、御息所を自ら進んで取り込んでしまった。可哀そうに……、後宮を恨む心が、共鳴したんだ」
「私の、せい」
久しぶりの外出だったろうに。
アスナとコトハとの仲を見せつけるようにして、笑顔で手を振った。
中宮の扇子のなかはきっと、置き去りにされたときの折姫と同じように、歯噛みしていたのだ。強く。
ミカドは自身を嘲笑するように、折姫を否した。
「いや、私のせいだよ」
「なぜ?」
「昨夜、舟に乗る直前になって、池に大蛇がでる暗示がでた。折姫だけでもと、目の届く場所へ移したのは私だ。結果、中宮と行き合わせてしまった」
「ミカド様は、先読みをされていたのですね」
「その上で判断を見誤る、馬鹿な男さ」
ミカドは酒を煽った。
「私は間違えてばかりだ。あなたに笑ってほしくて、した事がぜんぶ裏目にでる。こんなことなら、桜の壺にずっと閉じ込めておけばよかったと思うほどに」
恨めしげに語る。
折姫は、「やはり私のせいだ」と、思わずにいられない。
池の水に視線を落とす。浮かぶ月はいつのまにか、黄色みを帯びていた。
ミカドの声が聞こえる。
大好きな、澄んだ鈴の音の声。
「今夜も月が綺麗ですね」
前方へ顔を戻す。
ミカドは扇子をかざし、空を見上げていた。
折姫もまた、帯から扇子を抜き取り、広げた。
扇子のなかのネコは水に溺れてぐったりとしている。自身の涙におぼれたのだろうか。
不思議と心は静かだった。
息をととのえ、はっきりと、ミカドへ届くように言った。
「私には、月が見えません」
池に映るほどの明るい月が、すぐそばにあるのに。涙でほんとうに、にじんで消えていくようだった。
ミカドは笑った。よく笑う日だ。
「これはまた、こっぴどくふられてしまったな」
語尾が震えた。
折姫には気づけなかった。
扇子を隔て、涙をそぼふらせていた。
今喉を開いたら、嗚咽が先にでる。シオンを喚べない。あと五分もすれば夜の帳が下りてしまうのに。
舟が、揺れた。
恐る恐る、顔をあげる。
前方のミカドの姿がない。
折姫は声を震わせながらも深く息を吐き、扇子を閉じた。
舟を見回せば、手の届くところに、「衣折」と書かれた紙が、石を重しに置かれていた。
「あ……、あっ、いやぁ」
いつしか奪われた真名だ。
喚んでいないのに、希節はずれの春嵐が折姫を泣き声ごとさらっていった。




