星門の夜
第三の夜が来ます。
歌。
涙。
約束。
三つの記憶を携え、ユノたちは名を持たぬ塔へ戻りました。
星門の向こうでは、名前のない星が待っています。
このページでは、星の本当の名を呼ぶための儀式が始まります。
名を持たぬ塔は、夕暮れの中で静かに立っていた。
最初に見た時より、輪郭は少しはっきりしている。
けれど、それでもまだ不安定だった。
塔と呼んでいいのか。
柱と呼ぶべきなのか。
星の影なのか。
地上に落ちた空の欠片なのか。
誰にも断言できない。
ただ、その頂上に星門があることだけは分かっていた。
ユノたちは塔の麓に立った。
ユノは涙の石を抱えている。
ミアは星の歌を宿した記憶灯を持っている。
エルネはアリナの手形と約束の箱を胸に抱いている。
リゼは儀式図を記した星図を持ち、カイは木剣を握っている。
空には、青白い星が浮かんでいた。
その星は、以前より大きく見えた。
近づいているのか。
星門が開きかけているせいなのか。
星は震えていた。
――歌。
――涙。
――約束。
――持ってきてくれた。
ユノは塔を見上げて答えた。
「ああ。今度は本当の名前を探す」
――怖い。
「俺たちも怖い」
カイが続ける。
「でも来た」
ミアも。
「一緒に思い出そう」
エルネは空を見上げ、震える声で言った。
「アリナの約束を継いで、来ました」
星は、小さく瞬いた。
――エルネ。
――覚えている。
エルネの目に涙が浮かぶ。
自分の名前を星が覚えている。
それは、星約守りとしての彼女にとって、どれほど大きなことだろう。
リゼが静かに言った。
「行きましょう。第三の夜が始まる前に、星門へ」
塔の中へ入る。
空白の額が並ぶ階段は、前より静かだった。
以前は、無数の声が名前を求めていた。
今も声はある。
けれど、叫びではなく、待つ声になっていた。
――本当の名。
――探して。
――間違えないで。
ユノはそれらへ答えるように、心の中で言った。
急がない。
勝手に呼ばない。
でも、忘れない。
階段を上る途中、カイが何度も周りを見た。
「前より、ネリオの声がしない」
ミアが言う。
「塔が誘うのをやめたのかな」
リゼは首を振る。
「完全には違うわ。でも、三つの記憶が揃ったことで、塔の空白が少し落ち着いているのかもしれない」
エルネは壁の空白の額を見つめていた。
「この塔にある空白にも、いつか名前が戻るんでしょうか」
リゼは静かに答えた。
「戻す必要があるでしょうね。でも、まずは名前のない星から」
ユノは頷いた。
一つずつ。
星灯坑で学んだことだ。
全部を一度に抱えようとすれば、名も人も壊れる。
今は、目の前の星を呼ぶ。
頂上へ着いた時、夜が始まっていた。
空は深い藍色。
星門は青白く光り、輪の内側で空間が揺れている。
門の向こうには、名前のない星。
近い。
手を伸ばせば触れられそうなほど近い。
でも、まだ遠い。
星門の周囲には、古い星文字が浮かんでいた。
歌、涙、約束が近づいたことで、消えていた文字が戻り始めているのだ。
リゼは星図を広げ、門の前に立った。
「儀式を始めるわ」
ミアが記憶灯を門の左へ置く。
灯りの中で、五音の星の歌が揺れる。
ユノは涙の石を門の右へ置く。
青い石は、夜の空気に触れると静かに涙をこぼした。
エルネは約束の箱を中央へ置いた。
アリナの手形が青白く輝く。
カイは三つを囲むように立ち、木剣を胸に当てた。
「俺は名前を呼ぶ役?」
リゼが頷く。
「ええ。ただし、星の本名が現れるまで呼ばない。今は、三つの記憶を呼ぶ」
カイは深く頷いた。
「分かった」
ユノは星灯りの剣を出した。
剣は、いつもより細く、静かに光っている。
斬るためではなく、絡まった空白をほどくために。
リゼが魔法陣を展開する。
星門の床に、円形の光が広がった。
「まず、歌」
ミアが記憶灯に触れた。
五音の旋律が流れる。
高く、低く、また高く。
長く伸びる音。
消えそうな低い音。
その音が星門へ入っていく。
名前のない星が震えた。
――歌。
――私の歌。
――まだ、続きがある。
ミアは目を閉じ、記憶灯から流れる旋律に耳を澄ませる。
すると、星門の向こうから、失われていた続きの音が返ってきた。
低く。
高く。
静かに降りる音。
最後に、誰かの名前を呼ぶ前のような余韻。
ミアの目から涙が落ちた。
「歌が……戻ってる」
リゼが記録する。
「歌の記憶、接続」
次に、涙。
ユノが青い石に手を置いた。
石は冷たかった。
だが、以前のように沈ませる冷たさではない。
泣くことを許された冷たさ。
星門の向こうで、青白い星が小さく揺れた。
――涙。
――私は泣きたかった。
――名前がなくても、悲しかった。
ユノは頷いた。
「泣いていい」
ミアも。
「泣いていいよ」
カイも。
「泣け。俺たち聞くから」
エルネも、涙をこぼしながら言った。
「アリナも、きっとそう言います」
青い石から、一筋の水が流れた。
その水は星門の円へ流れ込み、門の輪を青く染めた。
星は泣いた。
声はなかった。
けれど、夜空に青い雨が降った。
頂上にいる五人の頬にも、冷たい雫が触れた。
涙の記憶が戻る。
リゼが言う。
「涙の記憶、接続」
最後に、約束。
エルネは透明な箱を開いた。
中の青白い糸がほどけ、アリナの手形が浮かび上がる。
小さな手。
星へ向かって伸ばされた手。
エルネは震える声で呼んだ。
「アリナ」
星門が大きく震えた。
ユノも呼ぶ。
「アリナ」
ミアも。
「アリナ」
カイも。
「アリナ」
リゼも。
「アリナ」
青白い光の中に、少女の影が現れた。
アリナ。
星と約束を交わした少女。
彼女は微笑んでいた。
けれど、その姿は薄い。
記憶として残った影。
エルネは泣きながら膝をついた。
「アリナ……私は、エルネです。あなたの約束を継いでいます」
アリナの影は、エルネへ手を伸ばした。
声は聞こえない。
でも、唇が動いた。
ありがとう。
エルネは首を振った。
「私、忘れていました。あなたの名前も、約束も、全部分からなくなっていました」
アリナの影は、また微笑んだ。
そして、星門の向こうの青白い星を指差した。
リゼが静かに言う。
「約束の言葉を」
エルネは涙を拭い、立ち上がった。
そして、はっきり言った。
「友だちだから」
星門の光が強くなる。
ユノたちも続けた。
「友だちだから」
アリナの影が、星へ向かって手を伸ばす。
青白い星が震えた。
――アリナ。
――約束。
――友だち。
エルネは続ける。
「あなたが自分の名前を忘れても、私は忘れない。私の子どもも、そのまた子どもも、守る。そう約束した」
星の光が大きく揺れる。
――私は、あなたの名を覚えると約束した。
――地上の小さな友だち。
――アリナ。
アリナの影が静かに頷く。
約束の記憶が、星へ戻っていく。
リゼが声を震わせた。
「約束の記憶、接続」
三つの記憶が揃った。
歌。
涙。
約束。
星門が大きく開き始める。
だが、それは暴走ではなかった。
ゆっくりと、星が自分自身へ戻るための開き方だった。
リゼが叫ぶ。
「ここからが本番よ! 星自身が名を思い出す。私たちは、間違った名が割り込まないよう支える!」
その瞬間、塔の中から無数の空白の声が溢れた。
――私を呼んで。
――その名を私に。
――星の名がほしい。
――空へ戻りたい。
空白たちが、星の名が現れる瞬間に群がっている。
ミアが記憶灯を抱きしめる。
「来る!」
ユノは星灯りの剣を構えた。
カイは木剣を握り、エルネの前に立つ。
リゼは魔法陣を強く広げる。
星門の向こうから、一つの音が聞こえた。
星の本名の最初の音。
けれど、それに別の空白が絡みつこうとする。
ユノは剣を振った。
空白の糸を斬る。
「これは違う!」
また別の声が来る。
――青い星。
――涙の星。
――寒い星。
――名なし星。
どれも近い。
でも違う。
特徴を呼ぶ名は、本名ではない。
ユノは歯を食いしばる。
「違う!」
剣で斬る。
ミアが星の歌を歌う。
カイが叫ぶ。
「まだ呼ぶな! 本当の名前まで待て!」
エルネはアリナの手形を胸に抱き、必死に約束の言葉を繰り返す。
「友だちだから。友だちだから。友だちだから」
青白い星が震える。
――私は……
――私は……
名前が近づく。
だが、星門の上空に黒い影が現れた。
名前を求める空白が集まってできた影。
それは、星喰いの王とは違う。
名を欲しがるものたちの飢えだった。
リゼが叫ぶ。
「名飢えの影! 星の本名を奪おうとしている!」
カイが木剣を構える。
「木剣で斬れる?」
「斬るんじゃなくて、守って!」
カイは頷き、エルネと約束の箱の前に立った。
「ここは通さない!」
影が押し寄せる。
ミアの記憶灯が強く光り、歌が響く。
リリアの歌も、星の歌に重なる。
――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
ルグナの歌。
三音の村の歌。
星の歌。
それらが混ざり、星門を支える。
ユノは影の糸を斬り続けた。
腕が痛い。
名前を欲しがる声が耳元で囁く。
――ユノ。
――君が名をくれれば終わる。
――優しい名をつけて。
――その星を救って。
ユノは叫んだ。
「勝手に救わない!」
剣が銀色に輝いた。
影が一瞬退く。
ユノは星へ向かって叫んだ。
「思い出せ! 誰かにもらうんじゃない! 君の中にある名前を!」
青白い星が大きく震えた。
歌が流れる。
涙が光る。
約束が結ばれる。
アリナの影が、星へ手を伸ばす。
エルネも同じように手を伸ばした。
「思い出して! アリナが守った名前を!」
星の声が、初めて強く響いた。
――私は。
――歌を持っていた。
――涙を落とした。
――約束を交わした。
――アリナの友だち。
――空へ戻る星。
――私の名は――
その瞬間、星門が白く爆ぜた。
名前が現れる。
けれど、まだ音にならない。
リゼが叫ぶ。
「全員、呼ぶ準備を! 見えた名を、同時に!」
星文字が空中に浮かぶ。
古い文字。
読めないはずの文字。
だが、三つの記憶がそれを音に変えていく。
ユノの喉に、自然とその名が上がってきた。
ミアも目を見開く。
カイも。
リゼも。
エルネも。
五人は同時に、その名を呼んだ。
「アイリシア!」
青白い星が、眩しく輝いた。
名前が戻った。
アイリシア。
歌を持つ星。
涙を取り戻した星。
アリナと約束した星。
星門の向こうで、星は震えながら光を放った。
名飢えの影が叫び声を上げ、星の本名の光に焼かれて散っていく。
空白の額たちも、静かになった。
アイリシアの光が塔全体へ広がる。
名を持たぬ塔の壁に、文字が浮かび上がった。
――アイリシアの塔。
塔にも名が戻った。
リゼが涙を流しながら呟く。
「塔の名も……」
ミアが笑いながら泣いた。
「アイリシア……綺麗な名前」
カイが木剣を下ろし、息を吐いた。
「やっと呼べた」
エルネは空を見上げ、両手で口元を押さえている。
「アイリシア……」
星が答えた。
――エルネ。
――ユノ。
――ミア。
――リゼ。
――カイ。
――アリナ。
――覚えている。
アリナの影が、星の光に包まれて薄れていく。
エルネが叫ぶ。
「アリナ!」
影は微笑んだ。
そして、エルネの胸に手を当てるような仕草をした。
約束は、あなたに続いている。
そう言っているようだった。
アリナの影は、星の光へ溶けた。
エルネは泣き崩れた。
ミアがそっと支える。
ユノは星門を見上げた。
アイリシアの星は、もう寒そうではなかった。
まだ弱い。
完全に空へ戻るには時間がかかるのだろう。
でも、名前がある。
呼べる名がある。
それだけで、星は自分を保てる。
リゼが言った。
「星門は閉じていく」
門の輪がゆっくり光を弱めていく。
アイリシアの声が届く。
――ありがとう。
――今度は、言える。
――ありがとう。
ユノは静かに答えた。
「どういたしまして」
カイも。
「忘れるなよ、自分の名前」
ミアも。
「また歌うね」
リゼも。
「星図に記録します」
エルネは涙の中で言った。
「私は、これからも約束を守ります。アイリシア」
星は大きく瞬いた。
――友だちだから。
その言葉を最後に、星門は静かに閉じた。
夜空には、青白い星が一つ、確かな名を持って輝いていた。
アイリシア。
第三の夜は、恐ろしい夜ではなくなった。
名前が戻った夜になった。
ユノは星灯りの剣を消し、深く息を吐いた。
長い緊張がほどけ、膝が少し震える。
ミアが笑う。
「また無茶した」
「今回はみんなも無茶しただろ」
カイが頷く。
「した」
リゼが疲れた顔で言う。
「ええ。全員、休むべきね」
エルネは空を見上げたまま、小さく繰り返した。
「アイリシア」
星は、静かに瞬いた。
返事のように。
アイリシアの塔の頂上で、五人はしばらくその星を見上げていた。
誰も急いで降りようとはしなかった。
名前を正しく呼べた後の静けさを、胸に刻むために。
空には星。
地には塔。
その間に、人の声がある。
名前は、戻った。
けれど、この旅が終わったわけではない。
塔の中には、まだ空白の額が残っている。
地上には、まだ戻らない名がある。
星にも、きっとまだ失われた名がある。
それでも今夜は、ひとつの星が自分を思い出した。
それだけで、十分だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第三の夜、星門での儀式により、名前のない星の本当の名が戻りました。
その名は、アイリシア。
名を持たぬ塔も“アイリシアの塔”として名を取り戻します。
次のページは『アイリシアの朝』です。
名を取り戻した星と、エルネの新しい役目が描かれます。




