十九折
雨上がりの御所正門、桔梗門。
月に晧々《こうこう》と照らされた黒柱の前で、豪奢な几帳で飾られた牛車が一台、入り口を塞いでいた。無人で車を牽く牛もいない。ぼぅと車輪に蒼い燐光を灯していた。
カヲルの明るい袴をみつけ、ミカドが肩を並べる。
「すまない。邪魔をしたわけじゃない」
「わかっている。お前は大丈夫か」
「大丈夫に見えるかよ。一寸、目を瞑っている間に部下を啖われた」
桔梗門は御所の大結界。
暮れになると閉じられるその門が夜に開かれたのは、百年ぶりだ。扉をふさぐ牛車がたちまち鬼門となり、外の瘴気を御所へ流し込んでいく。牛車を動かそうと近づいた近衛兵は、首をなくして帰ってきた。
膝から崩れ落ちた近衛兵に腰を抜かし、置き去りになった門番が震えている。
ミカドが牛車へ眼をこらす。牛をつないでいない車の軛に、女が立っていた。
顔は扇子で見えない。
身にまとっているのは桜模様の唐衣裳のようだ。
「母上のご帰還か」
悲しげに、ややうんざりとした思いでまぶたを落とした。
「さてどうする」
「お引き取りくださいと、私が頭を下げてこよう」
「なかなかいい案だな」
足で魔法円をなぞる。カヲルの描いた護身用の結界は、化生のものに、姿がみえない。ミカドが一歩踏み出さんとした時だった。
腰を抜かした門番の周りへ、報せを聞いた近衛兵が十名。
牛車を半弧を描いて囲い、無防備に集まった。
「馬鹿! あいつら勝手に……!」
剣呑な男たちを前に、女はやおらに扇子を落とした。
「待て、カヲル! 間に合わん」
それは、扇子が御所の土に落ちる短い間。
血溜まりのような墨が波紋のように拡がり、腰を抜かした門番の衣を汚した。
彼以外、骨もなく消えている。
女が啖ったのだ。
カヲルは美しい顔に青筋を立たせた。
「やっぱ、俺が行く」
「女神の御加護があらんことを」
カヲルが瘴気の霧へ飲まれていく。ミカドは結界に紋様を描き加えると、地に口づけた。魔法円の光が強まるとともに月明かりが、カヲルの太刀に力を与える。
霧の奥から、緊張感のない声があがる。
「なんだこれ!」
「龍脈を司る、龍神の爪をかりた。十数えるうちだ」
「短けぇよ!」
だがすぐに女の断末魔が夜の御所に轟いた。
たなびく霧と共に、牛車が消え失せる。
女を斬ったのは自身であろうに、カヲルは御所門を閉じながらミカドへ問うた。
「殺ったか」
「力は削げたが、どうかな」
墨は近衛兵の血溜まりに変わり、御所の土へ染み込んでいく。女の落とした扇子もまた、溶けるように消えた。
「雨水に逃げたようだ」
「ミカドは主上へ報告を頼む」
そう言うと、カヲルはミカドへ背を向け、門番のそばへ走った。浅沓が沈む血溜まりには近衛兵の武器がちょうど十本、散らばっている。
「はあ、手遅れか」
力なく溜め息をこぼし、太刀を鞘に納める。次には呻き声を上げ、門番がこと切れた。
瘴気にあてられ死んだのだ。
後始末に追われるカヲルに別れを告げ、ミカドは白百合殿へ向かった。
殿内は夜中だというのにいやに騒がしく、人が往き来していた。御帳台のある部屋の前には識神の童子がふたり、うつらうつらと眠そうに気を張っている。その狭間で主上がひとり、灯籠の灯りひとつで文机に向かい、ひたすら筆を走らせていた。
「あとは私が引き継ぐ。カヲルも休ませるから、お前も寝ろ」
「しかしまた母上が現れたら。後宮だけでも結界を敷かなければ」
「御所はあの女の郷だ。いくら結界を張ろうが、意味を為さん。この半年の気の乱れは彼女の所業であろう」
「桜の御息所が、ですか──」
芙蓉殿の呪が解けても未だ御所に蔓延る幽鬼の数々。蝟集させていたのは、鯉の残り香ではなかったのか。
「鯉は飼われる魚だ。水路に放ったのも彼女であろうよ。現に一夜で御所中の結界が破られた」
「では、白百合殿も」
チラリ、帳台へと目をやる。
「中宮は床に伏せておられる。今朝に御所へ戻ったばかりだというのに、仲の良かった命婦が瘴気にあてられ死んだのだ」
ミカドは眉を潜めた。
取分け親しくしていた直仕の女房だ。
「御寝所を移しますか」
「事を荒立てぬ様、今まで通りに。夜は私が目を見張ろう。日中はまた桜の壺の女御に力を借りたい」
「折姫の力を?」
「鯉を封じるばかりか滅したその力、頼らずして人命は救えん。口添えは遅かったか?」
素知らぬ振りを見せる主上に、ミカドは手の甲の脈を浮き立たせた。芙蓉殿の御寝所へ閉じ込め、折姫の命を危険に晒した張本人がよくもぬけぬけと。
「……いえ。まだ血は穢れておりません」
「お前が奥手で助かったよ」
「あなたのような帝には、なりたくありませんので」
ミカドは精一杯の強弁を吐き、これ見よがしに徒歩で、桜の壺のある丑寅を目指した。
松明を持たず、月光を頼りに黙々と。
その間、何躯の異形を浄めただろうか。御所のなかだというのに、まるで黄泉。命がいくつあっても足りない。
桜の壺の外堀を見上げ、ほっと息を吐いた。
手が及んでいないようだ。
日没後の桜の壺の結界は、人間には破れない。
ミカド自身も獣の姿を借りてようやく、御簾を潜れた。
ぼんやりと灯る灯籠。
華奢で小さな影。
爪を起て帳台へ上がれば、枕に頭を預けることすらせず、彼女は「クロ」を待っている。
「よかった、ずっと待ってたの」
化粧気のないその笑みはあどけなく、愛らしい。
責を背負い独立した女の顔をみせる、出仕中の折姫は凛々しく魅力的だ。だがミカドは帳台でしかみせない素を晒した彼女を何より、愛していた。
「ミカド様、ご無事かしら。カヲルも」
ミカドは胸を焦がした。
彼女は気づいているのだろうか。己れにはいつまでもよそよそしく、一線を引くのに、カヲルは違う。友のように名を呼び、恋人のように近づき、笑う。果たしてこのふた月、ミカドは折姫に笑みをたむけられたことなどあったろうか。
抱き締められると、薄い衣の向こうに彼女の温もりが感じられる。いっそうのこと求められるがまま、猫でいられたらいいのにと──その柔らかさに心まで委ねながら、ミカドは眠るのだった。
*
鶏鳴。
いつもより早く起きたつもりが、クロの姿がない。帳台を出るとシオンが縁で泣いていた。気のせいか庭の桜も花を落とさんばかりに散っている。
「何があったの」
昨夜帳台へ射られた矢には、手紙が結ばれていた。
ミカドはその手紙を開くとすぐに帳台を出て行ってしまった。
布団に残された手紙を拾うと、見慣れた字が恐慌をきたし、助けを求めていた。
御所に侵略があり、門を開けられてしまった。
そんな内容だった。
カヲルの知らせを前に、引き離せそうになかったミカドの温もりが風のように消えて、ひどく恐ろしくなった。クロがいなかったら、眠れていなかったことだろう。
シオンは泣きじゃくりながら、すがるように言った。
「桜の御息所が帰ってきたのです。この部屋へ入れず泣いています」
「それは、だれなの?」
「ミカド様の母君でありながら、後宮を滅ぼさんとする、悪鬼怨霊でございます」
「お母さまが……?」
シオンはこの庭桜であり、この殿舎はミカドの生まれ育った場所。つまりは、
「お母さまは、桜の壺の女御……」
「もうお亡くなりになられて六年目になりますか。息絶えすぐに、大蛇へ姿を変え、女官ばかりを襲っては啖う怨霊となったのです。後宮は地獄そのものでした。元より強い方でしたのでその力を封じることもできず、みなが死を覚悟し諦観するころ、ちょうど四十九日で忽然と消えたのです。それが何故、今になって──」
桜の壺に、新たな女御を入内させたからか。シオンが折姫の身をあんじるが、当の本人はミカドを心配した。
「ミカド様、大丈夫かな」
「ご安心を。ここにおります」
「よかっ──」
後ろから覆い被さるように抱きしめられ、折姫は言葉を詰まらせた。
「昨日の夜は、すまなかった。もう二度と怖がらせることはしないから。……少しだけ、こうさせて」
香を燻したばかりなのか、桜の香りに包まれるようだ。後ろ髪に熱い、ミカドの息がかかる。折姫が、ミカドの腕に手を添える前に、身体が先に離れた。
振り返ればミカドの顔が、五芒星の描かれた造面に覆われている。
「それは……」
「日中、紫宸殿を任されておりますゆえ、目印に」
それは、主上の面ではないのか。折姫は会ったことがないからわからない。
「折姫、あなたも今まで以上に忙しくなります。カヲルを従わせますが、どうかご無理のないよう。支度を終えましたら、芙蓉殿の蔀戸を三つ叩いてお入りください。では」
簡潔に言い終えると、すぐに戻って行ってしまった。
「シオン。つらいだろうけど、お願い」
「はい」
ミカドには慰めのひと言も言えなかった。ネコが雨に濡れた縁を床拭きするのを眺めながら、思う。
ミカドはやはり主上なのだろうか。
今日のミカドは花宴と同じ、山吹色の束帯装束に身を包んでいた。山吹色の袍は主上だけが身にまとえる絶対禁色と、いつしか乳母が言っていた。
日中は顔を隠していると周りにひろめておいて、何食わぬ顔で御所を行き来しているのでは。だとすれば、昨夜のこともすべて納得がいく。
果たして、次は断れるだろうか。
胸に手を添えられただけで、手を重ねただけで、身体が熱く喜ぶのに。
「シオンは……、ミカド様の官位を知ってる?」
「官位? ミカド様に官位などございませんよ、君主位のことですか?」
折姫の顔色がみるみるうちに青ざめていく。
シオンは、折姫の帯を締めながらはっとした。
夜通し働いていた主上に代わり、今日はミカドが日中の執務につく。紫宸殿の正装を見て、ミカドが主上だと勘違いしているのではないだろうか。いやしかし、さすがに歳を計算すればわかることだ。念のため切り出してみるが、
「姫さま、ミカド様のご年齢はご存知ですか」
「うーん、二十八歳くらいかしら」
「に、二十八!? ミカド様が!?」
「シオン、おにぎり握ってくれる?」
「え──!? さっき、おかわりしましたよね!? まだ食べるんですか!?」
「お昼ごはん、食べられなかったときのために」
食に念入りな主人に愕然として、誤解を解く機会を失うのだった。




