十五折
日が進み、出仕に慣れてきた曙のころ。
その日はめずらしくクロの姿がなく、寂しく思いながらも、折姫は芙蓉殿へと上がった。
今日は楽しみにしていた音楽の授業だ。
大広間に出ると、すでにカヲルが譜面をひろげ、待っていた。
「おはよう、折姫。さっそくはじめるぞ」
「おはよう?」
折姫は首を傾げた。
カヲルは譜面に視線を落とし笛を構えたが、その中身はカタカナが羅列されているだけだ。折姫の知る譜面とはまるで異なる。
「呪文? 人を呪い殺す呪文?」
「そうきたか」
カヲルは目を据わらせた。
何日か共に過ごしていると、折姫の学のなさはすぐに浮き彫りとなった。
無知の知と言えば聞こえはいいが、恥というものを知らず、なんでもかんでも訊ねてくる。普段ならば気を良くして答えるが、疲弊しきった務め終わりには、少々うざったい。
「教えている暇はない。耳で憶えろ」
「はーい」
気を取り直し、笛を吹く。
目を瞑り、聞いていた折姫はすぐに顔を華やがせた。
「素敵……! 五月にピッタリ!」
「まあ、季節は合ってる」
「みんなといっしょに、合奏は難しいかしら」
「楽器を集めてもいいが、幼い御子には難しいな」
「待って。……そうだ!」
折姫は広間の角に置かれた折り紙を一枚取ると、手早く形を作った。
「それは、なんだ?」
「音符です。今から言う音階を、笛で吹いていただけますか」
そう言うと、折姫は「あ────」と、低い声を出した。音階は『ド』だ。
カヲルが笛で奏でると、折姫は音符を指で押した。
「みて」
音符の折り紙を押すたびに、笛の音が吹き出る。
「この調子で七種類折れば、立派な楽器になります」
「押すだけなら、三歳のコトハでもできるな」
カヲルは感心した。
折姫は物を知らないが、発想の転換に関しては人一倍はやい。更に折るだけでなく、その先の用途を考え、仕組みを変えてくる。
計算や詠唱をすっ飛ばして。
もはや異能だ。
「それなら音階によって、色を変えてみてはどうだ」
「色のお勉強にもなりますね! 昨日使った色水なら──」
折姫が踵をあげて立ち上がろうとすると、カヲルに腕をつかまれた。体勢を崩し、覆い被さるようにして倒れ込む。
「え? え? なんで?」
が、カヲルは颯と避けたため、鼻を板間にぺちゃん、とこすった。
「いった──────い!」
「す、すまん、つい! ぶっ、あはは!」
鼻頭が真っ赤に擦れている。
折姫はその小鼻を膨らませた。
「なんで避けたのですか!」
「いやあのままお前を受け止めていたら、ミカドの御守りで、俺の脳みそ吹き飛んでたし」
「そっか。じゃなくて! じゃあ、なんで腕をつかんだの!」
「なんで? さあ」
カヲルは言葉を濁した。
つい抱きしめたくなったから、などとは言えない。
いつもの調子ならばスラスラと口をつくのだが、折姫を前にすると、なぜか甘い言葉は引っ込んだ。
「ほらよ」
折姫の鼻へ、ぶっきらぼうに護符を貼り付ける。
「なあに、これ。私、キョンシーじゃありません」
「キョンシー? これは治癒の護符だ」
短く詠唱して、剥がすと擦り傷が治っている。
折姫は鼻と共に機嫌も直した。
「すごい! お札で怪我を治せるなんて、ほんとうの魔法みたい。貺都はなんでもありですね!」
「なんでもありは、お前の異能だよ。……疲れた。背中を貸せ」
「背中? こう?」
「折れたら音階を教えろ。俺は笛を吹いて、色を塗る。陽が出っきるまでに終わらせるぞ」
「はい」
背中を合わせると、カヲルは思いきり寄りかかってきた。
よほど疲れているのだ。
先ほども寝ぼけて腕を掴んだのだろう。務め終わりに申し訳ないなと、折姫は思う。
背中ごしでは、カヲルの邪な感情は届かない。
少し折りづらいが、しばらくそのままで音符を作り続けた。
「抱き合うことができないから、背中で温もりでも感じているんですかね?」
強い陽射しが入るころ、唐突にシオンが割り込んできた。
「もう、シオンったら、どこへ行っていたの? 大変だったんだから」
「一体どのへんが」
イチャついているようにしか見えないが。
「折り終わった途端に、これよ。揺すっても起きないの」
「めずらしいですね。薫の君が、御帳台の外で眠り込むとは」
「そうなの?」
「これでもなかなか、ご自分に厳しい方なのですよ。うーん!」
シオンが肩に腕をのせるが、頭ふたつぶん大きいカヲルの身体はビクともしない。
桜の精霊よ、軟弱すぎやしないか。
折姫が『役立たず』をまばたきにして強い視線を送っていると、白妙が前を塞いだ。
ミカドだ。
「私が運ぶよ」
少々強引だが、軽々と背負い立ち上がる。
その袴の裾が、泥に汚れていた。
「ミカド様も、今までお務めでいらしたのですか」
折姫が遠慮がちに訊ねる。
「ああ。でも失敗だ。カヲルにも負担をかけさせてしまった。……ふたりの時間を邪魔をして、すまない」
それだけ言うと、ミカドはカヲルと共に、芙蓉殿の奥へと消えた。
今日の芙蓉殿は一日じゅう、愉しげな龍笛の音が聞こえるのに、カヲルの姿がない。後宮女人が変わるがわる、大広間を覗いては、お遊戯会のような情景にガッカリとうなだれ消えた。
八つ刻になってもカヲルの残り香すらなく、ついには折姫へ訊ねる、出しゃばりが現れた。
「今日は薫の君はいらっしゃらないのですか。喧嘩でもなさったのかしら?」
「待ちなさい。誰に許可をもらって、女御様に声をかけたのです!」
声を荒げたのは、乳母だ。
毎朝子どもたちのためだけに、熱心に語り合うふたりを見ている乳母は、色眼鏡で物事を見て、噂ばかり先走る女官たちを毛嫌いしていた。
出しゃばりは言う。
「身分を利用して、薫の君を独り占めするような方が、女御様?」
クスクスと、耳障りな笑い声が大広間に轟く。
乳母はわなわなと肩を震わせた。
「なんてことを……!」
「言わせておきなさい」
「折姫様!」
なにかよくないものが、天井に澱んでいる。
きっとそれが、ミカドの集めたいものに違いない。
幸い、御守りの効果か子どもたちには害がないようだ。
折姫は淡々と言った。
「薫の君と春の君は、今朝までお務めでございました。大変お疲れのようで、奥の御帳台で休まれております」
蔑みが、嘆声に変わる。
折姫は知らないが、芙蓉殿には夜伽に上がった女御の側仕えも身体を休めるようにと、奥に御帳台が並んでいる。今では宴に客人を招き入れるくらいで、あとはカヲルが好きに使っていた。
今なら相手をしてくれるかもしれない。
そう思った女官たちが色めき立ち、奥の間へ足を向けようとするが。
折姫の澄んだ声が通る。
「お疲れなのだと、言いましたよね? あなたがたも彼らや乳母を見習って、少しは務めに真摯になってはいかがかしら」
「新参者が、生意気な……!」
内侍司が口出ししようとしたときだ。
大広間へずかずかと、入ってくる男がいた。
「もっともらしいことを言うではないか、のう」
なんだ僧侶かと、みな一斉に扇子を開く。
遅れて折姫と乳母が開くのを見届けると、男は「もっとちゃんと顔を隠して」と、そばで耳打ちをした。
折姫のほうへ身体を屈めたことで、後ろにいた上達部の姿があらわとなる。
今度はみな波のように引き、揃って頭を垂れた。
隣にいた乳母もまた頭を低くしながら、折姫へ耳打ちをする。
「折姫様! 左大臣様と右大臣様です!」
「それって偉い人?」
「ははっ! まあ、あなたが頭を下げる必要はないよ。急ぎの話しがあるようでね、私はあのふたりを起こしてこよう」
そう言うと、男は奥へと消えてしまった。
その間、どうもてなせばと一寸悩んだが、大臣たちが腰を落ち着ける間に戻ってきた。
ふたりの首根っこを掴んで、ずるずると引きずっている。
「お連れしましたので、私はこれで」
男は大臣の前にふたりを突き出すと、また裸足のまま庭を降りて、行ってしまった。
カヲルが頭を上げる。
「あたたた、げ! 右大臣!」
「げ、とはなんだ。叔父上にむかって」
「叔父上?」
扇子のなかでつぶやいたつもりが、聴こえてしまったようだ。
顔は見えないが、大臣ふたりは同時に咳払いをした。
カヲルの隣でまだ眠そうなミカドの声がする。
「こちらの姫君は桜の壺の女御です。折姫、ご挨拶を」
「はじめまして」
シオンにならったように、扇子を置いて深々と頭を垂れた。また扇子を持ち直し、顔を隠す。男に言われなければ気にしなかった、面倒なしきたりである。
「そしてこちらが、左大臣と右大臣。左は桜。右は橘。胸の紋を覚えておくといい」
なるほど、扇子の中骨から覗くと、右大臣の深緋色の袍に浮かぶ、橘の花が見えた。
右大臣は近くにいた御子をつかまえ、優しく訊ねた。
「最近はどうだ。退屈はしていないか」
「折姫様が来てから、毎日すんごく愉しいですよ!」
「ほう。どのように」
「それが、今日はみんなで五月のうたを、弾けるようになりました!」
声をかけずとも御子たちはひとかたまりになると、かき集めた音符を並べ、せーので奏で始めた。
「この曲──」
カヲルは驚いた。
今朝一度吹いただけの曲を、折姫は耳で憶えていたのだ。それを八つ刻には、御子たちが奏でている。
右大臣は手を叩いて称賛した。
「いやぁ、素晴らしい! 女御に御子の相手をさせると聞いたときは、思わず酒を噴き出したものだがな! 出仕は正解だったようだ、なぁ左大臣」
「私は馴れ合うつもりで来た譯ではない」
左大臣の声の調子は重い。
「春の君。いつになったら、鯉の異形を封じられるのです。今朝も御所へ新たな水を引くのに、どれだけ時間がかかったか」
「その件につきましては、誠に申し訳ございません」
「謝るなよ、ミカド。簡単に封じろと仰いますが、先代も手に余らせていたほど強い異形ですよ。昨夜だって、腹を空かせた鯉が牡丹の壺を襲ったのです。ミカドが水を抜かなければ、殿舎ごと女御が啖われていた」
「水を抜き、追いつめたつもりが北池に逃げられたのだろう。情けのない」
「広い北池の水を抜くには時間がかかりますし、何百匹といる鯉に紛れられたらみつけようがありません」
右大臣がカヲルを扇子で指した。
「お前こそ、春の君を庇うなよ。鯉の泳いだ跡から湧いて出た餓鬼を祓うに、ひと晩じゅう走り回っていたのは誰だ?」
「俺ですけど?」
「カヲル、もういいから」
ミカドはふたりへ頭を垂れた。
「昨夜のとおり、水を抜いても逃げ馳せる魚です。ひと所にとどめさせる、巧妙な仕掛けが必要かと。必ずや封じますので、今しばらくご辛抱ください」
「待てないなら、ご自分たちでどうぞー」
「このクソガキ!」
右大臣がカヲルにゲンコツを落とす。
左大臣は深い溜め息のあと、静かに立ち上がった。
「晴れ晴れとした梅雨明けを、お待ちしておりますぞ」
期限はそこまでということだ。
大臣たちと共に、女官たちも一斉に散っていく。
扇子を閉じ、空を見上げれば、陽が茜色に染まっている。カヲルもまた大きな欠伸をこぼし、立ち上がった。
「だりぃ。寝足りないから、寝る。ミカド、あと一刻で起こせ」
「わかった」
残された折姫とミカドの狭間を、掃司が駆け抜けていく。
折姫はぼんやりと考えた。
カヲルがあと一刻というなら、ミカドもまた一刻しか休めないのだ。寝足りないのならば、カヲルと共に御帳台へ向かったはず。寝る以外に休むとなると──。
腹の虫が鳴る。
折姫は帯をさすりながら、ミカドを誘った。
「私たちも、戻りましょう」
桜の壺に膳を運び入れたシオンもまたくたびれ果てており、ガチャガチャと音を立てながら並び終えると「もう喚ばないで!」とひと言残して消えてしまった。
お箸を取りながら、ミカドに問う。
「昨夜はシオンも忙しくしていたのですか」
「ああ。彼がいないと、難しい。日中はなるべく使役しないようにしているけど、しばらくはあなたに不便をかけると思う」
なめらかに言葉にするが、覇気がない。
落としがちな瞼からは、長いまつ毛が御簾のように垂れている。素をさらした彼を初めて見れたようで、折姫は一寸嬉しくなった。
あと務め終わりのご飯が美味しい。
いつものように「お豆おいしい」「魚の焼き加減絶妙!」などと、ひとりごとをつぶやきながら食べ終えると、音をたてずに膝を立てた。
同じように皿をさらえているのに、いつまでも宙に箸を泳がせていたミカドは、ふいに肩をなでられ、飛び上がるように姿勢を正した。
振り返れば、折姫が両肩に手を置いている。
「な、なに」
「肩をお揉みします」
「肩を?」
「お疲れのようなので身体をほぐしたほうが、よろしいかと思って。苦手でしたら、やめますが」
「──お願いします」
ミカドは音を鳴らせて箸を置くと、尚も居住まいを正した。
折姫が指を動かすが、石のように固い。
「えぇ! ミカド様、肩に力を入れていませんか?」
「あ、ああ」
そうか、と力をゆるめると、自然と首が倒れた。
襟足の色っぽさにギョッとする。
だがしかし、今はミカドの疲れをとることに集中せねばならない。
折姫はそう心に決めると、首筋に親指を押しこんだ。
「ふぁ」
「痛かったですか!」
「いや、続けて」
それからミカドはすっかり猫背になってしまった。
はじめは声を押し殺していたが、次第にどうでもよくなって、何度も色香のある溜め息をこぼした。
折姫もまた、ミカドが気持ちよさそうに身体を預けてくるので、自分はマッサージ師なのだと心でつぶやきながら、念入りにほぐしていった。
四半刻は続けただろうか、つりそうな手を離すと、ミカドは恨めしそうに見上げてきた。
「もう、おしまい?」
「は、はい」 ではもう少しと、言えないほどには、腕がパンパンである。
「ありがとう。すごく気持ちよかった」
「それはよかったです」
折姫は達成感を胸に、喉を潤そうと茶碗へ手をのばした。すると、ミカドにその手をつかまれ、強く引き寄せられた。
「え? え?」
だが今度は、鼻をすりむかずに済んだ。
ミカドは折姫を包み込むように、抱きしめた。
折姫は思う。
もしかしてこれは、マッサージのご褒美ではと。
釈然としない気持ちはすぐに、喜びで打ち消された。
嬉しくて泣いてしまいそうだ。
欲張りになって背中へ手をまわすと、ミカドは息が詰まるほど力を強めた。
なにか心で念じるように。
身体が離れると同時に、ミカドは温もりごと消えていた。
*
明け方、ミカドがとぼとぼと春宮御所を目指していると、頭上の空の霞が明け、昼間のように明るくなった。
辺りに火花の雨が散る。
御所御用達の神獣、朱雀だ。
背には主上がのっている。
「よう、務め終わりか」
「そうですが」
「では、私に付き合え」
「ご冗談を。さすがの私も倒れます」
「まあいいから、のれって」
首根っこをつかまれ、無理矢理のせられる。
上背がのびようと、ちいさい頃と扱いは変わらない。
「昨日は散々であったなぁ。お前がいなかったら、今ごろ牡丹の壺は死人で溢れていたというに。みな勝手なものよ」
「しかし逃したことで、より一層不安を募らせる結果となりました」
「不安にさせておけばいい。みな御所の平和に甘えすぎている。我々の陰の努力を知らずにな」
朱雀の首を撫で、羽根を強く羽ばたかせる。
「さあ行くぞ。今日は鬼探しだ」
「鬼探し? 退治ではなく」
「先ほど検非違使から知らせがあってな。谷底へ封じていた罪人が脱獄したようだ。鯉を放った術師はそやつかもしれん。手分けして探すぞ」
ふたりは御所を出て空の旅へ。
されど罪人の気配は煙のようにつかめない。
恨めしくもミカドは眠る暇すらも奪われ、毎日捕物に手伝わされる羽目となる。
以来、芙蓉殿へも姿を現さず、桜の壺で膳を囲うこともなくなった。




