二十一折
薔薇の壺に降り立つと、甘酸っぱい煙が部屋にたなびいていた。薔薇の香の匂いだ。嫌味な匂いではない。疲れた目と指先を癒すような、そんな気さえする。煙を抜けるとまるで植物園のように様々な植木鉢が並んだ広間に出た。庭は美しい花々が色とりどりに隙間なく、咲き誇っている。
「素敵……、桜の壺も、こうして花を植えられるかしら」
「気に入ったのなら苗を差し上げてよ」
首筋をなでるような艶やかな声。
振り返ると、薔薇の花の袿をまとった美女が立っていた。碧いサファイアの瞳をまたたかせ、頭ひとつぶんちいさい折姫に目線を合わせるとビロードのように光る黄金の髪が床に流れた。
「はじめまして、桜の壺の女御。わたくしは薔薇の壺の女御。カリナと申します」
「はじめまして……あなたが、カリナ様?」
紫陽花殿で男が言っていた名だ。カリナにはわかるかな、と。
「そう見惚れないで? あなたが折姫さまね。カヲルの言っていた通り。とても愛らしいわね」
先に言われてしまったが、たしかに見惚れていた。カリナはまるでハリウッド映画から出てきたような大胆な美しさだ。微笑まれただけで顔が火照る。視線を落とせば深い谷間に驚き、思わず目を覆った。手首の傷が露わになる。
「あらあら、いけない。すぐに手当てしなくては」
カリナは折姫の手を取ると、几帳で隔てた小さな囲いに座らせた。男童が薬箱と水桶を持って現れたが、「あなたはダメよ。外で遊んでいらっしゃい」と追い払った。
「矢文には御守りを折ってくれると書いてあったけれど、事態が変わったようね」
男童が消えたのを見計らい、手首から護符を外すと、すぐに水桶へ肘まで浸した。薬草の浮かんだ、とろみのある液体だ。
「すぐに治りますか」
「いいえ」
カリナに任せればすぐに治ると思ったのだが、違うようだ。カリナ自身が肩を落とし、首を横に振った。
「傷みはすぐにひくけれど、治癒は難しい。焼き付けられた呪禁は、自然に治るのを待つしかない。匂いは今日一日、香でごまかしましょう」
「お香、ですか?」
「そう。調香ならば、私に任せなさい」
言い終わりには薔薇の香りが強まった。
几帳のむこうで男の声がする。
「もう、気短いわね」
ミカドとカヲルが追いつき、立ったまま言い争いをしている。どちらも引かないだけで話しの内容に中身はない。
カリナが几帳のすき間から声をかけた。
「今日は男子禁制よ。帰ってくれる?」
「しかし此処で過ごすならば、夜までに強い結界を敷かなければ」
「じゃあ、終わったらすぐに帰って」
帰らない。足の裏が板間に吸いついているようだ。要人であるふたりがその様子では御所の務めがまわらない。カリナは軽く溜め息を吐くと、几帳の外へ出た。香のかおりが変わる。
「各々の役に戻りなさい」
カヲルがはっ、と自分を取り戻す。
「俺の役は、今日一日折姫を護り付き従うことだ。全うせねば」
「お前がいちばん危ないって知ってた? 即刻、消え失せなさい」
幻術でもかけられたように、しゅんと気落ちする。だが足までは動かない。
「男を従順にする香を焚いたのに、しぶといコねぇ。ミカド、あんたは」
「折姫もまた厄除けの御守りを折る役があります。幸い残すところは後宮女人のみ。あなたのような女御と女官だけでも、今日じゅうに折ってもらわねば」
「なるほど。折姫様がここに腰を据えるとなると、姫さまたちを行き来させなければいけない。危険の及ばぬよう、ミカドが局をつなげる必要がある、と」
「そのとおり。ねぇ、その前にひと目でいいから会わせて」
「この天然たらし、冷や水ぶっかけてやろうかしら」
ミカドの甘えた声に驚き、折姫は几帳のすき間から、その様子をうかがった。
ずいぶんと親しげな距離だ。上背のあるふたりが向かい合うと、恐ろしいほど絵になる。
「まあ、あんたたちを野放しにして、呪禁に惑わされていることが広まっても面倒ね。女官たちに襲われないよう、先に目を醒させておくか」
カリナが手を叩くと先ほどの男童が現れた。
「ふたりをひとっ風呂浴びさせて。その間に呪禁を封じて香を焚き直す。折姫は私の御守りを折ってちょうだい。さあ、行った、行った!」
折姫の手首に護符と木綿布を重ね、手際よく包帯を巻きつけると、カリナは口笛で家鳴りを呼んだ。家鳴りは邸に棲みつく小鬼だ。菓子を対価に蔀戸を下ろす。殿舎のすべての蔀戸が下りると、何事かと妖怪が顔を出した。油すましと髪きりに、火消し婆だ。
「そうでした! 薔薇の壺は妖怪屋敷でした!」
「怖くないの? 珍しい方ね」
「桜の壺も、お化け屋敷を目指しております」
「あら、どうして?」
譯を訊かれて、頭が真っ白になった。
なぜお化け屋敷にしたかったのか。決まってる。
ミカドに会いたかったから。
愛しの陰陽師さまに、もう一度来てほしくて。
声だけでも、聞きたくて。
「やっと正気に戻りました。転移先がこちらで助かりましたよ」
ミカドの声だ。静かなのにはっきりと澄んだ、鈴のような声。折姫は逃げるように几帳の奥へと隠れた。
「早かったわね。カヲルは」
「笛を吹いてる」
「あら残念。蔀を下ろしてしまったわ」
「俺の酒は残ってる?」
「まだ執務があるでしょう」
「お願い。浄め酒だよ」
カリナの頬に口づけをして、子どものようにねだる。既にカリナの手にはたっぷりと中身の入った瓶子の紐がぶら下がっている。
「罪な男。さっさと行きなさい」
「ありがとう、四半刻で戻るから折姫によろしく。右から二番目の御簾が梅壺につながるから、そちらからお願い。白百合殿は最後でいい、あちらには話を通してある」
「はい、はい。そこまでしてくれたなら、もう戻って来なくてよろしい」
「つれないなあ、夕膳には戻るよ」
「……ですってよ」
カリナは薔薇に折られた御守りをひろうと、目を瞠きながら懐に納めた。
「これは、たしかに急いだほうがいいわね。折姫?」
茫然とする折姫の肩を揺する。
「しっかりして。あなたの力で多くの人が、命を失わなくて済む」
「私が……?」
「白い紙は霊力を移す。この御守り、主上の力を宿せば夜にも効果があるわ。全員ぶん、是非とも今日じゅうに折ってもらわなくては」
それからカリナが船頭となり、八つ刻までには大半の御守りを作り終えた。なかにはカヲルを想う女人がおり、突き返されることもあったが、残す御殿は白百合殿のみとなった。
*
酒に誘ったのはカヲルだった。
互いに一分一秒も無駄にできない状況下ではあったが、主上に願いでれば四半刻だけ休むことを許された。たかが四半刻のために、夜も働き詰めを約束されたが、それはいい。どうせ今夜は折姫の姿がちらつき、眠れぬのだから。
目を瞑ったまま、ミカドが言う。
「懐かしい曲だ」
笛を吹いたのは、ミカドのためだ。
思えば、泣き止まないミカドをなぐさめるために、始めた楽だった。
ミカドの母──桜の御息所に、また振り回されることになろうとは。
桜の御息所は、異国の女であった。
折姫のように、右も左もわからぬまま、桜の壺に入内した。主上は、桜の壺でもほかの女御と同じように、平等に夜を過ごされたと聞いている。
おかしくなったのは、ミカドを孕ってすぐのことだった。
ときの皇后と同時期に御子を授かったことで、激しい虐めが始まった。糞尿の撒き散らし、膳に毒が盛られる程度なら、耐えられた。あるとき、寝所に蛇が放たれた。蠱術から生まれた毒蛇だった。主上に助けを求めたが、その文は女官に破り捨てられ、届かなかった。
狭い桜の壺をどう逃げても無駄足掻き。
一夜で蛇の餌食となり、それからずっと毒に侵されるのだった。
御息所は腹の子を護るため、生きることを選んだ。ひとり苦しみもがきながら、蛇の毒に耐えた。身体そのものが蠱毒となっていたのを知らずに。
やがてミカドが産まれた。
初の男御子であった。
取りだされたミカドの身体には蛇が二匹絡まっていた。蛇は蠱毒からミカドを護る代わりに、呪となり取り憑いた。
ひとつ、愛をささやけぬ呪い。
ふたつ、玉座につかなければ死す呪い。
ふたつ目の呪は、ミカドの口が「主上」と発することすら禁じた。産まれたときから皇帝なのだとでも、示すように。
何故そのような呪が取り憑いたのか。
今は亡き桜の御息所だけが知ることだ。
よってミカドは、生後一刻たたずして、春宮に立たされた。
カヲルが産声をあげたのは、そのまた一刻後であった。
産後も蠱毒に蝕まれ続けた桜の御息所は、ミカドを退けるようになった。世話は乳母が。そのうちカヲルの母がその手を引くようになった。
薔薇の壺の女御、カリナだ。
カヲルを春宮に立たせることができず、皇后の地位を捨てて、自ら女御を名乗った。
カヲルは思う。
母もまた病んでいたのだろう。幼いころの記憶では、まるで己れがふたりを産んだように、なでかしずき、双子のように平等に育ててくれた。おかげでほんとうの兄弟のように仲が良かった。距離ができたのは、齢十〇歳のときだ。
花宴で、カヲルが女御を眼ぶみしていると、死相をはりつけた女をみつけた。あと七日も生きられないと、言い放ったあのときの、ミカドの青ざめた顔は今も忘れられない。
桜の御息所は、ちょうど七日で身罷られた。
死んですぐ怨霊化したため、誰も悲しむ暇などなかった。一日中、そこらじゅうから聞こえた祈祷は、ちょうど四十九日で消えたが、ミカドの呪は解けなかった。
ミカドは桜の壺へ通うようになった。蛇の呪いがかけられた殿舎だ、周りに止められたが、暇さえあれば行っていた。
罰が悪くて、しばらく声もかけられなかった。
元服の日に土下座して謝ったら、ミカドは笑った。
──よかった。カヲルに嫌われてたんだと思ってた。
「カヲル、笛もいいが少しつきあえよ。まさか、酒を取りにいかせただけか?」
「いや、呑むよ。ありがとう」
相変わらず何を考えているのかわからないが、ミカドと呑む酒は美味い。それだけは、たしかだ。
盃を受けとると、ミカドは感心しながら酒を注いだ。
「しかし、あの呪禁によく耐えたな」
「まあ、二度目だし」
精通してすぐに、仲の良かった女房に見せられたことがある。火傷ではなく紙切れだったが、三日三晩記憶がないほどには効果があった。食事をとるように女遊びを始めたのは、それからだ。
「あと三秒遅かったら、脳みそ吹きとんでたな」
「もうあまり時間がないぞ。芙蓉殿へ行かないのか」
「あれ? 女抱くためにこの時間とったんだっけ?」
「自問自答か」
「いや、少しは冷静に考えたかった。折姫に傷を負わせた男のことを」
「内大臣か。手の内がわからない、厄介な男だ」
内大臣は、桜の御息所の実兄にあたる。
妹の不遇を許せず、自ら貺都へ身を落とした男だ。蛇に呪われた妹を嘆き、二度と後宮で争いが起きぬようにと、高官の見張り役として内大臣を名乗り出た。
主上に異論はなかった。
上達部に匹敵する力を持ち、尚且つ手の行き届かない後宮を護ってくれるのだから。
だが内大臣は、妹の死と共に主上を裏切った。
妹の無念を晴らすようにその怨霊に寄り添い、後宮女人を手当たり次第斬り殺していった。
主上は内大臣を捕らえたあと、なぜか生きたまま牢獄に入れた。極刑に処すべきだったのではないか。脱獄された今となっては、打つ手がない。
「牛車に紛れて入ったか」
「では御息所を眠りから目醒めさせたのは、内大臣で間違いないな」
「折姫のおかげで護衛は近衛に任せられる。今夜はその手がかりを探そう。紫陽花殿に内大臣の髪の毛一本でも落ちていれば。──そうだ」
ミカドは思い出したように、カヲルのみぞおちに拳を入れた。
「え!? ふつうに痛い! なんで!?」
「折姫から目を離した罰だ」
「それはほんとうにごめんなさい、反省しております!」
本来なら、内大臣の腹に入れたいのだろう。整った顔を崩し、悔しそうに歯噛みしている。
「お前、まだ惑わされてる?」
「いや?」
「そうか。じゃあ、やっぱり本気ってことだ」
「なにが」
天然なのか、しらばっくれているのか、わからない。
カヲルは笑ってしまった。このふた月、飄々としながらも折姫から視線を外さないミカドの妬ましさに、気づいていないとでも思っているのか。
「魔術が解けているか確かめに、ひと目会っとく?」
「いや。会って襲わない自信はない」
「それは俺も同じく」
同じ女を好いても、酒は美味い。
呑めるときに呑んでおこうかと、ミカドの盃へ酒を注いだ。




