十三折
すっきりと目覚めた折姫の隣で、御髪を掛け布団にして黒猫が寝息をたてている。仰向けで歯をむき出しにして、とても憎めない。
「クロ、いってきます」
ソッと頬に口づけると、折姫は出仕の支度を済ませ朝早くから芙蓉殿へ立った。掃司がはたきを持ちやってくるころには、広間いっぱいに折り紙が広がっていた。
男があくびを殺しながらそばへ寄る。カヲルだ。
「今日はまた、大丈夫か?」
「昨日はありがとう。おかげでゆっくり眠れたわ」
「お? おう、顔色は良さそうでなにより」
カヲルは足に当たった折り紙をひとつ手に取ってみた。
「杖?」
「素敵でしょう。振ってみて」
「わお」
星のステッキを振ると、爪の先ほどの小さな星がコロコロと飛び出た。その横を親指ほどの大きさの小人が横断していく。ユニットで折られた山を越えると、その先には様々な恐竜が列を成していた。
「ここは星の国。奥へ行くと恐竜王国があるの。右は動物たちの島。左は雪の城」
「浪漫的だな」
「今日は雨だから、お庭で遊べないでしょう」
「考えたものだな。せっかくだ、手伝おう」
カヲルは腰にぶらさげた巾着から石灰石を取り出すと、板間を黒板にして円を描きはじめた。小気味良いその音に、掃司が背後で肩を落とす。
「それは?」
「魔法陣。雪の城か──、座標は決まりだ」
低い声でぼそりとつぶやく。
すると円のなかが白く染まり、わずかに盛り上がった。
「島の北端に位置する冬の里だ。景観を板間に映した」
「すごい……! 魔法使いみたい!」
「陰陽師な」
さらりと言うが、カヲルの様相はどうみても西洋の魔法使いだ。
靴底のような音を鳴らしていくつもの魔法陣を描いていく。カヲルの織りなす島々は火山に緑、花畑と色とりどりの舞台となり、白い折り紙によく映えた。
子どもたちがやってくるころには、広間いっぱいにひとつの楽園が出来上がった。
「なかなか良い仕上がりだ」
「カヲルも、陰陽師として働いているの」
「貺都で吟遊詩人じゃあ、食ってけないからな」
「貺都も御所のなかも、私には知らないことばかり」
折姫は思った。
日本に居たころは、なにも知らなくてよかった。知りたくもなかった。ただ叱られないよう、言われたことだけをこなし、過ごすだけの毎日。だから、運動もできない。社会も理科もわからない。算数はもっと苦手。音楽と習字が花丸ならそれでいい。ずっとそうして生きてきた。
でも、心を取り戻した今は、もう二度と失いたくない。
シオンを頼らずに自分の足で進みたい。御所の籠のなかならば、少しは自由に生きたっていいはずだ。そのためにたくさん学び、強くあらねば。
「また、こうして力を借りられる?」
「俺は忙しいんだ、高くつくぞ」
「毎日来てるのに」
「最近は日暮れからが、俺の務めだからな。これでも寝る間を惜しんで逢いに来てる」
「その台詞みんなに言ってるの」
「今んとこお前だけだ」
カヲルの目は嘘を言っていない。歯に着せぬ言葉も信じられる。折姫が合わせた目をそらさないので、カヲルが負けた。捨てるほど吐いてきた言葉が、今になって恥ずかしい。
「まあ、またこの時間なら。今日はもう休むよ」
「おやすみなさい」
背伸びをして回廊をまたいでいく、その背中はほんとうに眠たげだ。日暮れからが、ということは今まで働いていたのだろうか。だとしたら、昨日の内侍司の噂話しに信憑性がなくなる。
「いけない、いけない」
折姫は、集まってきた子どもたちといっしょに、念願のごっこ遊びを愉しんだ。国々に名前をつけ、物語を紡いでいく。
その日は雨足が強くなり、縁を濡らす春嵐となったが、大広間の笑い声はたえず賑やかだった。
その日、ミカドとカヲルが肩を並べて現れたのは、ぴったり八つどきだ。何をするでもなく座っていた女官たちが色めき立つ。どこからか運ばれてくる果物は旬のものばかり、ふたりの行先で待っている。なるほど視野を広げれば、ふたりがどれだけ注目を浴びているのか、ひと目でわかった。
カヲルは膳からヤマモモをひとつかみすると、星の国へポツポツと落とした。
「ほれ、鬼の侵略だ。美しい花畑が血まみれになるぞ」
「たとえが非道!」
「急がないと星の民が紅く染まってしまう。手分けして食べるんだ」
「食べ物を粗末にしないの」
「ではお前も協力しろ」
口の前まで持ってこられたので、為方なくつまむ。
「──っ、美味しい!」
「だろ? お行儀よく食べることだけが、食事じゃない。たまには息抜きしろよ」
「うん」
カヲルに笑みを向けると、少し胸が軽くなった気がした。あまり気負いするのもよくないと、心で噛み砕く。
すぐ隣では、コトハが「ミカドにも」と床に落ちたヤマモモを口に運んだ。ヤマモモと同じように鮮やかな紅さの唇に添えられ、あまりの色香に周りがゴクリと息を呑んだ。
「美味しい?」
「美味しいよ、コトハ。……この魔法陣、カヲルか」 語尾が厳しい。
「ああ。寝に帰ったら、すでに折姫が出仕していてな。共に準備した。ふたりっきりで」
語尾を強める。
「カヲルが描いたのなら、己れで消していけよ」
「へい、へい」
「私、手伝う」
「折姫はそろそろお戻りを。まだ具合が優れないのでは」
ミカドの声はよく通る。みなの視線が集まり、断れない。渋々、大広間を出ると、アスナの馬になっていたシオンが追いかけてきた。
「姫さま、私も帰りとうございます」
「今は、ミカド様が主人なのではなくて」
「強制労働ですよう」
「……今日も、ミカド様は夕膳を桜の壺で食べられるの」
「はい。しばらくは」
「そう」
昨日まで弾んでいたはずの胸が、キリキリと痛む。一秒でも長くそばにいたいと思っていたのに。
──晒し者にしている。
折姫は思った。
カヲルと行き会う、今までの偶然は、必然だったのではないだろうか。
自分とカヲルを惹き合わせるために、ミカドが裏で手をまわしていたのでは。
カヲルが桜の壺へやって来た日。
カヲルは結界のなかを、ミカドのようにすんなりと入って来た。前夜に御守りを渡したのは、自らが明日と決めて、招き入れたからでは。
花宴でカヲルは言っていた。
「お待ちしておりましたぞ」と、わざわざ女御たちに聞こえる声で。そのあとも、帳台のなかでふたりきりになるなんて、おかしな話しだ。
事前に計画されていたのではないだろうか。
桜の壺の女御が、御所の花であるカヲルとふたり、仲睦まじくすることを。
ではなぜ、ミカドは毎日のように、桜の壺で夕膳を食べていくのか。
ミカドは、『折姫の好意』が誰に向けられているのか、知っている。
胸をときめかせ、肩を並べているのを、わかって座っているのだ。
一日晒し者になったご褒美に、膳を囲ってやっているのだとでもいうのか。
考えれば考えるほど、卑屈になっていく。
「姫様……?」
「シオン、手伝ってくれる?」
目を合わせると恨んでしまいそうで、今はひどく怖かった。
*
ミカドが桜の壺へ渡ると、しょう油の焦げた匂いがツンと鼻の奥をついた。
「この香りは──」
「あ、ミカド様。ちょうど良いところに」
折姫が火鉢でみたらしを煮詰めていた。手もとには白玉団子が列をなしている。
「折姫が作ったのか」
「はい。よかったら、召し上がってください」
折姫は団子をあつあつのみたらしにくぐらせると、皿にのせてミカドの膝頭へ突き出した。
いつか、ミカドに食べてもらいたい。
そう思いながら毎日のように試作を重ねたお団子だ。まさか目を合わせたくないという理由で出すことになろうとは、悲しい結末だが。
ミカドはためらいもなく口へ運んだ。
「あつっ」
「大丈夫ですか!」
「いや、うん。──ははっ、すごく美味しいよ!」
折姫は、火傷を心配してさっそく目を合わせてしまった。
ミカドは花が咲いたように笑っている。
「……それは、よかったです」
「もうひとついい? 夕膳、食べられなくなるかな」
「シオンにはご飯を少なめにと、伝えております」
「では、おかわりをくださいな」
ネコのように口の端についたたれを拭う。舌が血のように紅く、はっとさせられる。
昂ぶる心臓をおさえこみ、折姫は訊ねた。
「桜の壺で振る舞えるのは、お団子くらいで……お酒も出せません。その、ミカド様が毎日こちらで召し上がるのには、何か譯がおありですか」
「……そう。気を遣わせていたのなら、謝るよ」
次にはしゅん、とイヌのようにしおれる。
「そういった意味では、ありません。お団子は私が好きで作ったものですので、お気になさらないでください。ただ、譯を知りたくて」
「譯、か。一寸でいい。心に安らぎが欲しい。それだけでは、理由にならない?」
「ほんとうに、それだけですか……?」
今欲しいのは、抽象的な甘い囁きじゃない。
シオンが御膳を運び入れたので、折姫は庭へ肩を向け座りなおした。卯月も半分過ぎたというのに、桜は花をつけ直し、爛漫としている。
ミカドは桜の木を串で示した。
「理由が他にあるとすれば、シオンだ」
「串でなんて、お行儀の悪い」
「じゃあ、こっち」
シオンに串の先を向ける。
「もっと、嫌な感じします!」
庭の桜が、不愉快そうにザワザワと揺れる。
「お察しのとおり、シオンはこの庭桜の精霊でね。私が子どものころからの付き合いなんだ」
「子どものころ。……では」
「そう。桜の壺は、私の故郷だよ。だから、肩の荷を下ろせる」
ミカドは身体ごと、折姫へ向き直った。
「でも今は、あなたが主人だ。何度でも言うよ。迷惑ならもう、来ない」
折姫はミカドの視線から逃れられず、また目を合わせてしまった。ミカドのほうがよっぽど恨めしい目で見据えてくる。なんて罪な方だろう。断れるはずがない。
折姫はぶんぶん、首を横に振った。
「よかった。……ところで、ご飯は少なめと伝えたのだよね?」
「はい。もしかして、多かったですか」
「そうだね、少し。……いや、結構? これで太ったらあなたに責任をとってもらうよ」
ミカドはまたあどけなく笑った。
それでもどこか不信に思ってしまう、自分に最も、嫌悪感を抱いた。
ミカドが好きだ。
でも、すべてを愛せない。
それが今日の答えだった。




