十四折
──ミカド様に会いたい。
折姫がクロにひとりごとを呟かなくなってから、何日経っただろうか。毎日のように膳を囲っているのだ、当然のことだと己れに言い聞かせながらも、鬱然と蔀戸を潜る。
ミカドが八つ刻に芙蓉殿へ向かうのは、寝汚いカヲルを叩き起こすためだ。大広間へ向かい回廊を渡っていると女に声をかけられ、足をとめた。
芙蓉殿の内侍司だ。
「春の君。少しお話しが」
「カヲルのことか。務めが夜になってから、あなたには寂しい思いをさせているね」
「それは理解しているつもりです。ですが、折姫様が──」
扇子のなかで、ミカドの眉がわずかに動く。
「桜の壺の女御が、どうした」
「夜も明けきらぬ早朝から、人目のある大広間で薫の君と逢瀬を重ねているのです。主上に知れたら、問題になるかと。一度春の君から、忠言を」
「忠言、か。私が言っても、耳に逆らうだけではないかな」
「しかし──」
「なあに、なんの話し?」
「薫の君……!」
寝ぼけ眼のカヲルが、ミカドに並ぶ。
少し前なら、内侍司の肩を抱き、身を預けていた。ミカド側に立つときは、目の前の女に関心がなくなった証拠だ。そのことをよく知る内侍司は、顔にかざす扇子を震わせ、逃げるように肩をすれ違わせた。
「罪な男よ」
「俺の話し?」
「女を泣かせ、その自覚もない」
「それはお前も同じだろ。最近、薔薇の壺へ渡るのは姫君たちの送迎だけと聞いているが」
「ああ、そうだな。湯に浸かる暇もない」
「俺も久しぶりに入りたいなぁ。おっ、今日は杏子か!」
果物の籠をもつ女房へ目配せをして、熟れた杏子をさらっていく。
大広間へ着くと、袴の裾スレスレに、白い小人の群れが旗を掲げて行進していった。
「これは──?」
「もう最終章か、残念」
カヲルが隣でわかったようにつぶやく。
喧々たる女たちの声に気づき折姫が振り向くと、真っ先にその名を呼んだ。
「カヲル! 大成功でしたよ!」
大きな瞳が隠れるほどに、笑って。
アスナが興奮した様子でミカドにすがりつく。
「お借りしてたお話し、読み終わったよー! すんごく面白かった」
いつしかアスナがひろげていた巻物だ。絵本は飽きたと大人びたことをいうので、最後まで読めないだろうとは思いつつ、戦記ものを貸し出していた。
大広間を見渡せばわかる。
四歳には難しいその物語を折姫は、折り紙に演劇をさせながら、一日かけて読み終わらせたのだ。
三歳のコトハも退屈していない様子で、敵側の旗を振ってきた。
アスナを抱き上げ、コトハのそばへ下ろす。腰を据えると、折姫の御髪に触れる位置だった。
そっとすくう。
シオンに手入れされた御髪は、御子と遊んだあとも乱れることなくなめらかに板間を彩り、ほのかに桜の香りをさせている。
だが折姫の視線はいつまでもカヲルへ向けられたままだ。
「三章のくだり、読んでいて少し泣いちゃいました」
「だろ? 俺も動いているところ、みたかったなあ。特に六章の描写は、いまいち敵の陣形がわかりにくいし」
「そこはね──。ちょっと! 衣裳に杏子の汁を飛ばさないでくださいよ!」
「すまん。てか、お前その袿しかないの? 俺が仕立てたやつも着ろよ」
「お気に入りなんです! それに、ちゃんと洗ってます!」
ふい、と顔を背け、ミカドと目が合う。
折姫は顔を真っ赤に染めて、扇子のなかへ隠れた。
「……その、大事な衣裳、なので」
そんな折姫をカヲルは切なげに見下ろす。
本人に見えぬところで御髪をすくい、あろうことか顔に近づけた。
扇子が頬に刺さる。
「痛ってぇな、ミカド! 持ち手じゃなかったら流血してたぞ」
「流血しては、折姫の衣裳が汚れるからな」
「ふん、気にするならお前がもっとあつらえてやれよ」
「それは──」
それはできない。
ミカドは衣裳の桜を指でなぞった。
回廊を渡っても目立たぬようにと、ほとんど白に近い糸で縫われている。間近で見るものだけがわかる、希少な桜色の糸だ。
折姫は、貺都ではじめてもらった衣裳だからと、大事に着ている。もう一枚仕立てれば、その重みがなくなり、きっとほかの衣裳にも手を伸ばす。
カヲルが仕立てた衣裳ならば、尚更──。
言葉を濁していると、折姫は慌てて両手を振った。
「ミカド様にもう一枚仕立ててもらうなんて、そんな畏れ多い! 陽のある間に洗ってしまいたいので今日は早めに下がらせていただきます。シオン!」
「私が洗うんですか!?」
コトハを背中にのせながら言う。
「当たり前でしょう! ……それではミカド様、後ほど」
「ああ」
「えー! もう帰ってしまうの?」
「シオリちゃん! うん、また明日ね」
折姫と入れ替わるようにして、入ってきた中宮は、ミカドと膝を突き合わせた。
「聞いたわよ。異形の見張りに毎晩大変なんですってね。それなのに、みんな難色を示しているとか」
「水回りは、個人的な空間が多いですから。それも深夜となるといい顔もできないでしょう」
「襲われたら、食べられてしまうっていうのに? そんなの、都合が良すぎるわ」
「お気遣いは嬉しいのですが、中宮様はあまり気を荒げないほうがよろしいかと」
「なんでよ! ……やっぱり、なにか隠してない? その、帝がどこで寝ているのか、とか」
遠慮がちに訊ねてくる中宮へ、まさか春宮御所で寝ているとは言えない。
また言い淀んでいると、ポンポンと、優しく肩を叩かれた。
「目の下のクマがひどいわよ。美しいお顔が台無し。子どもたちは、今日は白百合殿で寝かせるから。あなたはもう少し休んだら」
「あなたこそ、身体を大事にしなければ」
「だから、なんで? これ以上動かなかったら、太ってしまうわよ」
まるで慣れ親しんだ夫婦のような会話だ。
回廊でとどまったままの衣裳の裾を、ミカドは見落としていた。
芙蓉殿の出仕が始まり、気落ちしていたシオンであったが、日に日に元気を取り戻していた。
今日も足取り軽やかに、出来たての膳をふたりぶん運ぶ。
ミカドはどんなに忙しくしていても、夕膳の刻には健気に、桜の壺へと通った。
月が満ち、欠けるたびに折姫の口数も減っていったが、それでもそばにいた。その時間だけは誰にも奪われぬようにと、続けているようだった。
ミカドの左手には今、カヲルが折姫へあてた手紙が束になって置かれている。
今朝、出仕前にシオンがわざわざ置いた。
姫様ったら大事にとってあるんですよ、と見せびらかすために。
怠惰に片付けていないだけであったが、イタズラには気が利く精霊である。
「女は、身も心も移ろいやすい……か」
「なにか今、仰いましたか」
「いや」
折姫は、ミカドの言葉を拾っても、目は決して合わせない。
まるで、ふたりで居ることに後ろめたさを感じているようだった。
シオンは内心、愉しくてしょうがない。
美しいミカドの顔がもう何日も曇っている。
初日は美味しそうに食べていたご飯も、今では砂を噛んでいるようだ。
「るんるん、今日の果物は夏みかんですが、お出ししますか?」
「私はいいよ」
「では、姫様おひとつどうぞ」
折姫には訊かない。どうせ食べるから。
折姫は無意識に半分に割って、ミカドの席まで腕をのばした。
「はい」
「え」
「は! 失礼しました。私、てっきり……」
「カヲルだと思った?」
悲しげに笑う。
八つ刻、よくふたりで分けているのを見ている。
シオンは両手で口を塞いだ。
笑っちゃうくらい、かわいそう!
「いただくよ」
ミカドは夏みかんを受け取った。
折姫の指に、微かでも触れるために。
「出仕はどう? 愉しめてる?」
「はい。とてもやりがいがあります。御子様たちの笑顔をみると、折り紙が特技でよかったと、そう思えます」
「そう。それなら、よかった。あなたが幸せなら、それで──」
シオンは思う。
夏みかんのように酸っぱいミカドの本心に、折姫はきっと「晒し者にしてるくせに?」などと心のなかでモヤモヤさせている。
「私も愉しめてますよ! 姫様──!」
「うるさい」
「黙れ」
「あっ、陽が沈んだ」
ふたりの主人に叱咤され、その日の使役は終わった。
翌朝はやくに出仕の支度をしていると、一通の手紙が届いた。白百合殿の中宮だ。
シオンが丁寧に御髪を櫛ですいていると、折姫はシオンにも聞こえるように、音読し始めた。
「拝啓、折姫さま。ええと──、おめでた!?」
ここ数日、イライラするなぁと思い典薬寮で調べてもらったところ、懐妊しているという。御所で御子を産むためには、早々に浄めの儀式が必要で、ふた月、遠く離れた御用邸で暮らさなければならない。タイミング悪く、薔薇の壺の女御に紹介できず申し訳ない。そんな内容だった。
「喜ばしいことだけれど……、寂しくなるなぁ」
「せっかく仲良くなれたばかりでしたのにねぇ」
シオンは胸の内で舌打ちした。
姫様は出仕が始まってから、寂しい思いばかりしている。
夕膳を食べに来るミカドに気遣ってか、妖怪のふたりとも行き会えていない。
気落ちしながらも折姫が文机に向かい、中宮と小豆洗い宛に手紙を綴っていると、寝汚いクロが珍しく帳台から顔を出した。
「おはよう。ごめんね、これを書いたらすぐに行かなくちゃ……クロ?」
袿の裾を踏む。
「可愛い。撫でて欲しいの?」
手を出すと、クロは爪を立てた。
折姫の手の甲に、薄らと傷が浮く。
「このネコ……! 姫様に傷を!」
「いいの。シオン、かすり傷よ」
シオンが抱き上げようとするが、腕をすべり落ち、また折姫の袂を踏んだ。
その黒い瞳は、まるで行くなと、命じているようだった。




