泣けなかった星の涙
三つの記憶のうち、一つ目の“歌”は見つかりました。
次に探すのは、涙。
水底に沈む青い石。
泣けなかった星の涙。
ユノたちは南の湖へ向かいます。
そこには、星が名前を失った時に落とした、冷たい悲しみが眠っていました。
三音の村を離れてから、道は南へ折れた。
地図には、薄く湖の印が残っている。
けれど、名前は読めなかった。
リゼが何度も目を凝らしても、文字は霧のようにほどけてしまう。
「湖の名も、塔に吸われているわね」
ミアが記憶灯を抱え直した。
「また仮の名前、必要かな」
カイが少し考えた。
「青石の湖」
ユノは頷いた。
「青石の湖」
ミアも続ける。
「青石の湖」
リゼが地図に書き込む。
――仮名。青石の湖。正式名未確認。星涙石の可能性あり。
その文字を書いた瞬間、地図の湖の輪郭が少しだけ濃くなった。
仮の名は、また道を繋いだ。
南へ進むにつれ、空気は湿り気を帯びていった。
草原の匂いが薄れ、水の気配が近づく。
やがて、木々の間から静かな湖が見えた。
湖面は青かった。
空を映しているのではない。
空は曇っているのに、湖だけが青く光っている。
その青は美しいというより、どこか寂しかった。
泣きたいのに泣けないまま、長く冷えてしまった涙の色。
ユノは湖畔に立ち、息を呑んだ。
「ここか」
ミアの記憶灯が小さく震える。
リゼが湖面を見つめた。
「強い星涙石の気配がある。水底ね」
カイが湖を覗き込む。
「潜るの?」
ミアはすぐに首を横に振った。
「深そうだよ。普通に潜ったら危ない」
リゼも頷いた。
「水そのものが記憶を持っている。無理に入れば、星の悲しみに引き込まれるかもしれない」
ユノは湖面に映る自分の顔を見た。
その顔が一瞬、知らない誰かの顔に変わった気がした。
泣いていない顔。
泣けなかった顔。
胸の奥が冷える。
――涙。
――落とした。
――でも、泣けなかった。
名前のない星の声が、湖の底から響いた。
ミアが小さく震える。
「今の……」
リゼが頷く。
「星の涙の記憶ね」
ユノは湖へ向かって言った。
「探しに来た」
湖面が静かに波打つ。
――泣けなかった。
――名前が消えた時、泣き方も忘れた。
――だから、涙だけが落ちた。
カイが唇を噛んだ。
「泣き方を忘れるって……」
ユノはルナエルを思い出した。
王名に縛られ、空白に飢えた存在。
名前を失うとは、感情の形まで失うことなのかもしれない。
リゼは湖畔に魔法陣を描き始めた。
「水底へ直接入らず、涙の石だけを呼び上げる方法を試すわ」
ミアが記憶灯を置く。
「歌も使う?」
「ええ。歌と涙は繋がっている。三音の村で得た星の歌を使えば、涙が反応するかもしれない」
ミアは記憶灯を両手で持ち、五音の旋律を口ずさんだ。
高く、低く、また高く。
長く伸びる音。
消えそうな低い音。
湖面が震えた。
水の底に、青い光が一つ灯る。
カイが声を上げた。
「見えた!」
ユノも見た。
湖の底に、青い石が沈んでいる。
小さな石ではない。
人の両手ほどの大きさがあり、星の欠片のように光っている。
だが、その周りに黒い水草のような影が絡みついていた。
リゼが険しい顔になる。
「涙が封じられている」
「誰が?」
ミアが聞く。
リゼは首を振った。
「分からない。けれど、星が泣くことを止めた何か……あるいは、泣けなかった記憶そのものが鎖になっている」
ユノは星灯りの剣を呼び出した。
「斬れる?」
「水の中に剣を届かせる必要があるわ」
カイが言った。
「俺、湖に入る」
ミアがすぐに止める。
「駄目! 引き込まれるかもって言ったでしょ」
カイは歯を食いしばる。
「でも、誰かが近づかないと」
ユノは湖を見た。
青い石は、ただ沈んでいるだけではない。
泣きたいと訴えているようだった。
ユノは胸の星灯炭に触れた。
「俺が行く」
ミアが顔を上げる。
「ユノも駄目」
「でも、星灯りの剣は俺しか使えない」
リゼが真剣な声で言った。
「入るなら、名前を繋ぎ続ける必要がある。水に入った瞬間、湖はあなたの悲しみを引き出すわ。自分の名前を見失う危険がある」
ユノは頷いた。
「みんなが呼んでくれ」
ミアは不安そうに唇を噛んだ。
カイも拳を握る。
リゼはしばらくユノを見つめ、それから静かに頷いた。
「分かった。ただし、少しでも危険なら引き戻す」
「うん」
ユノは靴を脱ぎ、湖へ足を入れた。
冷たい。
ただの冷たさではない。
胸の奥の悲しみを直接触られるような冷たさだった。
一歩。
また一歩。
水が膝まで来る。
湖面が青く光り、ユノの周りに記憶の影が浮かび始めた。
父が門で見送る姿。
ミアが泣きそうに名前を呼ぶ声。
星喰いの王の空白。
ルナエルの涙。
カイがネリオの栗の木の下で泣いた姿。
リリアの墓標。
悲しみばかりが浮かぶ。
湖は、ユノの中の涙を探っている。
――泣け。
――泣けば、沈む。
――沈めば、忘れられる。
湖の声がする。
ユノの足が止まった。
涙が出そうになる。
悲しくてではない。
悲しみが多すぎて、身体がどうしていいか分からなくなる。
その時、岸から声がした。
「ユノ!」
ミア。
「ユノ!」
カイ。
「ユノ!」
リゼ。
「ユノ、いる?」
ユノは震えながら答えた。
「いる」
名前が戻る。
ユノはさらに進んだ。
水が腰まで来る。
青い石はまだ遠い。
湖の底から、名前のない星の声がする。
――私は泣けなかった。
――泣きたかった。
――でも、名前がなかった。
――誰として泣けばいいのか、分からなかった。
ユノは胸が締めつけられた。
「名前がなくても、悲しかったんだろ」
――悲しかった。
――でも、悲しいと言う名もなかった。
ユノは剣を強く握った。
「今、呼ぶ。涙って呼ぶ。君の本当の名前じゃない。でも、これは涙だ。消していいものじゃない」
湖が大きく揺れた。
リゼが岸で叫ぶ。
「ユノ、慎重に! 感情に名を与えるのは大丈夫。でも星本体に名を与えないで!」
「分かってる!」
ユノは星灯りの剣を水中へ向けた。
剣の光が水を裂き、青い石へ伸びる。
黒い水草の影が絡みつく。
それは泣けなかった記憶の鎖だった。
ユノは剣を振る。
一本目を斬る。
湖面が爆ぜた。
ユノの胸に、言えなかった悲しみが流れ込む。
名前を失った星の孤独。
呼ばれない時間。
空で輝きながら、誰にも自分だと分かってもらえない寒さ。
ユノは膝をつきそうになった。
「ユノ!」
カイが叫ぶ。
「戻れ!」
ミアが記憶灯を掲げ、五音の星の歌を歌う。
リゼが魔法陣で水の流れを抑える。
ユノは歯を食いしばった。
「まだ……!」
もう一本。
さらに一本。
黒い影が切れるたび、青い石が明るくなる。
湖の声が変わった。
――痛い。
――でも、温かい。
――これは、涙?
ユノは答えた。
「そうだ。泣けなかった君の涙だ」
最後の鎖が残った。
それは石の中心に深く食い込んでいる。
ユノが剣を振り上げた瞬間、湖面に幻が映った。
名前のない星が、人の形をして立っている。
青白い髪。
透明な瞳。
泣けない顔。
その影が言った。
――斬ったら、涙が戻る。
――でも、涙が戻ったら、悲しみも戻る。
――私は耐えられる?
ユノは静かに答えた。
「一人なら耐えられないかもしれない」
影が震える。
「でも、一人じゃない。俺たちが聞く。ルグナにも伝える。星の泉にも伝える。君が泣いたことを、なかったことにしない」
影の瞳が揺れた。
――泣いても、いい?
ユノは頷いた。
「いい」
その瞬間、岸からミアが叫んだ。
「泣いていいよ!」
カイも。
「泣けよ! 名前が戻るまで、俺たちが呼ぶから!」
リゼも。
「涙は、名を壊すものではないわ。名へ戻るための水よ」
青白い影が、初めて顔を歪めた。
涙はまだ出ない。
でも、泣こうとしていた。
ユノは最後の鎖を斬った。
青い石が水底から浮かび上がった。
湖全体が光る。
星の涙が、長い時間を越えて水面へ上がってくる。
ユノの手に、青い石が触れた。
冷たい。
でも、もう死んだ冷たさではなかった。
泣いたあとの手のような冷たさだった。
湖面に、一滴の水が落ちた。
空からではない。
石からだった。
青い石が、涙を流した。
湖の上に、静かな雨のような光が降る。
名前のない星の声がした。
――涙。
――私の涙。
――戻った。
ユノは青い石を抱え、水の中から岸へ戻ろうとした。
だが、足が動かない。
湖がまだ彼を離さない。
悲しみが重い。
ミアが叫ぶ。
「ユノ!」
カイが湖に飛び込みかける。
リゼが止めながら魔法陣を広げる。
ユノは青い石を抱えたまま、沈みかけた。
その時、胸元の星灯炭が光った。
ルグナの火。
父の声が、遠くから聞こえた気がした。
――ユノ。
ユノは息を吸う。
「いる」
その返事と同時に、足が動いた。
ミアとカイが岸から手を伸ばす。
ユノは二人の手を掴み、ようやく湖から引き上げられた。
岸に倒れ込む。
冷たい水が身体から滴る。
ミアが泣きそうな顔で怒った。
「無茶しすぎ!」
「ごめん」
カイも怒っていた。
「ほんとに沈むかと思った!」
「ごめん」
リゼはユノの額に手を当て、魔力を確認した。
「名前は安定している。でも、悲しみの記憶を強く受けている。今日は休むべきね」
ユノは頷いた。
「うん」
青い石は、ユノの隣で静かに光っていた。
ミアが記憶灯を近づける。
石の中に、五音の星の歌が映る。
歌と涙が、繋がった。
リゼが息を吐く。
「二つ目の記憶、涙。確保できたわ」
カイが石を見つめる。
「泣けなかった星の涙……」
ユノは青い石に触れた。
石の中から、名前のない星の声がかすかに聞こえる。
――ありがとう、はまだ怖い。
――でも、涙は戻った。
――寒さが、少し溶けた。
ミアが優しく言った。
「よかった」
星は静かに答えた。
――まだ、名前はない。
ユノは頷いた。
「分かってる。次を探す」
――三つ目。
――思い出せそう。
――歌と涙が戻ったから、少しだけ。
リゼが身を乗り出す。
「三つ目は何?」
青い石が揺れた。
星の声が途切れ途切れに響く。
――約束。
――誰かと交わした。
――空へ戻る前に。
――忘れないで、と。
ユノたちは顔を見合わせた。
歌。
涙。
約束。
三つ目の記憶は、約束だった。
カイが小さく言った。
「約束なら、誰か相手がいる」
リゼは頷いた。
「その相手を探す必要があるわ」
ミアが記憶灯を見る。
歌の光と涙の青が混ざり、ひとすじの光が北東を指している。
「次の道、出てる」
ユノは身体を起こそうとして、ミアに止められた。
「今日は駄目」
「でも」
「今日は駄目」
カイも頷く。
「守る者命令」
リゼも。
「休みなさい」
ユノは諦めて、青い石のそばに横になった。
湖の夜は静かだった。
でも、もうただ寂しいだけではなかった。
水面には青い光が揺れ、金属管の五音が記憶灯の中でかすかに響いている。
歌と涙。
二つの記憶が揃った。
残るは、約束。
名前のない星の本当の名へ、確かに近づいている。
ユノは目を閉じた。
夢の中で、青白い星が初めて泣いていた。
その涙は、空へ落ちず、地上の湖に静かに沈んでいた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、二つ目の記憶“涙”が見つかりました。
水底に沈んでいた青い石は、名前のない星が泣けなかった時に落とした涙でした。
歌と涙が揃ったことで、三つ目の記憶が“約束”だと分かります。
次のページは『忘れられた約束』です。
星が誰と交わした約束なのか、その相手を探す旅が始まります。




