二十四折
中秋の名月。
乾の方角、梅壺。
雲ひとつない夜空に浮かぶ満月の下で、折姫は釣殿に座りひとり歯噛みしていた。
月見の宴で北池に舟を出すことが決まり、歓喜し護衛船を十隻折ったというのに、いざ乗り込もうとすればミカドの「危ないから」のひと声で置き去りにされてしまった。梅壺の釣殿から池に浮かぶ満月が観えると教わり来てみれば、
「折姫さまー!」
「御守りくださりありがとうございまーす!」
池に突き出た釣殿に座る折姫は、いい晒し者である。舟遊びの見守り役なのだと、座ってから気づいた。みなに手を振られ、退くに退けない。扇子のなかで笑顔をひきつらせていると、真っ白な舟が近くを通った。
白百合殿の中宮だ。
両脇に座るアスナとコトハが千切れんばかりに手を振る。
「折姫様! こんばんはー!」
「おつとめがんばってー!」
手を振り返すと、中宮もまた、やおらに首を垂れた。折姫は嬉しくなって、己れの扇子を置くと両手で手を振った。
「あはは! 折姫様、池に落ちちゃうよー!」
「ばっちいよー!」
中宮もまた、扇子の上の目は笑っているようだった。
安定期に入り、心が落ち着いたのだろうか。少しは誤解が解けているといいが。
舟を見送り、扇子を拾おうとするとちいさな手がのびた。梅壺の女御の長男、キリヤだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。キリヤは、舟に乗らなかったの?」
「母上が乗りませんので。みんなと乗るの、嫌だったし」
「そう」
今朝に芙蓉殿へ顔を出した際、乳母からキリヤの話しを聞いている。
昨夜、久しぶりに主上が梅壺へお下りになられたのだと、キリヤがアスナへ言うと、アスナもまた久しぶりに主上と眠ったのだと言う。どちらも引かず、もめていると周りはみなアスナを庇った。
主上の中宮への寵愛を偽りにするのかと。
キリヤは逃げ出すようにして梅壺へ戻り、こもっていたが、折姫の姿をみつけ、部屋を出てきた。
キリヤは訊ねた。
「折姫様は、主上の玉顔を見たことがありますか?」
「……いいえ」
折姫は首を振った。
「私も、知らない。いつも布で顔を覆ってるから。昨日だって、母上の御帳台へ上がられるのを見たけれど、顔を隠しているから主上だろうってだけ。アスナに悪いことしちゃった。アスナは、主上の玉顔を、知っているのに。私はいっしょに眠ったことなんて一度もない」
折姫は袂にキリヤを引き入れた。
九歳の身体は隠しきれなかったが、泣き場所には充分だ。父親の温もりを知らずに生きてきたのだろう。さて、自分はどうだったかと思い返してはみるが、もはや父親の顔が思い出せない。家族とは、果たしてそういうものだったろうか。もっと温かで、深い絆で結ばれているのではないのか。
折姫は、キリヤの涙が止まるのを待って、語りかけた。
「傷つきながらも妹を気遣うキリヤは、とても思いやりをもって生まれたのね。気に病むことなんてありませんよ。だって悪いのは主上でしょう」
「折姫様も、そう思う?」
「もちろん! キリヤ、これをあげる」
折姫は袂をカサコソ言わせて、折り紙をふたつ取り出した。キツネの折り紙だ。
「これは?」
「遠くにいても、自分の目と耳になってくれるの。ひとつは知りたいと思う場所へ。ひとつは自分の手のなかに。今夜、御帳台にでも置いておけば、主上の玉顔を拝められるのでは?」
「悪いんだ!」
「お互い様でしょう! その代わり、私が今から、母上にお会いすることできるかしら」
折姫には、梅壺にて供饌を捧げる際、いつも気になっている気配があった。それは押し潰されそうな波動でいて、妙に愛しい。それでいて晴れ晴れしいほど瘴気のない、浄らかな殿舎に違和感を覚えるのだ。
もちろん今朝のキリヤのことも含め、少し話しをすり合わせたい。
「ぜひ、だって!」
すぐに戻ってきたキリヤに手を引かれて、梅壺の出居へ上がった。
「あいにく、みな宴に出払っておりまして、お構いできず申し訳ありません」
乱雑に並べられた几帳の向こうから、抑揚のない落ち着いた女性の声がする。
「こちらこそ、私の身勝手な申し出を受けてくださり、誠にありがとうございます」
女官がいないのは好都合だ。
折姫は午前にあったキリヤの話しから入り、昨夜のことをさりげなく問い詰めた。
「ではキリヤはほんとうに主上の姿を見たですね」
「ええ。ただ夜通しというわけではありません。亥の刻には白百合殿へ戻られました」
切なげに言う。
昨夜、アスナとコトハは普段どおり薔薇の壺で夕膳を食し、湯浴みをしていたが、寝かしつける直前に急に白百合殿へ呼ばれ、そのまま朝まで過ごしている。大まかだが主上の足取りに不自然な点は見当たらない。
「キリヤ、ふたりとも主上に会っていましたよ。私がみんなに言っておくから、明日は大手を振って芙蓉殿へいらっしゃい」
「はい……!」
キリヤは清涼感のある顔を嬉しそうにほころばせると、女御のそばへ座り直した。
「それで──」
折姫が本題を切り出す。
「本日、新しい御守りをお持ちしましたので、お取り替え願いますでしょうか」
「……御守り?」
「はい。先月に差し上げた、折り紙でございます」
「ああ! 失礼を、今お渡しします」
衣裳の裾が消えた。
手もとにない、ということだ。
「先ほど着替えた際に、置き忘れていたわ」
「ご注意ください。今の御所はなにに行き遭うかわかりません」
「肝に命じておきます」
几帳の裾から折り紙が出てきた。代わりのものを奥へ滑らせる。
「今夜はせっかくの月見の愉しみを奪ってしまい申し訳ありませんでした。それでは──」
無力な夜に長居は無用だ。
カヲルの迎えを待とうと、折姫は釣殿に戻った。
「なに、これ……」
舟から上がる喚き声に、足がすくんだ。
池をうめつくすほどの長くたくましい白い大蛇がうねりをあげて、波を暴れさせている。
「蛇だ、蛇の呪いだ!」
「御息所の蛇だ、人を啖うぞ……!」
大蛇は中心へ向けとぐろを巻くと、勢いよく水面から顔を出した。そばにいた舟は波にのまれ沈み、大蛇の胴に乗り揚げた舟もまた、横転し池に沈んだ。
遠くの岸でカヲルが叫んでいる。
「慌てずにひき返せ! 救助は任せろ!」
カヲルと肩を並べていたミカドが呪を唱えると、折姫の折った護衛船が動き出した。そのひとつにカヲルが飛び乗る。
「こんなにでかい蛇、池に放し飼いにしたの誰だよ!」
刀を抜くと、大蛇は一寸ひるんだように見えた。護衛船が蛇の合間を縫って、溺れた人間から拾っていく。
「今、助けやすいように、動いた……? カヲル、待って! 蛇じゃない!」
折姫は、刀を振り上げていたカヲルを止めると、足音をさせて渡殿を走った。入り組んでみえる出居の几帳を煩わしく思い、なぎ倒す。
「きゃあ……!」
「折姫さま、なにを!」
あらわになった梅壺の女御は儚げな美女だった。こもりきりだったとしても、顔が白すぎる。
「ごめんなさい」
女御の胸もとから先ほど渡したばかりの御守りを引き抜くと、その場で破り捨てた。
キリヤが訊ねる。
「どうして御守りを破ったの」
「梅壺の女御さまの御守りには、特別なまじないをかけていたから」
「まじない……?」
「化術を解くまじないです」
女御へ渡した新しい折り紙には、化生のものが触ると術の解けるまじないをかけていた。
折姫は思った。
梅壺に入ると感じる不思議な気配は、気のせいではなかった。
梅壺の女御は故意に御守りを手放していたのだ。
化生のものと共にあるために。
恐らく、新しい御守りを懐にはさんで間もなく、化生のものと抱擁を交わしたのだろう。
御守りには、触れたものが苦手とする生き物へ変幻する、呪い返しのようなまじないがかけられている。白い大蛇は、女御に侍る化生のものの天敵という譯だ。
「キリヤ、こちらへおいで」
我が子を抱き寄せる女御の顔が透き通るように白いのは、化生のものと結びがあるから。
女御はその顔を惜しげもなく晒し、恨めしげに見上げた。
ミカドとカヲルが足並みを揃え、出居の敷居を跨いだのだ。
「春の君、後生ですから」
「あの方の返答を待つあいだに、弁明の機会を与えましょう。カヲル、キリヤを連れて出ていてくれないか」
「御意に。キリヤ、取って食ったりしないからこっちこーい」
熟れた桃をちらつかせるので、危うく折姫が釣られそうになった。いやお前じゃないからと、笑うカヲルに安心感を抱き、無事キリヤは引き取られていった。
ミカドが几帳とその場を立て直す。
「さて。後宮では無許可で動物を飼えないのですがね」
袂から白い獣を取り出す。
蛇ではない。
キツネだ。
「可愛い……!」
びしょ濡れで毛のしょぼくれたキツネが、目をぱちぱちさせている。
折姫が御守りを破った瞬間、まじないも解け、大蛇も消える。大蛇の残した波紋を辿りカヲルが探せば、水底にキツネが沈んでいた。
「よし、よし」
折姫がキツネへ手をのばすと、ミカドはすぐに几帳の奥へ押し込み、言った。
「こら。なんでも心を許してはなりません」
「どうしてですか」
「あれでも、キリヤの父親です」
「キリヤの? キリヤは主上の御子では」
「ないよ。キリヤの父親は梅壺に住み着いた化けぎつねだ。そうであろう、梅壺の女御」
「……はい」
九年前の夏。梅壺の女御が入内してすぐのことだった。女御がぼんやりと釣殿で涼んでいると、足を滑らせた仔ギツネが屋根にぶらさがっていた。池に落ちる寸でのところで抱きとめ、救った女御は、傷ついた心を癒すようにして、仔ギツネをかくまった。
仔ギツネは、女御の話しをよく聞いた。
賢い仔ギツネは女御にはなにが必要かすぐにわかった。
仔ギツネはとある夜に、女御をとき勧めた。
恩を返したい。そのために、どうか怖がらないで欲しい。
仔ギツネは女御の願いを叶え、女御はそれを受け入れた。
一年後、キリヤが産まれた。
主上はしきたり通りに梅壺へ三夜通っただけだったが、そのときの子だろうと、きちんと祝われた。梅壺の女御の地位は後宮の争いの外で、晴れて安泰となった。
「しかし妖狐は、子をなすと居付かぬもの。異種の交わりは互いの御霊を削ぎ落とす」
「それもヒコから聞いています。キリヤが産まれたあとは、成長を見守るように年に一度、顔を見せに来るだけでした」
「ヒコ、ですか」
「彦星が名の由来ではないのですが、七夕に会いに来ます」
「では今年はずいぶん長居されていますね」
貺都の七夕は七月七日。
ひと月あまり居ることになる。
几帳の奥で人影が増えた。キツネが化けたのだ。
「私が訊ねる番だ人間よ。この御所の有り様はなんだ」
「……あなたは、稲荷神ではないですか!」
ミカドは頭を垂れた。
「ふん。礼儀のつもりか? すべての神々を跪かせる、お前の異能は知ったこと。その恵まれし力をもって、なぜ未だ悪鬼を滅せていない」
ヒコは、狐の彦。お稲荷さまだ。七夕に祀られる油揚げを愉しみに、一年に一度、白虎に憑依し貺都へ下る。
滑らせるはずのない足が滑り、女御に救われたときは子をなす年なのだと悟った。女御へ情が移ったヒコは、親子の寿命が縮まぬよう、一年に一度の逢瀬を約束した。だが今年は違った。置いて帰れば二度と逢えぬと思った。女御もまた、御霊が削られようと、構わなかった。共に居ることを望み、キリヤを引き離すようにして帳台へこもった。
「彼女の命尽きるまで、傍にいる。そうふたりで決めた」
「もって半年ですよ」
「鬼に啖われるくらいなら、私が彼女を黄泉へ連れていく」
「遺されるキリヤは?」
折姫の差し出口に、ミカドが溜め息を吐く。
出居の柱に矢がささった。
結ばれていた文を広げると、ミカドはそれを女御の手もとへ滑らせた。
「キリヤを三の宮のまま、薔薇の壺で養育てることを条件とする……、そんな、本来ならば、キリヤは」
「相手が妖狐などでしたら異種交配となり、キリヤを含む三代に厳しい処罰が下されます。しかしさすがに稲荷神との子を、無下にすることなどできません。我々が責任をもって育て上げましょう」
女御のすすり泣く声が聞こえる。
折姫はやおらに腰を上げた。
「……子どもは、いつも蚊帳のなか」
「折姫?」
「守られているようで、縛りつけられてる。大人たちが、蚊帳の外で自由に、勝手に決めていくのを、いつも傷つきながら見ていることしかできない」
折姫は再び几帳を倒した。
己れの左手に立てられたものだ。隅からきつねの折り紙がみつかった。
ミカドがつかみとると、耳をはためかせ、目をぎょろりと泳がせた。
「折姫、なんてことを。キリヤはまだ九歳ですよ」
「キリヤに折ったのは、私です。でも、折り紙を部屋に隠し、耳をそば立てたのは、本人のキリヤです。いけないと言うならば、いくつになったら教えるのか。その問いに正解はあるんですか?」
バタバタと忙しない足音が近づく。
折姫は几帳のむこうへ吐き捨てた。
「めでたし、めでたし? キリヤがあなたたちを認めるまで、嬉し泣きなんてしないでください」
折姫はキリヤとすれ違うようにしてその場を離れた。
許せなかった。腹立たしかった。
たった一度の人生を、親の都合で決められるなんて。
御所へ置き去りにされるキリヤを、着物を対価に売られた自身と重ねていた。
折姫もまた、十五の子どもだった。
「待ってー、俺も行くー!」
カヲルの明るい声に、足を止める。どうせ付き添いがいないと夜の御所は歩けない。北池から徒歩で四半刻かかる、薔薇の壺を思う。
「……カリナ様は、乳母じゃないのに」
キリヤの世話役を命じられても、優しい彼女なら当然のように首を縦に振ると、折姫でもわかる。それに漬け込んだ主上のやり方に、今回ばかりは我慢ならない。
カヲルは折姫の顔を覗きこむようなことはせず、背中に語った。
「薔薇の壺はさあ、キツネやタヌキも居た大昔、半妖の子を育てる殿舎だったんだよ。妖が下働きしているのはその頃の名残でもある。主上も、そういった意味で選んだだけで、あとでちゃんと場を整えると思うよ」
「……そうなの?」
「複雑な理由があると、どうも口下手になる。子どもみたいになんでもかんでも言えなくなる。それが大人なんだよ」
「カヲルは違う」
「俺は一生子どもがいいな」
「近衛の長が?」
「そのほうが肩が凝らない」
カヲルは丸くなった折姫の背中を、軽く小突いた。
「馬を出そうか」
「ううん。歩く」
「よし」
カヲルは前へ出ると、折姫の歩幅に合わせ、ゆっくりと歩いた。初秋の空はすみわたり、月と星空が眩しい。
「いやあ、すっかり平穏になりましたな」
「ほんとうに。部屋の外に出られるなんて、思わなかった」
正直、履き慣れない草履での散歩に不安を抱いてはいるが、御所の砂利音は耳に心地よい。
「折姫は、主上に不満があるか」
「多少は。……ううん、すごく」
「そうか。庇うつもりはないが、御所をこうして歩けるのは、主上のおかげだ。眠る時間を削り、御所だけでなく、貺都全土をくまなく目をみはっている。それは途方もない苦労だ。だからたまに判断を見誤る」
「主上は、完全無欠なのでは」
「ないよ。主上も人の子だぞ。よく間違える。特に痴情のもつれでな」
「それは聞きたくなかった」
「だから後宮には寛容だろ?」
「放ったらかしなだけでしょう」
「そう見えるよなあ。実際、手が回らない。正直、折姫が巫女になって、すごく助かってるよ」
「少しでもお役に立てているのでしたら、幸いです。ご褒美に桃をください」
「食い意地も素晴らしい」
直ぐに飛んできた。慌てて受け取った桃は極上に食べごろだ。
折姫は、袂に桃を入れているカヲルのほうが、よっぽど意地汚いと思う。薫の君とは、果物の香りではないのか。
お腹が空いた折姫は月見の夜に、人生で初めての食べ歩きを愉しんだ。




