二十二折
西陽が強く射し込むころ、白百合殿へ通じる扉が開いた。どちらが出向くか、どこへ渡るか、何度も文を行き来させ、ようやく開扉したので気を張ったが、通された広間には女官が集められており、すんなりと事を運べた。
残すは中宮のみとなる。
表の回廊では近衛兵が折姫のにおいに浮き立ち始めたので、カリナが裏道へつながる戸を開けた。裏は使いの童子や女房で商店街のようにごった返している。
突き当たりには極めて小さな童子がふたり、紅いべべを羽織り門番のように脇を固めていた。
「何用じゃ」
「何用か」
「桜の壺より、御守りを折りに参りました」
「では置いていけ」
「置いていくのじゃ」
「お会いすることは叶いませんか」
訊けばそのふたり、識の高い狛犬。折姫の来訪を耳に入れていたが、ただでは通さない。カリナはソッとふたりの前に果物を置いた。ナツメだ。
「通るのじゃ」
「通らんか」
「ありがとうございます」
「折姫だけじゃ」
「折姫だけか」
カリナは舌打ちして、その場に腰を据えた。
「私ひとりですか」
「行ってらっしゃいな。陽暮れまでもう時間がないわ」
折姫はうなずくと、狛犬の狭間をくぐった。すると間を抜けたとたん、背後にいたカリナの姿が消え、ひと気もなくなった。
しん、と静まる回廊。
その突き当たりへ向き直ると、今まで見えていなかった御簾が下りている。御簾をあげて内へ入ると、そこは中庭に白百合が咲き誇る、白百合殿の御寝所であった。帳台の前で中宮がちまりと座り、その後ろ手の几帳の奥には男がひとり、控えている。折姫が声をかけると、中宮はぼんやりとそちらを見据え、やがて目を輝かせた。
「折姫、会いたかった」
「お久しぶりでございます」
中宮は別人のように痩せこけていた。昨夜に命婦が亡くなったことは、白百合殿の女房たちから聞いている。それまでも悪阻がひどく、身も心も弱っているのが、折姫の目からもあきらかに見てとれた。
「この度はお悔やみ申し上げます」
「ありがとう。……この白百合殿で彼女だけが、心を許せるひとだった」
泣き腫らした目をまた潤ませる。
折姫は静かに、折り紙を折りはじめた。
「陽のあるうちに、折ってしまいますね」
「折姫の折った御守りは、瘴気もはねのけてしまうのですってね」
「もっとはやくにご用意できれば、よかったです」
「いいのよ。まさかこんなことになるなんて、主上にも占えなかった」
ちらり、几帳のほうへ目をやる。ひどく恨めしい目だ。
「静養のためと御所を追い出されてふた月、主上は一度だって見舞いに来なかった。ようやく戻れたと思ったら、御所がこの有り様よ。主上は忙しくしていたのではないの? 私は友を殺されに帰ってきたの? 私がいないふた月、一体何してたのよ!」
感情を噴きこぼすように、宙を責める。
折姫は折り終えた桜の花を中宮の手もとへ置いた。
「白百合ではないのですね、桜に思い入れが?」
「うん。……好きな、香りだから」
中宮は、折姫の肩に顔をうずめた。
「もう信じられるのは、あなたしかいない。お願い折姫、ずっとそばにいて」
折姫は中宮を桜で包み込むようにして、抱きしめた。できる限りそばにいてあげたい。ミカドに相談してみようかと、思ったときだった。
中宮の顔があがった。大きな黒目を目いっぱいにひろげ、折姫を見た。
「……どうして、主上の香りがするの」
「主上の?」
「薔薇の香りでごまかしているけど、かすかに桜の香りがする。抱き合わないとつかないような香り。衣でこすりつけたような、染みついた、いやらしい匂い」
「そんな、まさか。だって私お香なんて──」
折姫は言葉を詰まらせた。
早朝、ミカドに後ろから抱きしめられたあの時、薫ったむせかえるような、あの香りは──。
「……裏切り者」
「待って。シオリちゃん、違う!」
「なにが違うの? 主上の香りは、紫宸殿にあるたった一本の香木で燻されたものなの。皇帝だけに許されたその香りが、どうして、あなたに!」
中宮は桜の御守りを、折姫の膝へ破り捨てた。
「出て行って。二度と顔を見せないで」
足がすくんで動けない。
それでも瞬きをニ、三、繰り返すと、折姫は身体ごと薔薇の壺へ戻されていたのだった。
*
夕刻。
薔薇の壺の出居にはたくさんの数の御膳がならび、その大半を妖怪が埋め、賑やかだった。小豆洗いが折姫の鼻先でしわくちゃの手をひらひらさせる。
「おーい、おいおーい。だめだこりゃ」
「白百合殿へ行ってから、ずっとその調子よ」
カリナがお椀に汁を注ぎながら言う。
ふたりの童子に帰れと言われ、ひとり戻ると折姫が先に座っていた。キツネにつままれたような顔をしているのでしばらく様子を見ていたが、なかなか直らない。妖怪を集めれば喜ぶかと思い、親しい小豆洗いと毛女郎のぶんまで夕膳を用意したのに、このあり様。
お玉で小突いてやろうかと振り上げたら、折姫の目の色が変わった。カヲルとミカドが膳にありつきに戻ってきたのだ。
「はー、疲れたし腹へった!」
「こらこら、食事の席に小鬼を連れてはいけないよ」
ミカドは、アスナとコトハを前後に貼りつかせている。コトハは特等席と言わんばかりに、小鬼と仲良くミカドの膝に座った。
「あら、ふたりとも今日は母上と召し上がらないの? 久しぶりなのでしょう?」
「きもちわるくて、食べられないんだってー」
「そう、お辛いでしょうね。ミカドは中宮様にお会いした?」
「ああ。ひどく憔悴していた。厳重に結界を敷くから、しばらくまたこの子たちと寝てもいいかな」
「もちろん。でも、ミカドはひとりで寝て。あんたはいつもいっしょに寝ているでしょう? 今日からは折姫と私といっしょに寝るの。一気に華やかになるわね。ね!」
「は、はい」
折姫は返事を返した。
ミカドを前にして、ようやく自身を取り戻していた。
カリナへ訊ねる。
「ミカド様は、いつも薔薇の壺でおやすみに?」
「だいたいね。ここには湯殿があるし、襲ってくる女官がいないから、安心して眠れるでしょう? ふたりが居着いたのも、ミカドのせいよ。赤子のときから、もうずっとデレデレなんだから」
「なんだよ、ミカドがお気に入りの姫君って、女じゃなかったのかよ」
カヲルがなじると、アスナは「女よ」と鼻息を荒くした。
それからミカドの肩にすり寄る。
「ねぇ、今日は御本読んでくれる?」
「すまないが、またすぐに務めへ出る」
「つまんなーい」
「では、ぜんぶ食べられたら一冊だけ約束しよう」
「わーい!」
愛おしそうに笑う。
薔薇の壺にいる愛らしい姫君とは、アスナとコトハのことだった。
──子煩悩な父親。
ぼんやりと頭に浮かぶ。
みつめていると、目が合った。
ミカドは折姫へ、ふたりに向けたような、やわらかな笑みをこぼした。
「……好きだなぁ」
口をついていた。
折姫は思った。
腹をくくらなければ。思い描いていた未来とは少し違うが、結論は出ている。
すると気づいた。今はものすごくお腹が空いている。
「いただきます。あれ、おじいちゃん久しぶり!」
「お!? わ、わしは、小豆洗いじゃ!」
「そうだったね! 毛女郎さんも、お久しぶり」
「久しぶり。いやぁ、たまげたよ。陰陽師の手伝いをしたんだって?」
「うん。とてもやりがいのあるお役目だった」
芙蓉殿の出仕は愉しかった。歌を教えたり、遊びを考えたり。子どもたちの笑顔はなによりのご褒美だった。では、御所の乳母に願いでるか。違う。今すべきことは、子どもたちの笑顔を護ることだ。
「私、巫女になりたい」
「巫女さん?」 毛女郎が里いもを箸からすべらせる。
「昔、おばあちゃんに聞いたことがあるの。皇居の神殿で日々祈りを捧げる巫女のお話しを」
「ああ、内掌典のことかね」
「後宮で祭祀を行い、穢れを祓う。そのための修行をしたい。難しいことかしら」
「どうせなら陰陽道を習ってはどうかね」
「そんな、私にはとても担えない。私ができることは、折り紙を折ることだけだもの」
「じゅうぶんだと思うけどねえ」
喧騒としていた出居はいつの間にか静まり、みなふたりの会話に聞き入っていた。
盃を置く音が響いた。ミカドだ。
「ではあなたは女御でありながら、巫女として宮仕えすると言うのですか」
「女御を退位するという前例はありませんか」
「あり得ませんね。侮辱に値する行為だ」
カヲルは、今にも席を立ちそうなミカドの肩をおさえ、なだめた。
「まあ、女御のままなら、修行もありなんじゃない?」
「カヲル!」
「いまや中宮様以外、夜伽役なんてないようなもんだし、現に薔薇の壺のように調香や薬作りを担う殿舎もある」
「それは彼女の異能あっての特例だ」
「折姫の折り紙は異能じゃないのかよ」
「っ、それは──」
「今日みたいに必要なときだけ利用するんじゃなくてさ、正式なお務めにできたら、折姫も動きやすい。だろ?」
こくこく、折姫がうなずく。
カリナも手を叩いて賛成した。
「仰々しく考えなくていいわよ。基礎は私が教えるわ。折姫の力、興味あるし」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
「私は、認めていない」
ミカドの激烈な口調にコトハの肩がビクンと跳ねあがる。
折姫は箸を置いた。
子どもを巻き込んでしまった自身に腹が立った。
「……理由は、まだあります」
アスナとコトハを見据える。この子たちは幼くも、芙蓉殿で共に遊ぶ御子との関係を知っている。みな、いち様に言う。父上をお慕いしております。乳母に何度も言い聞かされたように。
「本日、中宮様にお会いしたとき、私の不注意であらぬ誤解を招いてしまいました。今もお嘆きになられていることでしょう。私が巫女として神事を行えば、中宮様に抱かせた不安を払拭できるのではないでしょうか」
「そう。だから折姫は、あんなに落ち込んでいたのね」
カリナの言葉にうなずく。
「そう言った意味でも、私は神に仕える身であることを、公にしたいのです」
「いや、ちょっとそれは……、さすがに賛成できないな」
カヲルの言い分は最もだ。巫女修行だけならまだしも、公にするとなると話は違う。呪禁の残り香をくゆらせながら、己れは神に仕えし処女だと顔にはりつけ、表舞台に立つことになる。
「中宮様に心の平穏を取り戻していただくためなら、私なんだってしたいんです」
アスナとコトハが、ミカドをみつめた。「わたしたちからも、おねがい」と、言うように。
「──そういうことでしたら」
「ええ!? まじかよ……、ミカド、いいのか?」
「紫宸殿では、神事の際に巫女を交える儀式が、過去の記録にあります。その姿を見られるのは上達部だけですし、それもかなり遠目。公にと言うならば、儀式の改変を公布すればすぐに広まる。それに巫女となるには今以上に浄めが必要。手首の傷の治りをはやめられるかもしれない」
アスナとコトハの顔が華やいでいく。
「すごい! 折姫さま、巫女さまになるの!」
「かっこいい!」
話しは終わったとばかりに再び盃をとる。
その後、薔薇の壺は賑やかさを取り戻し、夜の帳を下ろした。
その夜の、死者は一名。
芙蓉殿の内侍司が御所の砂利に顔を埋め、亡くなっているのをみつけたのは他でもない、カヲルだった。
かがり火の明るさに引き寄せられ、回廊を出ると、一箇所だけ蔀戸が開けられていた。まだ朝日もうつむく早朝に縁で足を投げ出す男をみつけ、折姫は水屋へ引き返した。
「おはよう、カヲル」
「おはよう。相変わらずはやいな」
「よかったら飲んで」
濡らした手拭いと茶碗をのせた盆を置く。
カヲルは手拭いで目を覆うと、空へ溜め息をこぼした。
「俺を、探していたんだ。俺がちっとも芙蓉殿へ戻らないから」
芙蓉殿の内侍司は、結界の外で夜をさまよい歩いていた。薔薇の壺へ向かうさなか、不運にも異形と行き合ってしまった。御所の砂利には、芙蓉殿へ踵を返した足あとが今も深く残っている。
折姫の折った御守りは、芙蓉殿の広間に破り捨てられていた。
「どう償えばいい」
その反躬自問については、折姫は応えられない。慰めることもできない。ただ、その渇いた身体を潤わせたくて、茶碗をつきだした。
茶碗の中身は冷や水だった。ひと口飲めば、喉の渇きを思い出す。飲み込むたびにさわやかな香りと甘味が鼻を抜ける。飲み干せば微かに酸味が残った。
折姫は果物好きのカヲルのために、スモモの果汁をしぼって入れていた。
「こんなときでも、ちゃんと美味いや」
「うん」
「俺、好きな女以外、抱くのやめる」
「うん」
ふつうはそうだよ、と相槌をうつ。
「あと、俺も折姫といっしょに修行し直す。初めて思ったわ、強くなりたいって」
「もうじゅうぶん強いんじゃないの?」
「いや。高見はまだある。でもそこへ行くには苦労を伴う。それが嫌だった。俺はいつだって適当に、そこそこで生きていたかったんだ」
カヲルは手拭いをはずした。目も、目のまわりも真っ赤だ。折姫は、碧くてもちゃんと充血するんだなと、思った。そう考えてしまうほど、みつめあっていた。
「俺さあ、めちゃくちゃ頑張るよ。すんごい強くなって、みんなまとめて護ってやる。それから、折姫さま? そんな人いました? って言われるくらいお前のしごとを奪う」
「なにそれひどい」
「それで、お前が暇で暇ですることなくなったらさあ、俺が、
嫁にもらってやるよ」
カヲルは笑った。今にも泣き出しそうに。
「……じゃあ、そのときは、よろしくお願いします」
折姫は同じくらい、笑い返した。頬に伝う涙が光った。朝日が顔を出したようだ。
「盗み聞きだなんて、いけない子ね」
蔀戸の内側に寄りかかるミカドへ、カリナが小声で呼びかける。
「あんたのほうが、よっぽど泣きそうな顔してるじゃない」
「ほうっておいてよ」
「言っとくけど、あの子が本気なら、私も諦めないわよ」
熟した笑みをこぼす。
「息子の味方ってわけですか」
「とうぜんよ。母親だもの」
「あなたを敵に回したくないな」
「あら、ミカドもちゃあんと可愛いわよ? でも──、カヲルが主上の品格に目覚めたら、すみやかに玉座を譲りなさいね」
そう言うと、カリナもまた冷や水を置いて、その場を去った。その水は喉の渇きを癒すには物足りない、ぬるま湯のような温度だった。




