十七折
「んー、んーっ」
「もっかいだけ……、いったぁ!」
折姫の張り手でその場は収まった。次の局面へ頭を回す必要があったからだ。
「少しだけって言ったのに!」
「ふん。俺の少しをなめるなよ」
カヲルは太刀に手をかけたが、すぐに外した。
足の爪の先に、水が滴ったのだ。
雨漏りかと疑うそれは、一滴は二滴に、二滴は四滴に。天井から滴る水滴は倍に畳へ滲む。 シトシトとそぼふる水は瞬時に足場を浸していった。
「溜まる速さが尋常ではないな。折姫は泳げるか」
「足掻き程度なら」
「じゅうぶんだ。あとは、ミカドが間に合えば」
言ったそばから戸の方角から声がした。ミカドだ。
「カヲル、現状は。なぜ折姫となかにいる!」
「なぜって言われましてもねぇ。今は水嵩が増しているだけだから、はやく開けてくれ」
「開かん。部屋を満たす水がそうさせているのだろう。水位が上がれば異形のものが現れよう、私は御所の水を枯らすが、戻るまで折姫を頼む」
「御意に」
「いけい?」
「女御を啖らう」
そう言うとカヲルはついに朱鞘から太刀を抜き、水面をヒタと見定めた。既に水はくるぶしまで溜まり、黒い波飛沫をタプタプと弾ませている。
女の、髪だ。
藻のように絡み付くそれはコポリ、と音をたて頭ひとつ分、カヲルの目前で浮き立った。
乱れ髪からかすかに覗くは、白い頭蓋骨。その眼窩には目玉となる朱玉がギョロリとひと回り動いた。
反射的に太刀を振るい上げたカヲルは、その刃尖を水面と垂直に打突し頭蓋骨を叩き沈めたが、また離れたところで頭が上がった。ひとつ沈めばまたひとつ浮き上がり、まるでもぐら叩きだ。
「今まで啖った女御の骸か。きりがないな」
ミカドの合図はない。
その間にも部屋は水位を上げていく。
ついに腰まで浸かる位置になると、頭蓋骨はひとつを残して、あとは消えた。残った頭蓋骨には背骨が生え、側面にヒレのような腕がにょろりと伸びた。
骨に肉をつけ、鱗をまとう。
弦を奏でるように並んだ鱗はちいさく、まるで蛇のようだ。
折姫はというと、足場がみつからずカヲルの背中にしがみついていた。恐怖が先だっての行動だったが、その手にはしっかりと灯籠が抱えられている。灯が命綱に思えたのだ。
「お、お前──」
「もしかして重い? 確かに最近ちょっと食べ過ぎだけど、袿は脱いだよ」
「いや、だいぶ育ったな」
「はい?」
「安心しろ。栄養はぜんぶ乳にいってる」
「啖われてしまえ!」
「こらこらこらこら」
灯籠を頭頂部にガンガンうちつける折姫を背負いながらのカヲルの太刀捌きは見事なものだったが、流石に胸まで水位が上がると柄を握る手に力が入らない。加え、懐に雷のような稲妻が走った。
折姫が折った御守りだ。水で名前が滲み、ついには溶けて消えてしまった。
「なんだと。この俺は護られていたのか」
御守りを失くしたカヲルの脚を、異形の腕が容易につかみとる。刀を斬り入れるがヒレがぬめり手応えなく、ついに太股の肉を噛み千切られた。
呻き声を発しながらも、折姫を庇おうと片足で身体を支える。鮮血が御寝所の白い敷妙に、はえばえと映った。
「やだ……! カヲル、すごい血がでてる!」
負担をかけぬよう手を離そうとしたが、腰をつかまれた。
「離れるな。そのままでいろ」
「でも……!」
「獲物はお前だ。啖われたくなかったら、じっとしていろ」
だが無常にも、浮かび上がってきた異形の口は、ガコンと顎をはずしたような音をさせ、ふたりぶんの空洞を作った。
「私たち、仲良く食べられるみたい!」
「悠長だな、おい!」
折姫は、不思議と怖くなかった。
ミカドは必ず間に合わせてくると、本気で信じていた。
そしてそれは言霊となった。
「無事か!」
ミカドの声だ。
同時にドプン、と異形が沈んだ。
「ミカド、助かった……!」
「鯉は底に縛りつけた。あとはふたりを救い出せれば……、なにか、見えないか!」
ミカドが描いたであろう魔法円が底一面に青白く光っている。水に沈み、干物のように平べったくなった異形を真下に、部屋を見渡した。
折姫の持つ灯籠がその絵を照らす。壁に貼り付いた一枚の絵だ。
「鬼の絵がある」
「それがどうした」
「折姫が書いた。今見てもギョッとしたほど恐ろしい絵だ。どうにかならないか」
「ふむ」
ミカドが戸の向こうで短く呪を呟く。
折姫が抱く灯籠の炎がぼうと憤った。
「ふふ、驚いた」
「どうした!」
「声をかけただけで、恐ろしい鬼を喚んでしまったぞ」
「どれほど恐ろしいのだ」
「鬼神魔王、といえばわかるか」
カヲルは一瞬、痛みを忘れた。
鬼神魔王は、鬼のなかでも最強と謳われている。その名のとおり現世を地獄に陥れた魔王だ。同族からも恐れられ、鬼神として何百年も前に、黄泉に封じられた。
恐る恐る絵を見やれば、灯籠の灯りに照され、墨が深まり、陰影が生まれている。
陰影は、鬼の硬骨を纏う筋肉である。
筋肉をつけた鬼は、短く喋った。
──仰せのままに。
「なにあれ! 新しい敵!?」
「お前が描いたんだろうが」
折姫は思った。
我ながら、はちゃめちゃにコワイ!
絵から抜け出した鬼は水へ飛び込むと、その体躯は部屋に収まらないほど膨れ上がり、ぐいと水位を上げた。ふたりはなす術もなく、激しい水渦に巻き込まれる。
──ごり、ごり。
骨をこすりあわせるような、いやな音がする。
鬼が異形を啖っているのだ。
折姫は目を瞑り、ただ流された。骨を砕く嫌な音だけは、耳に染み付き逃さなかった。
「姫さま、ご無事ですか」
「たぶん……」
瞼を開けると、折姫はシオンの膝に頭を預けていた。起き上がろうとするが、全身がぐっしょりと水気を含み、重い。
指に触れる御寝所の畳は乾いている。
カヲルは隣で転がったまま、ミカドへ悪態を吐いていた。
「いだだだただっ……、傷口を叩くなよ!」
「何が傷口だ。鯉に噛まれた程度で大袈裟な」
ミカドが護符に口づける。カヲルのえぐれた肉は、たった一枚の護符でたちまちに治った。
「すごい……!」
ミカドは折姫の視線に気付くと、すぐにそちらへ肩を向けた。
「貴女の力のおかげで封印にとどまらず、異形を滅することができました。しかし、なぜこのような奥の間へ、寝所へなど入ったのです」
「ミカド様が誘ったのでは……?」
「私が? そんな馬鹿な」
「私たちはクロを追いかけただけです」
「クロ?」
ミカドは目を端に寄せ、思い巡らせた。
「まさか、お」
紅い唇がきゅ、と結ばれる。
言い淀んだのだと取り、折姫から喋った。
「芙蓉殿の怪異については、カヲルから聞いております」
鯉。
この度の呪は、鯉一匹から始まっている。
ひとむかし前、先帝が子供の遊び場にと芙蓉殿の裏庭の溜め池を埋めた。この時、池に棲んでいた大鯉を生き埋めにしてしまい、これがいけなかった。
地下の水路に逃げ込んだ鯉の御霊は異形へと姿を変え、主上への報復に寝所へ上がった女御たちを啖らっては、溜め池の跡地に骨を捨てた。女御ばかり啖らった鯉は、腑に女の怨念がこびりつき、何時しかそれを貪欲に求めるようになっていった。
水路を逃げ回る鯉は、人の手では捕まえられない。
先帝は御寝所に罠を仕掛け、寵妃を啖われながらも涙ながらに、鯉を封印したのだった。
封じたあとも、鯉の生臭さに惹き寄せられ、幽鬼が集まる芙蓉殿──。
何者かによって封印が解かれてからは、御所じゅうに敷かれた水路のあちこちで、現れるようになった。
鯉を捕らえるためには、餌で誘き寄せる必要があった。女の怨念を集める餌を。
餌は極上でなくてはならない。
鯉の舌を喜ばせる、女御を。
「御寝所は鯉の生け簀。私とカヲルがふたりきり、中へ入れれば餌になると、閉じ込めたのではないのですか」
「あなたをそんな危険な目に合わせるはずがないでしょう! そのため、ふた月も待ったのに」
折姫を生け贄にすればひと夜で叶う話だ。それをせず、ふた月かけて怨を溜めていたのはすべて、折姫の身を護るためだというのに。
「ミカド様……?」
「折姫、あなたはこの芙蓉殿でカヲルと逢瀬を重ねることで、宮中の女の妬み嫉みを一身に集めた。このままもう少し待っていれば、あなたの折り紙ひとつを傀儡にして、鯉を封じることができた。それが、もっとも安全なやり方だった」
晒しものにするか、命をかけるか。
二択なら当然、前者だ。
「御所は広い。四方八方に水路がはりめぐらされている。加えて、各御殿の溜池や川。シオンを従えても水を抜くのに時間がかかった。カヲルがいなかったら、あなたは今ごろ──」
ミカドは総毛立たせた。
シオンと転移を繰り返し、御所の水を抜く予行はこのふた月で幾度となく試してきた。ところがいざすべての水を抜き終えたところで戻ると、既に血の匂いが漏れるほどカヲルは傷を負っていた。御所一の剣豪である、カヲルがだ。
「無事でよかった……、ほんとうに」
折姫の小さな手にミカドの手が重なる。
ひどく冷たい。
「では、閉じ込めたのは、ミカド様ではないのですね?」
「誓って、ないよ」
「では誰が──」
カヲルがミカドの背中を叩く。
「俺もいたわってくれる? まだ感謝もされてませんがね」
「百歩譲ってそれはない。そもそもお前が止めていればこんなことにはならなかった」
「ミカドが俺に正しい計画のほうを、ちゃんと言っておかないからだろ」
「お前は口が軽すぎる」
「それでもミカド様は、なんでもかんでも、ひとりで背負い込みすぎです」
折姫の差し出口に、ぐうの音も出ない。
ミカドはねちっこく叩いてくるカヲルの手を振り払った。
「折姫を護ってくれたことは、感謝する。おやすみ」
「俺、このままここで寝るの!?」
「シオン、最後の転移だ。帰ろう」
シオンは、ミカドをジトと見据えた。
「わかってる。今日がほんとうの最後だ。帰ったら折姫に託すから」
横たわったままのカヲルをひとり残し、桜の花びらが芙蓉殿の御寝所を包みこんでいった。




