アイリシアの朝
名前のない星は、アイリシアという名を取り戻しました。
歌。
涙。
約束。
三つの記憶が重なり、星はようやく自分を思い出します。
夜が明けた時、アイリシアの塔にも、新しい朝が訪れます。
夜が明ける前、アイリシアの塔は静かだった。
星門は閉じていた。
けれど、完全に消えたわけではない。
塔の頂上には、輪の形をした淡い光が残っている。
そこから細い光が空へ伸び、青白い星へ繋がっていた。
アイリシア。
もう名前のない星ではない。
ユノは塔の頂上で目を覚ました。
いつ眠ったのか覚えていない。
星門の儀式が終わり、緊張がほどけたあと、五人は塔の頂上で休むことになった。
ミアは記憶灯を抱えたまま眠っている。
カイは木剣を枕のようにしている。
リゼは星図を胸に抱き、壁にもたれて眠っている。
エルネは約束の箱を膝に置いたまま、空を見上げていた。
眠っていないようだった。
「エルネ」
ユノが呼ぶと、彼女は振り向いた。
「起こしましたか?」
「いや。眠れなかった?」
「少しだけ眠りました。でも、星を見ていたくて」
ユノも空を見上げた。
夜明け前の空に、アイリシアが光っている。
青白いけれど、昨日までの寒い光ではない。
澄んだ水のような光だった。
「綺麗だな」
「はい」
エルネの声は震えていた。
「ずっと、あの星の声が寂しそうで怖かったんです。でも今は……名前で呼べる」
彼女は胸に手を当てた。
「アイリシア」
星が瞬いた。
返事のように。
エルネの目から涙が落ちた。
「本当に、いるんですね」
ユノは頷いた。
「ああ。いる」
その言葉は、旅の中で何度も使ってきた。
でも、今朝は少し違う響きがあった。
星にも、いると答えられる。
名前があるから。
やがて東の空が白み始めた。
朝が来る。
リリアの歌の言葉が、自然とユノの胸に浮かんだ。
朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
アイリシアの上にも、朝が来た。
名前を取り戻した星の朝。
それは静かで、優しかった。
最初に起きたのはミアだった。
彼女は目をこすり、空を見上げて、すぐに笑った。
「まだいる」
ユノが言う。
「いる」
ミアは記憶灯を確認した。
灯りの中には、星の歌が残っている。
昨日より長く、安定した旋律になっていた。
ミアはそっと口ずさむ。
五音だった歌が、今はもう少し続いている。
言葉はまだない。
でも、アイリシアの名に繋がる響きがあった。
エルネがその旋律に声を重ねる。
不思議なことに、彼女は自然と続きを知っていた。
アリナから受け継いだ記憶なのかもしれない。
ミアは驚いて言った。
「エルネ、歌えるの?」
「分かりません。でも、口が覚えているみたいで」
リゼも目を覚まし、その歌を聞いていた。
「星約守りの血が、星の歌を覚えていたのね」
エルネは自分の声に驚きながら、もう一度歌った。
アイリシアの星が、朝の空で淡く光る。
カイも起き出した。
「朝からすごいな……」
そして空を見上げ、にっと笑う。
「アイリシア」
星が瞬く。
カイは満足そうに頷いた。
「よし。ちゃんと返事した」
ミアが笑う。
「星にも確認するんだ」
「大事だろ」
リゼは星門の跡を調べ始めた。
光の輪は昨日よりずっと安定している。
塔の壁にも、新しい文字が浮かんでいた。
――アイリシアの塔。
――歌を守り、涙を抱き、約束を繋ぐ塔。
リゼはその文字を丁寧に記録した。
「塔の役目も戻ったようね」
ユノが聞く。
「もう危険はない?」
「すぐに崩れる危険はないわ。ただ、塔の中にはまだ空白の額がたくさんある。アイリシアの名が戻ったことで安定したけれど、他の失われた星名も眠っている可能性がある」
ミアが小さく息を呑む。
「また仕事が増えた」
カイが空を見上げる。
「でも、一気にやらない」
ユノは頷いた。
「一つずつ」
エルネは塔の中央へ進んだ。
約束の箱を胸に抱え、星門の跡の前に立つ。
「私は、ここに残るべきでしょうか」
その言葉に、ユノたちは彼女を見た。
エルネは続けた。
「アイリシアの名は戻りました。でも、この塔にはまだ空白がある。星門も残っている。星約守りとして、誰かがここを見守る必要があると思います」
ミアは少し寂しそうな顔をした。
「一緒にルグナへ行かないの?」
エルネは迷うように目を伏せた。
「行きたいです。ルグナの星灯坑も見たい。リリアの歌も、みんなで歌ってみたい。でも……私の家と、この塔を繋ぐ役目を、誰かが始めなければいけない気がするんです」
リゼは静かに頷いた。
「それが、あなたの星約守りとしての役目かもしれないわ」
カイが言う。
「でも、一人でずっとここにいるのは駄目だぞ」
エルネが驚く。
「駄目……ですか?」
「駄目。俺もネリオを守るって決めたけど、ルグナにも戻る。守る場所があるからって、一人で閉じこもるのは違うと思う」
その言葉に、エルネは目を丸くした。
ユノも頷いた。
「カイの言う通りだと思う。エルネはここを守る。でも、ルグナにも来る。星灯坑とアイリシアの塔を繋げばいい」
ミアの顔が明るくなる。
「そうだよ! 星灯坑と塔を、手紙みたいに繋げないかな。ルナエルに送ったみたいに」
リゼは少し考えた。
「可能性はあるわ。星灯坑は地の名を支える場所。アイリシアの塔は空の名を支える場所。直接繋ぐには準備が必要だけれど、記録のやり取りはできるかもしれない」
エルネの表情に、少し光が戻った。
「では、私はここを守りながら、ルグナとも繋がれる?」
「ええ」
リゼは言った。
「一人で守るのではなく、繋がって守る。それが新しい星約守りの形になるかもしれない」
エルネは約束の箱を抱きしめた。
「一人で守らなくていい……」
その言葉を、何度も確かめるように呟いた。
アイリシアの星が、朝の空でやさしく光った。
――エルネ。
――一人じゃない。
エルネは空を見上げる。
「アイリシア……」
星の声は、全員に聞こえていた。
――アリナも、約束を一人で始めた。
――でも、約束は続いた。
――エルネ。
――あなたは、続き。
エルネは涙を流した。
ミアがそっと肩に手を置く。
カイも照れくさそうに言った。
「続きって、いいな」
ユノもそう思った。
名前は、戻って終わりではない。
約束も同じだ。
誰かから誰かへ続いていく。
アリナからエルネへ。
エルネから、これからの誰かへ。
朝食は、塔の麓で取った。
黒麦亭の女将が持たせてくれたパンと干し肉。
カイが大事に運んでいた保存食。
ミアが湖の水を沸かした温かいお茶。
エルネは最初、遠慮していた。
けれどカイが言った。
「守る者は食べる」
ミアが続ける。
「星約守りも食べる」
ユノも。
「名前を守るには、腹が減ってたら無理」
エルネは小さく笑い、パンを受け取った。
「いただきます」
その食卓は、塔の影の下にあった。
でも、暗くなかった。
アイリシアの朝の光が、五人を照らしていた。
食後、リゼは塔の記録を整えた。
アイリシアの本名。
三つの記憶。
アリナの約束。
エルネの継承。
星門の状態。
塔内に残る空白の額。
すべてを書き留める。
ミアは星の歌を記憶灯へ安定させた。
涙の石は、一部を小さな青い欠片として分けることになった。
大きな石は塔に残す。
ルグナへ持ち帰るのは、小さな欠片だけ。
エルネは約束の箱を塔の中央に置き、アリナの手形の写しを持つことにした。
「本体は、ここに置きます。アイリシアの塔の中心に」
彼女はそう言った。
カイが聞く。
「じゃあ、エルネは一回ルグナに来る?」
エルネは頷いた。
「はい。星灯坑を見て、繋ぐ方法を学びたいです。その後、私はこの塔と谷の家を行き来します」
ミアが嬉しそうに笑う。
「じゃあ一緒に帰ろう」
帰る。
その言葉に、ユノは胸が温かくなった。
東の果てへの旅は、帰り道を持っている。
ルグナへ戻れる。
そのことが、どれほど大切か、旅を重ねるほど分かるようになった。
出発前、五人は塔の頂上へもう一度上がった。
星門は静かに閉じている。
空には、朝の薄い光の中でもアイリシアが見えた。
エルネが前へ出る。
「アイリシア」
星が応える。
――エルネ。
「私は、約束を継ぎます。でも、一人で抱えません。ルグナの星灯坑と繋ぎます。ユノたちと、名前を守る人たちと、一緒に」
星はやさしく光った。
――約束。
エルネは微笑んだ。
「約束」
ユノも言った。
「アイリシア」
――ユノ。
「ルグナに戻ったら、君の名前を星灯坑にも記録する」
――うれしい。
ミアも。
「歌も持って帰るね」
――ミア。
――歌、ありがとう。
カイも。
「忘れるなよ。自分の名前」
――カイ。
――忘れそうになったら、呼んで。
カイは胸を張った。
「任せろ」
リゼも。
「あなたの星図を作ります。正しく、急がず、偽らず」
――リゼ。
――ありがとう。
アイリシアは、一人ひとりの名前を呼んだ。
呼び返してくれた。
それが、昨日まで名前のなかった星だと思うと、ユノは胸がいっぱいになった。
塔を降りる時、空白の額のいくつかに小さな光が灯っていた。
まだ名前ではない。
でも、完全な空白でもない。
アイリシアの名が戻ったことで、他の空白たちも待てるようになったのかもしれない。
ユノはその額に向かって言った。
「また来る」
ミアも。
「急がないけど、忘れない」
カイも。
「ちゃんと順番に呼ぶから」
リゼは記録帳に印をつけた。
エルネは塔の壁に手を置き、静かに祈った。
外へ出ると、朝はすっかり明るくなっていた。
アイリシアの塔は、もう名を持たぬ塔ではない。
色のない影ではなく、青白い光をまとった塔だった。
ユノたちは振り返り、その名を呼んだ。
「アイリシアの塔」
塔が静かに光った。
そして、空の星も。
帰り道、エルネは何度も自分の名前を確認した。
「エルネ」
ミアが答える。
「いるよ」
「アイリシア」
空の星が瞬く。
「アリナ」
約束の箱の写しが光る。
「ユノ」
ユノが笑う。
「いる」
カイが言った。
「名前確認、いいね」
リゼが微笑む。
「大切な習慣よ」
ミアが歌を口ずさむ。
リリアの歌と、アイリシアの歌が、少しだけ混ざる。
朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
そして、アイリシアの星の旋律。
その二つが重なった時、道の白い石が淡く光った。
帰り道は、来た時よりはっきりしていた。
約束石の道。
三音の村。
青石の湖。
アイリシアの塔。
仮の名もまだある。
でも、いくつかは本当の名へ近づき始めている。
ユノは胸元の星灯炭に触れた。
ルグナの方角が、温かい。
「帰ろう」
ユノが言う。
ミアが頷く。
「うん。アイリシアの名前を持って」
カイも。
「セレノにも教えないと」
リゼも。
「星灯坑に記録しなければ」
エルネは少し緊張した顔で言った。
「ルグナ……私、行ってもいいんですよね」
ユノは笑った。
「もちろん」
ミアも。
「歓迎されるよ」
カイも。
「スープあるし」
リゼが静かに付け加える。
「名前を守る町だから」
エルネは目を潤ませ、頷いた。
「はい」
空にはアイリシア。
地には帰る道。
胸には歌と涙と約束。
ユノたちは、アイリシアの朝を背に、ルグナへ向かって歩き始めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
アイリシアは、名を取り戻した朝を迎えました。
エルネは星約守りとして、アイリシアの塔とルグナの星灯坑を繋ぐ新しい役目を見つけます。
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ユノたちはアイリシアの名と星の歌を携えて、ルグナへ帰ります。




