十一折
花宴から一週間。
時がゆるりと流れる桜の壺だが、その日は早朝から忙しない。
主上の詔により、折姫は芙蓉殿へ出仕することになったのだ。
紫宸殿から目の行き届く芙蓉殿の大広間は日中、主上の御子たちの遊び場にされている。その大広間で、乳母の手伝いをするというのが、今回の務めだ。
折姫は外へ出られるのが嬉しくて朝から小躍りしていたが、シオンはピリピリとしていた。
──芙蓉殿。
数十年前までは、夜御殿であった殿舎だ。
夜御殿とは、主上の御寝所。
陽暮れになると、指名された女御が提灯をもって渡殿を渡り、夜伽へ向かう。
女御たちにとって、一日一番の晴れ舞台。
美しさを競い合ううちに、まるで毎夜が、嫁入りのように華やかに彩られた。
その風習が廃れた現代でも、未だ強い印象を残している。
ただでさえ主上の中宮への寵愛が長く続き、放置されている女御達。新参の折姫が芙蓉殿へ昼日中から上るとなると、妬まれるのは明らかだ。
ひとつ、ふたつの嫌がらせは覚悟しなければならない。
「私が必ずや、姫さまをお護りいたしますゆえ」
「その約束、今までに実現したことあって?」
「姫さまぁ!」
シオンに嫌がらせをしていると手前の御簾が沙、と上がった。
ミカドだ。
「ご準備は整いましたか」
「はい」
「では、こちらへ」
ミカドが上げた御簾を潜る。従うままに回廊を渡り角を曲がると、蔀戸がすべて下ろされた、見慣れぬ局が現れた。
「この局は芙蓉殿へ通じるよう、術をかけました。日中ならばいつでも往き来できますよ。但し、あちらから桜の壺へ戻れるのは私以外に折姫とシオンのみ。この仕掛けは他言せぬように」
「はい」
便利だが、毎日ミカドの送り迎えがあるかもしれないと期待をしていた折姫はしゅんと萎れた。
「出仕は気乗りしませんか」
「いえ、とんでもありません」
「初日は不安でしょうから、今日一日私も従いますので」
「ミカド様が……?」
折姫の顔がぱぁあっ、と華やいでいく。
後ろに控えるシオンはあからさまな主人の態度にむぅ、と膨れっ面になった。
部屋の蔀戸を開けると、すぐに芙蓉殿の回廊へと続いていた。桜の壺の三倍はある長い廊下に面する大広間には、側仕えのほかにも女官が等間隔に控えている。庇の下ではお手玉や鞠が散らばり、庭には厳めしい風貌の近衛兵が並んで立っているが、その前で乳母が三人と、十名足らずの御子が追いかけっこをしていた。
ミカドが乳母を呼ぶ。
「こちらは桜の壺の女御だ。詔により、御子のお相手をすることになった」
「はじめまして、折姫と申します。決まりごとなどありましたら、ご教示ください。よろしくお願いします」
深々と頭を下げたのだが、「女御さまに教示など畏れ多い」と、波のようにひいていく。ミカドに助けを求めたが、
「彼女たちもすぐには慣れないよ。あなたは好きにすればいい」
と言って、縁に腰を落ち着けてしまった。
好きにしてよいならと、まずは姫君の姿を探した。アスナだ。
アスナは部屋の隅っこで巻物を読んでいた。折姫に気付いて小さくなったが、そばへ寄ると彼女から会釈した。折姫が膝を落として視線を合わせると、目に涙をためながら、言った。
「ごめんなさい」
「私も。昨日は大切な簪を取ったりして、ごめんなさい」
「でも……折姫さま、今日つけてない」
「うん。でもそれは、アスナ様のお母様と約束したから」
「母上と?」
「そう。つけていないのは、約束を守っているだけ。友だちだから」
ためた涙をこぼれさせ、破顔する彼女を優しく撫でる。
「今日はね、ちいさな贈り物があるの」
折姫は袂から紙束を取り出した。
名札に折った折り紙だ。束のなかから名前を探しみつけると、アスナへ差し出した。
「はい、どうぞ」
「待って」
折姫の手首を強く握り、名札を受け取ったのはミカドだった。
「ミ、ミカドさま」
「これは──。これも折っただけ?」
「はい。いけませんでしたでしょうか」
「いや、……問題ない。すまない、奪ってしまったな。アスナ、私がつけよう」
「ではおねがい」
アスナはミカドの膝に飛び移ると、小さな胸をはった。襟もとに名札を差し込まれると、満足げに「ありがとう」と、ミカドの頬に口づける。
「あ」 折姫は、思わず声に出してしまった。
アスナは嬉しそうにミカドの首に手を回した。
折姫は単純に羨んだ。
ミカドに手首をつかまれたときは心臓が飛び出そうになったが、今は仲の良いふたりに妬けてしまう。中宮の御子の名前を呼び捨てるということは、よほど普段から親しくしている間柄なのだ。
ミカドはアスナを横抱きにすると、折姫へ訊ねた。
「この名札はコトハにもある?」
「は、はい。他にも、憶えている御子さまの名前は、書いてきました」
「どれ。見せて」
折姫が名札をすべて板場に広げると、ミカドはひとつひとつ手にとってみた。
「なるほど。名札そのものが厄除けになっているのか。名は本人が認識できればいいから、平仮名は正解だ」
「あの、……ミカド様?」
「折姫、あなたには驚かされてばかりだ」
ミカドはアスナを抱いたまま、庭に出ている御子たちを呼んだ。
驚いたのは折姫のほうだ。
ミカドのひと声で、遊んでいた子どもたちが全員、板間に集まった。一列にと言うと、直線に並ぶ。コトハだけは「私も」と、ミカドの背中に飛びつき、一番に名札をねだった。
ミカドがひとつひとつ、名札に書かれた名前を呼び、襟もとに差していく。
「畏れ入った。名札は全員ぶんあったよ。憶えていた折姫には感服するが、御子であるお前たちが揃いも揃って押しかけていたのかと思うと頭が痛いな」
「えー! でも、ひとりぶん足りないよ」
コトハが頭を出して言う。
「そうだ、そうだ!」
大きな子どもが最後尾で手を上げている。カヲルだ。
ミカドと折姫は同時に溜め息を吐いた。
折姫がカヲルに名札を折っている間、ミカドはまた縁に腰を据えた。乳母を集め、なにか話し込んでいる。時折、乳母から折姫へ向けられる視線は、まるで奇々怪界に出くわしたように怯えていた。
カヲルに訊ねる。
「私がお化け屋敷の住人だからですか」
「恐ろしいのは、桜の壺の女御に侍ること。そしてこの芙蓉殿そのものだ」
「私と芙蓉殿?」
カヲルは意地悪く、芙蓉殿に巣くう呪について語り始めた。
「芙蓉殿は、主上の夜御殿だ。一昔前までは、主上に呼ばれた女御が芙蓉殿へ上がり、寝所を共にしていた。だがある時、芙蓉殿へ上がった女御が翌朝には寝所から消えてしまう事件が立て続けに起きた。近衛兵が探せば、必ず庭の池から死骸が上がったという。その池ってやつが、此処よ。
ついに寵妃を亡くした主上は嘆き悲しみ、池を土で埋めると、自らが後宮へ下る風習へ変えた。いまや夜御殿も名ばかりで、芙蓉殿は夜になると人っ子ひとりいなくなる。この何十年で芙蓉殿へ上がった女御は、お前だけだろうよ」
「なるほど」
折姫は対して怖がりもせず、またミカドのほうへ目をやった。
陰陽師であるミカドが女御の折姫に従う理由は、芙蓉殿の呪いにあるのかもしれない。ミカドは乳母を退けると、今度は庭で遊んでいたシオンと話し始めた。
「ミカドが、そんなに気になるか」
「え!? いや、その……」
「ふん、つまらん」
カヲルは横柄に胡座をかくと、腰から笛を抜き、おもむろに奏で始めた。
竹に漆が塗られたその細い横笛の音色は低い音から高い音の間を縦横無尽に駆け抜け、舞い立ち昇る龍の鳴き声のようだ。
誰しもが手を口を休め、その旋律へ耳を傾ける。
一方、縁に座るミカドもまた秘かに目を瞑り、今日は一段と熱が籠っているなと、しばし聞き惚れた。
その瞼は直ぐに開けられ、身ごと振り返ることになるのだが。
美しい笛の音に、甘い歌声が重なった。
流麗とはいえないが音階は正しく、耳に心地好く響く。歌人が奏でる澄んだ声音ではなく、柔らかい水のような、しめりのある歌声だ。
カヲルは季節に準じ、サクラの唄を吹いていた。聞き覚えのある旋律が懐かしく、歌い始めたのが折姫である。
人懐っこいその歌声に誘われ、子どもたちも口ずさんでいく。一曲が終わるころには、広間に轟くほどの大合唱となった。
「凄い、カヲル! 本当に吟遊詩人だったのね!」
「い、いや、あのだな」
折姫の目を自身に向けさせようと吹いた笛なのだが、あっさり主役は折姫に奪われたように思える。だが悪い気分でもなく、続けて折姫の手遊び唄に笛を合わせていった。
優しい歌声。美しい笛音。
手拍子に笑い声。
なんとも賑やかで幸福に満ちた時間が流れていく。
「楽しいな」
隣でぼそり、呟くカヲルへ折姫はにっこりと笑い返す。
「はい」
そんなふたりを、何人もの貴人が恨めしげに眺めているとは知らずに。
*
陽の入り前。まだ空が生焼けのころから御子の側仕えたちが、慌ただしく帰り支度を始めた。乳母は遊び道具をかき集め、掃司が拭き掃除に取りかかる。カヲルもまた役の刻だと言って消えてしまった。
帰ろうにもシオンの姿がみつからず、困っていると、アスナとコトハを白百合殿へ送り届けていた、ミカドが戻ってきた。
「お待たせしました。我々も桜の壺へ帰りましょう」
「送ってくださるのですか。ありがとうございます」
「直ぐそこですがね」
そうだった。
芙蓉殿の回廊を左へ曲がり、蔀戸を上げれば桜の壺。自身の足で帰れたのだ。ミカドを待っていたようで恥ずかしい。
折姫は扇子を広げ、顔を隠しながらミカドを追った。
扇子のなかのネコはというと、ゴロゴロと身悶えしている。背中を虫にでも刺されたのだろうか。
顔を上げると、ミカドもまた扇子のなかを覗き込んでいた。
「吉か凶か。これではわからないな」
額のあたる距離だ。
折姫は、息をとめた。
「もし。突き当たりに来ましたよ」
ミカドは平然としている。
折姫は思いきり顔をそらし、息を整えた。きっとミカドは、普段から女性との距離が近いのだと、言い聞かせながら蔀戸に手をかけた。
「さあ、あなたから。手のひらをあてるように。必ず日暮れ前に蔀戸を上げてください」
「はい」
恐る恐る、潜る。
桜の花に映る西日の眩しさに安堵した。
自身の住処だと思えるようになったようだ。
振り返り、深々と頭を下げる。
「ミカド様、今日一日ありがとうございました」
「おや、酒の一杯もいただけませんか」
「え!?」
「私は日暮れの後が忙しい。此処で食べていってもいいかな」
折姫は返答できなかった。嬉しすぎて言葉が出ない。
「あなたに断られても、シオンには既に頼んでしまったけどね」
シオンへ話していたのは、夕膳のことだったのか。波打つ心臓をおさえながら折姫はミカドをどうもてなすべきか、考えあぐねた。果物はもちろん、朝に食べてしまっている。今日に限ってはお団子も切らしているし、酒などもってのほか。突っ立ったままひとり混乱していると、ミカドは陽当たりの残る縁に座り、折り紙を広げた。
「もっとも、今日はあなたに話しておくことがある。おいで」
「はい」
「まずは、なにか動物を折ってもらえるかな」
「どうぶつ、ですか」
「たとえば元気な犬。しおらしいネコ」
折姫はミカドと膝を合わせて座ると、さっそく折り始めた。ミカドがその細い指先をみつめながら、言う。
「……迷惑だった?」
「そんなことは!」
断じて、ない!
心底、喜んでいるが緊張で言葉がつむげない。笑おうとすると顔がひきつるので、口をへの字にしめる。どうにか想いが伝わらないかと力強く折っていると、折り終わりに折り紙が、尻尾をふりだした。
「きゃあ!」
犬の折り紙は折姫の手をはねのけると、四つの足で起き上がり、ミカド一直線に向かって行った。何をするかと思えば膝の上に飛び乗り、尻尾がちぎれそうなほど回転させて、それをくるくる追いかけている。まるで折姫の今の頭のなかだ。
ミカドが自身の扇子をひろげた。肩が笑っている。
「続けて」
わけもわからず、次にネコを折る。ネコは大人しい様子だったが、折姫の手を離れるとすぐにミカドの肩に飛び乗った。扇子を足継ぎに、頬に口づける。
「あ」
「ふふ、可愛いな」
ミカドがお返しとばかりにネコに口づけると、ひらひらと床に落ちてしまった。動きをとめたかと思ったがそのままゴロゴロと身を打ち悶えている。
まるで自分のことのようで、恥ずかしくて目も当てられない。
「うう。ミカド様、わざとですか!?」
折姫の気持ちを知りながら、動かしているのなら少々悪趣味だ。
「いや、私は何もしていないよ」
「でも、何もせず折り紙が勝手に動くなんておかしいです。ミカド様が呪いをかけたのでは?」
代弁させるように。
興奮した様子の折姫を前に、ミカドは扇子を閉じ、床へ置いた。現れたのは、重々しい表情だ。
「折姫、あなたには折り紙に命をふきこむ力がある。それはどういう譯か、陽の昇る間だけだ」
「私が、ですか?」
「元気な、と思うとそのままの性格に。その人を思い遣り名札を折れば、厄除けになる。この力は危険だ。裏を返せば、脅威にもなり得る。凶暴な獣を折れば、あなたの折った折り紙は御所を暴れ回るだろう」
「そんな──」 とても信じられない。
「折るときには、気をつけて。特に子どもたちの前ではね」
信じたくないが、現に折ったしりから動き出し、犬に限っては今もミカドのそばで走り回っている。ネコはというと、ミカドの手のなかで気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「出仕中に鍛錬するといい。なにかあっても、近くに近衛兵がいるから。使いようによっては、子どもたちも喜ぶよ」
「ですが、危険ならばもう、折らないほうがよいのでは」
「そう? 私は嬉しかったけど」
ミカドは胡座をかくと、膝をポンと打った。
「どうぞ」
「はい?」
「私の膝にのりたかったのでは」
「そんな滅相もない──」
折姫が膝を立てると、そのまま腰を引き寄せ、膝にのせた。
「……あとは。ネコは、何をしていた?」
「そ、そ、そんな、私にはとても無理です」
「では、私が」
「えっ」
頬に口づけるつもりだった。
折姫が反射的に、ミカドの言葉に正対してしまった。
まあ、ミカドはその偶然たる機会を逃す男ではない。
触れるだけのキスだった。
「これは困ったな」
「何がお困りで」
シオンが手をふるわせながら、ふたりぶんの膳を運び入れた。
「お前の主人が動かなくなってしまった」
「ミカド様は罪なことをなさる。いち舎人として、とても許せませんね」
「許すもなにも、私には逆らえんだろ」
「ええそうですよ。ですから姫さまに、いつかその化けの皮をはがしてもらいます」
「それは楽しみだ。ところで今日の夕膳はずいぶんと茶色いな」
「姫さまのご要望ですので」
「折姫が、ぜんぶ食べるのか。これを?」
折姫はしずしずとミカドから降りると、顔を真っ赤にしながらも膳の前に座った。久方ぶりの外出に、腹が減っている。胸がいっぱいとか、もはや関係のないことだ。
壮美な姿勢に箸運び、口もとも気品にあふれているのにほんとうに平らげていくものだから、ミカドは笑いをこらえながら食べなくてはならなかった。




