十八折
シオンは桜の精霊。
桜のあるところ、どこへでも姿を移せる。そのため御所には至るところに桜の木が植えられていた。
総身を包んでいた花びらが消え、折姫が目を開けると、ひとりで桜の壺に立っていた。
ミカドもシオンもいない。
重い着物をひきずり湯殿へ向かうと、熱い湯に長めに浸かった。湯に浸かると、全身を這っていた女の髪の感触が不思議と消えるようだった。
「私たちを閉じ込めたのは、ミカド様じゃなかった……」
冷静に振り返ってみると、ミカドの焦燥とした声音が耳から離れない。
ミカドが鯉の餌にしたかったのは、女御への怨念を詰め込んだ傀儡。身の安全を考えたうえでの、策であったのだ。
だがそれならそうと、言ってくれたらいいのにと、何度も不満を抱くあたり、自分はやはり根にもつタイプなのだと自嘲する。
湯浴みを終えてあがると単衣の上に、いつしか折姫が星桜と書き綴った紙が、新しい御守りと共に置かれていた。
それらを慈しむようにしっかりと懐に挟み込んで、帳台へ向かう。お腹は空いていたが、今すぐに眠りたい。湯は疲れまではとっていってくれなかった。翌朝、いつもの時間に出仕できるか不安を抱く。
「あ」
短く声が漏れた。
晒しものになる務めは今日で終わったのだ。
子どもたちと戯れる出仕もまた、今日で終わりなのだろうか。
「シオン。……また、私はここに閉じ込められるの?」
「怖い思いをしたのに、まだ外に出たいと?」
庭の桜を見上げていると、その下で未だ狩衣姿のまま、ミカドが胡座をかいていた。
「ミカド様!」
「今日は、お付き合いいただけませんか」
「今夜はさすがに──」
折姫の目が光った。
瓶子の横で、燻した牛肉が皿にのって「食べて!」と訴えてくる。
若干、肉寄りに座り込む。
ミカドは力なく笑った。
「どうぞ」
「いただきます!」
御所での食肉は十年ほど前に解禁されたばかりで、今でもあまり膳にのぼらない。月に一度、口に入ればよいほうだ。
折姫は、久方ぶりに味わう甘い肉汁で、疲れを吹き飛ばした。
「美味しい──────!」
「よかった」
ミカドは手酌した酒をやおらに口に運んだ。
瞼が半分落ちている。
御所のあちこちに転移したあとで、あんなに恐ろしい鬼を使役したのだ。相当お疲れなのだと、折姫は心でうなずいた。
相変わらずお酌ができていないのだから、やることはひとつ。最後の一枚を口に放り込むと、ミカドの後ろに回った。
「お肉のお礼に、肩をお揉みします」
「いや、いいよ。あなたのほうこそ疲れているだろうに」
「では、少しだけ」
折姫はミカドの肩に指を這わせながら、遠慮がちに訊ねた。
「鯉が居なくなったあとも、芙蓉殿の出仕を続けてもよろしいでしょうか」
「もちろん。そうでなくては困るよ、御子たちはあなたにすっかり御執心だ」
顔を綻ばす。
その言葉を聞けただけで、今日はよく眠れそうだ。
「よかったです」
「ああ、でも明日は休みなさい。乳母には言っておくから」
「でも、お庭に昨日の雨が残っていれば、明日は泥遊びができますよ!」
「折姫も泥に入るの?」
「はい!」
「元気だなぁ」
とろん、とした目で見上げてくる。
心の臓がはやまるのと同時に、手の力も入った。
「んっ」
「痛かったですか!?」
「……いや、気持ちいいよ。ご褒美はなにがいい?」
「ご褒美! ですから肩もみは、お肉のお礼です」
「鯉を滅した褒美だよ。……カヲルに、衣裳を仕立ててもらおうか」
「カヲルに? 派手な袿はちょっと」
開いて見ていないが、以前届けられた衣裳は金糸で縫われ、陽のなかでやけに眩しかった記憶がある。
「では化粧箱? 上質な墨?」
「もういただいてます」
「わかった。もっと優秀な舎人だ!」
「ふふ、それはちょっとだけ欲しいです」
「だってさ、シオン。もっと努めろよ」
酔いがまわっているのか、子どものようにくだけて話す。
身体も起きているのがやっとで、指で押し返さなければ、倒れ込んできそうだ。
そろそろ休んだほうがいいと、声をかけようとしたときだった。
睡魔を祓ったように、いつもの調子で語り始めた。
「折姫は、蠱毒を知ってる?」
「蠱毒。聞いたことがありません」
「ひとつの壺に毒虫や蛇をたくさん入れて、最後に生き残ったものが、蠱毒。それを利用して、人を呪い殺す禁術さ」
「毒殺、ですか」
「もっとタチの悪い呪いだ。蠱毒の毒を盛られた人間は、死んでも御霊を苦しめられる。鯉に啖われた女御たちもまた、鯉の腑に閉じ込められたまま、長年苦しんでいた」
遠くで彼女らの御霊を鎮める主上の祈祷が、ミカドの耳には聞こえた。
「鯉は、蠱毒だった。蠱毒が滅せられたことで、女御たちは解き放たれ、夜御殿に染み付いた怨念も晴れた。芙蓉殿はようやくに生け簀の役目を終える。泥遊びも何の心配もなく愉しめるだろう。すべては、あなたのおかげだ」
「いえ。私は、そんな──。晒しものになっただけで」
つい、口をつく。
「晒しもの、か」
ミカドは折姫から離れると、濡れた縁に膝を揃え、手をついた。
「ほんとうに、すまないことをした。ふた月も女たちの目に晒し、傷つけ、最後は命に危険が及ぶような、怖い思いをさせてしまった」
折姫は膝ごと飛びあがった。
「み、ミカド様! おやめください! こうして無事でしたし、作戦も成功をおさめました」
「作戦? 私はあなたを助けるために走り回り、呪をつぶやいただけだ。成功? 鯉を封じるには長い時間祈祷を続けなければならない。あのまま水のなかに居れば、あなたとカヲルは溺れていた」
尚も頭を垂れ、言う。
「ふたりを救えたのは作戦ではなく、偶然。あなたの絵と、私の呪力が惹かれ合わなければ、なし得なかった」
「惹かれ合う」
「その、相性が、良かったんだ」
歯切れの悪い言い方をする。
「……では、運命だったのですね!」
「運命?」
ミカドが顔を上げる。
折姫は感情そのままに、笑っていた。
「はい。私が鬼を描いたことも。ミカド様と相性が良いことも!」
自分で言ったあとで意味がわかり、恥ずかしくなった。顔を隠そうと扇子に手をのばす。
ミカドはその手を優しく奪った。
「私は、……今から、ずるいことを言う」
それからしっかりと、目を合わせた。
酔っているようで、すっかり醒めているような。冷たいようで、今にも泣き出しそうな、そんな目をしていた。
「今から、私はあなたの御帳台へ上がる。……一刻、あなたが現れなかったら、ほかで眠るよ」
一瞬、なにを言っているのか、わからなかった。
茫然としていると、ミカドは折姫の指を離し、やおらに立ち上がった。
ひどく焦り、背中へ声を浴びせる。
「わ、私は、女御です。桜の壺の」
「ああ、女御だ。紛れもなく、あなたは女御だよ」
「では、私は」
「あなたは、わかっているの? 私だけが、あなたの御帳台へ入ることを許されている。あなたに触れていいのは、この世でただひとり。……私だけだ」
折姫は、頭のなかが真っ白になった。
──女御の務めは、主上の夜伽。
ミカドの姿はすでに御簾の奥に消えていない。
真っ白な頭のなかで真っ先に浮かんだのは、白百合の花だった。
思わず、つぶやく。
「シオリちゃ、ん」
折姫は、思い出していた。
務め終わりに見た、ミカドと、白百合殿の中宮のやりとりを。
まるで夫婦のようだった。
違いないのだ。
五年間も愛し合い、子を授かるふたりの間柄なのだから。
眠い目をこすりながら、アスナとコトハを自分の足で送り届けるのは、我が子を愛するゆえ。
心から主上を慕う、中宮との約束が甦る。
──今後桜の壺に下られてもお断り致します。
では、帳台へ上がられてしまっては?
言われたとおり、一刻待てばいいのか。それよりはっきりと几帳の前で、手をついて断ればよいのだろうか。
誘われるように御簾を潜った。
帳台の前まで足を運ぶあいだ、断ることなどできやしないと、わがままが頭のなかで暴れた。
胸で反芻する。
──ミカドは、主上なのですか。
否して欲しい。
そして女御ではなく、袿を脱ぎ去った自分を見てほしい。
身分や立場など関係なく、夜伽を望んでいるのだと。
はっきりとした答えが欲しくて、ためらいもなくと御帳台の几帳をくぐった。
ミカドは横たわらずに、布団の上で胡座をかいていた。祝詞を口ずさみ、時間を潰していた。まさかそんなにはやく、入ってくるとは思わなかったのだ。
驚いた様子で、目を瞠る。
墨を落としたような瞳が、震えた。
「どうして」
折姫は深くうつむきながらも、膝を突き合わせた。その顔は酒をひっかけてきたように紅い。
「な、なにか、間違えましたか」
「いや。……ううん。逃げられないような言葉を吐き、あなたの帳台へ入ったのは、私だ」
「でも、外で寝ることもできました」
「縁は濡れそぼり、冷えているのに。そんな場所で、あなたをひとりにしたのも、私か」
布団に流れる御髪をすくう。
湯上がりに梅雨のしめりけを帯びた髪は、少し重い。
「……ひとつだけ、教えて」
そう言って、ミカドは目を合わせながら、右手のひらを折姫の懐へ添えた。
「御守りが強引に破られ、あなたの位置が知れた。助けを求めているのだと思い、私は駆けつけた」
芙蓉殿の御寝所でのことを言っている。
「だが、それだけでは説明がつかない。カヲルがいたからだ。私に知らせる方法ならば、カヲルがいくらでも持ち合わせている。わざわざ御守りを破った理由を教えてくれないか」
折姫は、戸惑いながらも、はっきりと言った。
「カヲルに触れられることで、異形を誘発できると考えたからです。結果、引き金となりました」
「……そう」
ミカドは懐に添えた手を強引に押し込むと、倒れる折姫の身体を抱き上げ、布団へ寝かせた。
もう後戻りはできないのだと、両手の指を絡ませる。
「鯉はね、私の気に敏感なんだ。ふたりのもとへ向かうさなか、怒りを抑え込むのに必死だったよ」
「どうしてミカド様が、お怒りになられるのです」
「それはあなた、を──」
唇が一文字に結ばれる。
「クソッ、忌々しい呪め」
折姫は濡れた縁のように、目にうっすらと涙を浮かべた。怖かった。
ミカドはなにに対して怒っているのだろう。
御守りを破ったこと?
違う。まだなにかひとり思い悩み、隠している。
必ず訊くのだと、何度も唱えた言葉が、喉につっかえて出てこない。
ミカドは、主上なのだ。
これは務め。
主上だから、務めとして自分を抱くのだ。
中宮が御所を離れているから、その埋め合わせのように。
もしかしたら鯉を滅したご褒美かもしれない。
そう思うと、自ら几帳をもぐったことが、ひどく虚しくなった。
一層のこと、愛だの恋だの、囁いてくれたら心まで委ねられるのに。
それは決してないことだ。
主上が愛を誓うのは白百合殿の中宮、ただひとりなのだから。
落とされたのは甘い言葉ではなく、口づけだった。
カヲルのような深い口づけではなかった。
激しい言葉とは裏腹に、唇の触れ合う、形だけのキスだった。
ふたりの絡み合う指先に、矢文が放たれるまでの、一寸のことだ。




