二十三折
その日を境に折姫の生活は一変した。
朝起きたらすぐに禊を行い、湯浴みをする。
掃除をすれば、また湯浴み。食事のあとも湯浴み。その度に新しい衣裳へ着替えねばならず、シオンは怠惰でいられなくなった。
巳の刻には紫宸殿へ上がり、主上の高御座の下で神事を行う。舞や祝詞であったら練習に時間を削いでしまい難しかったが、供物に折り紙を捧げるという、折姫独自のものだった。
その折り紙は食べ物が多く、供饌と言った。
そして、神事にはいつもミカドがいた。折姫を従え、四季により変わる祝詞を唱え、神々に拝する。折姫は神託を授かるままに、供物を折った。その半刻が唯一、ふたりきりで居られる時間だ。
ミカドの美しい顔はいつも造面のなか。
「お願い申し上げます、春の君」
「春の君、昨夜申の方角の外堀に綻びをみつけました」
神事を終えるとすぐにミカドは臣下に囲まれてしまうため、折姫はひとり白百合殿へと移る。紫宸殿とおなじ供饌を折り、祈りを捧げるためだ。
後宮の殿舎には門の内にひとつずつ、ちいさな神殿がある。女房たちからの好奇の目にさらされながら、すべての殿舎で祈りを捧げなければならなかった。
それだけで昼を回った。
午後は薔薇の壺でカリナの教示を受けるのだが。
「あなた、方術になるとめっぽうだめね。星は読めない、方位もわからない、算命学にいたってはちっとも理解できない!」
「おっしゃる通りでございますー」
シオンの使役に力を削がれ、頭が回らない。
加えて地図はまわして読む、足し算は指で数える。美術と数学はあひるの折姫が、急に覚えられるはずがない。
扇子で頭を叩かれすぎて、そろそろハゲやしないかと思う。
折姫が数字に目を回しているあいだ、その横でカヲルは唱え言を繰り返していた。
「──恐み畏み白す」
言葉の締めくくりに雨雲が集まり、水の恵みがもたらされた。ドヤ顔で折姫にウインクしたが、
ドンガラガッシャーン!
突如として稲妻が走り、庭の柿の木が真っ二つに裂けた。カリナは豊満な乳房を戦慄かせ、カヲルの頭に火鉢を掲げた。
「あんた……、桃栗三年柿八年って、知ってる」
「ご、ごめんなさい。お庭に水をあげたかっただけなんです」
「そもそも胡座かいて神さまに願いを乞うんじゃないわよ……!」
火鉢が振り下ろされ、鈍い音が響く。
「お疲れ様でしたー!」
「あっ、こら! 戻るなら護符を描いてくるのよ!」
「はーい!」
しっかり宿題まで出されて薔薇の壺を後にした。
桜の御息所が御所へ入り込んでから、ひと月。跳梁跋扈していた魑魅魍魎はほぼ退治され、日の入り前は以前の平穏を取り戻していた。だが夜になるとどこからか人を啖う異形が現れ、歩き回ることができない。近衛兵たちも連日の戦いに疲弊しきっていた。
それから不安の種が、もうひとつ。
行方のわからぬ内大臣と、影を潜める桜の御息所。
内通者がいるのではないかと、臣下の邸はすべて天井裏まで調べたが霊気の欠片もでてこない。それでいて白百合殿の御寝所へは一歩も踏み入らせないものだから、みな少しずつ、主上に不信感を抱くようになった。
嵐の前の静けさとは、とても言えない。堪えどころが難しい日々を、みな淡々と生きているようだった。
折姫は朝夕に一刻ずつ、桜の壺へ戻る。朝は禊のためであるが、夕刻は湯浴みのあとに、一日頑張ったシオンへちゃんとおやすみを言っておきたかった。
そしてクロに会うために。
寝床はすっかり薔薇の壺に馴染んでいるが、それだけは譲れなかった。
獣も、穢れ。
だからみんなには内緒だ。ミカドからも未だ注意などは受けていない。巫女を癒すクロはきっと神の使いなのだと、勝手ながら思っている。
「そうだ! クロも身体を浄めれば、いっしょに居られるんじゃないかな」
折姫は宿題の護符を描きながらひらめいた。名案だ。なぜ今まで気づかなかったのか。素知らぬふりをして薔薇の壺へ連れて帰ればいい。怒られたら、それまでだ。
宿題を終えると膝でうたた寝しているクロをソッと抱いて、折姫は湯殿へ向かった。シオンが大の字で立ち塞がる。
「姫さま、いけませんよ」
「湯が穢れるから? ちゃんと理由があるなら、やめる」
「ミカド様にとめられております」
「そういうの、いちばん聞きたくなかった」
クロに会うことは許すが、夕膳前の一刻まで。
理由もわからずルールを守らなければならないなんて、まるで親に言いなりの子どもだ。
「私、今反抗期なの。ミカド様に伝えといて」
「姫さま!」
「帳台、天蓋にほこりがたまってるよ。いつでも戻れるように綺麗にしておきなさい」
シオンは折姫をとめられない。主人は折姫だ。
鏡台の鏡磨きまで託すと、折姫は湯殿の戸を開いた。
「うふふ、ちょっとそこで待っていてね」
脱いだ袿の上にクロを下ろす。スー、ピー寝息をたてて、可愛らしい。顎に指をそえると寝ぼけながらすり寄った。
「あーもう、可愛い」
今、クロを奪われたら、なにを糧にして生きればいい。そのくらいには愛を注いでいる。ミカドが聞き耳をたてているかもしれないが、クロの愛しさには関係のないことだ。折姫は手首に巻いた包帯をほどきながら、つぶやいた。
「クロ、大好きよ」
「……にゃ?」
「あは、やっと起きた。待っててね、すぐに脱いでしまうから」
「にゃ!?」
元気よく目覚めたクロを前に少し恥ずかしくなり、背を向けて小袖の紐を解いた。パサリ、肩から落とす。かわいた衣擦れの音がした。
「さあ、入ろ。──クロ?」
振り返ると、クロは溶けたように消えていた。
その日の夜、夕膳の席でミカドの話題が中心になった。
「いやぁ、オオカミにでも憑かれたのかと思いましたわ」
毛女郎がグッタリと話す。
夕膳に使う明日葉を庭で摘んでいると、後ろからいきなり襲われたのだという。まあ、そこは毛女郎、蚕のように髪でぐるぐる巻きにして難を逃れたが、いくら巻いても暴れるので、カヲルを呼んで気を失うまで殴ってもらった。
目を覚ましたあとは酒を頭から浴びせられ、湯殿に沈められ、今は毒気が抜けたように奥の間で眠っている。
カヲルもまた、疲れた様子で話した。
「転移先が薔薇の壺でよかったよなぁ。女官がそばにいたらあいつ、三人くらい子ども作ってたとこだぞ」
「ヒィッ」
そんな心配のいらぬ火消し婆が、恐ろしやと口を覆う。
「そのくらい呪禁が強い。折姫、ほんとうに心当たりないのか」
「うん。朝にお会いしたきりよ」
「では、また内大臣の仕業か。今の御所はミカドがいないと、一日だって回らないから」
折姫は思う。
臣下に頼られ、敵にも狙われ、ときには戦うこともあるミカドはさぞ気疲れしていることだろう。
このひと月、祝詞を捧げる壮麗な姿のミカド以外見ていない。桜の壺で語り合った日々が嘘のようだ。素をさらけだしたようなあの笑みが懐かしい。
折姫はカヲルに訊ねた。
「ミカド様は、今日もこれから出仕なさるの?」
「いや、さすがに休ませたよ。みなには俺から言ってある」
「では、普段の労いの意も込めて、今夜はお祭りにしませんか」
「祭り? いいな! 今月は宴どころじゃなくて、七夕もないからなぁ、やるか!」
「七夕……! 素敵じゃない! せっかくだしお飾りも作りましょう」 カリナものった。
アスナとコトハが両手をつないで喜んだ。
「願いごと、なににしよー!」
「ねがいごと?」
「葉っぱに、書くんだよー!」
「では、いっしょに摘んでくるかい。裏庭に生えているから」
そう言うと毛女郎と小豆洗いが立ち上がり、ふたりを連れ出した。
ミカドが目覚めるまでのあいだに準備を済ませたい。総出で御膳を片付けると、酒を拝借しに出かけるもの、つまみをつくるもの、飾りを作るものと分かれた。まるで文化祭だ。
不知火衣折は、参加したことがないけれど。
油すましと、火消し婆は、仲良くつまみ作りにかまどへ向かった。薔薇の壺の食事はすべてふたりに任せている。
カリナは言う。
「御所の外ではね、電気やガスなんてものが普及し始めているのよ。便利だけれど、古い妖には生きづらい。だからここで雇っているの。育ちも知らぬ女房に、毒を盛られる心配もないしね」
「……たしかに、私のいた世界では、油を売るお店も、火を灯す家庭もありません」
「進歩すれば、退化するものもある。私は伝統として、彼らを護っていきたい」
カリナの強い心持ちに、折姫は感嘆の声をあげた。草木に恵みを与え、愛するものに恩を施す。まるで女神のようだ。そんな彼女に甘え、中宮の御子を預ける主上が理解できない。
髪きりが、草花を腕いっぱいに抱えて庭から戻ってきた。
「ほうら、切ってきたよ」
「ありがとう。じゃあ私たちは短冊の代わりに花を吊るすから、折姫はこの折り紙で鶴を折ってちょうだい」
「鶴、ですか」
「長寿の象徴よ」
カヲルが酒樽の上に果物を山ほど積んで帰ってくるころには、出居はまるで御伽噺のような空間を創りだしていた。
陰陽五行になぞらえた五色の花々が天井から垂れ下がり、銀糸で宇宙を表す。そのところどころに金色の折り鶴が吊るされ、まるで星空のようだ。鶴は短冊の代わりに願いごとが書かれた梶の葉を運んでいる。その下では所狭しとごちそうが並べられた。
「すごいな……、七夕祭?」
寝起きのミカドが折姫と肩を並べた。
ぼう、と部屋を見渡すその顔が、少しずつやわらかくなっていく。
「母上が元気になりますように。──アスナか。コトハは? ふふ、桃が食べたいだって。そこにあるのに。カヲルは……、俺は強くなる!」
「なにそれ、子どもみたい!」
稚拙な願いごとに折姫はつい、口を出してしまった。
「折姫は? みんなの笑顔が増えますように。巫女さまらしいお願いごとだ。ではさっそく叶えよう」
小さく呪をつぶやく。
吊るされた鶴がはためき、きらきらと天井を輝かせた。腹に結われていた紐をクチバシでほどき、自由に舞い始める。
「火消し婆、灯りを少なくしてくれる?」
「はいな」
火消し婆が息を吹きかけると、灯籠ひとつを残してすべての灯りが消えた。すると鶴がじんわりと蛍のような光を帯びた。
「風流だねぇ」
油すましが目をしわくちゃにする。
鶴をつかまえたアスナの顔が、光のなかで嬉しそうに笑った。
「ミカド様の呪は、ほんとうに魔法みたいです。いつも誰かを魅了してる」
「いや。……傷つけてばかりだよ」
「ミカド様?」
「今だって、私はほんの少しの刺激を与えただけだ。人々を魅了しているのは折姫、あなたのほうだよ」
「そんな畏れ多い」
「今日の宴も、言い出したのは折姫でしょう」
「は、はい」
「やっぱり」
目を弧にして笑う。
酒樽の前で手を振るカヲルをみつけると、ミカドはそちらへ移った。
折姫の心は、まるで墨を落としたように、黒く汚れていくようだった。
ミカドを労いたい。
みなの前で良い顔をして、よく言い放てたものだ。
それは建前だった。
時おり浮かべる、その優しい笑みを、見たかった。
ただそれだけなのに。
ミカドは酒を一杯あおると、思い出したように盃を置き、毛女郎へ頭を垂れた。
「そうだ。先ほどは誠に申し訳ないことをした」
「いやいや、私でよかったよ。なんで私かと驚きもしたけれどね」
「ほんと、相手は毛女郎だぞ? 見境ないよな」
カヲルが鼻で笑う。
ミカドは彼女を庇う風でもなく、さらりと言ってのけた。
「どうして? 毛女郎はとても綺麗だよ」
みなの手と口がとまる。
全身に黒髪をまとう毛女郎がうろたえ、わずかに身を震わせた。
カヲルが首をかしげて覗き込むが、髪は御簾のようにわずかな隙間しかなく、着物の柄すらよくわからない。
「どれ、興味があるな。髪きり」
「はいよ」
ちょきん。前髪に鋏を入れた。
「あんた、ひどいよ断りもなく!」
「どうせ、すぐのばせるだろ?」
髪きりの言うとおり、毛女郎が前髪を手ですくとたちまちのびていったが、カヲルは見逃さなかった。
毛女郎は儚げな輪郭に花を浮かべたような、可憐な顔をしていた。
「えー! めっちゃくちゃ、いい女じゃん! なんで隠してるの!? 男かどわかしちゃうから? それに、どこか折姫に似てるような──」
「そうだろう? 折姫が十年歳を重ねたら、毛女郎のような美しさをまとう。そう思うと、たまらないよ」
「なんだよ、ミカドお前すごい酔ってるな! もっと飲め!」
豆を入れていた枡を空け、酒を注ぐ。その調子だと酒樽のなかがすぐに空っぽになりそうだ。
縁でひとり飲む小豆洗いが、もの凄い恨めしい目でそちらを見ている。折姫は居場所を失くした空豆を持って、膝をならべた。
「おじいちゃん、妬いてるの?」
「そりゃあ、自分の女の髪を勝手に切られたんだ。いい気はしないね」
小豆洗いは、「おじいちゃん」を否すことなく、空豆を受け取った。その手もとには大きな梶の葉と筆が置かれている。
「おじいちゃんも、お願いごと?」
「いいや。願い事を書いてもいいが、貺都では織姫と彦星のようにと、想いびとへ歌を贈る風習がある」
「素敵だね。読んでもいい?」
「構わんが、姫さまにわかるかねえ」
「ええと、……月が綺麗ですね?」
空を見上げるが、カヲルの呼んだ雨雲がとどまり、月は隠れてしまっている。
「どんなに探しても、月はでていないよ。昔、文豪が言った、有名な愛の言葉さ。月が綺麗ですねは、愛していますって意味だ」
「私、もう死んでも今いいわー!」
小豆洗いに毛女郎が覆い被さる。ふたり合わさると妖怪けうけげんのようだ。
「返し言葉は、今のようなものと、ずっと前から綺麗でしたとか、あなたと一緒に観る月だからとか、色々ある」
髪をかきわけ出てきた小豆洗いの顔が紅い。
折姫は、貺都へ来たばかりのころを思い出した。
月のよく見えない夜に、ミカドにそのような言葉をかけられた気がする。それに、自分はどう返したのか。その後に飲んだ酒が手伝って、よく思い出せない。
「そろそろ、アスナとコトハを寝かせてくるわ」
カリナが片腕でコトハを抱き、もう片方の手でアスナの手を引き部屋を出ていく。子どもは眠る時間。折姫もまた扇子のなかであくびをこぼす。扇子のなかのネコもまた、眠たげな身体を禊で起こそうと水桶を持っている。
心を許したもの同志の宴会は、時が流れ星のようにはやく過ぎていった。




