三つの記憶
名前のない星は、三つの記憶を失っていました。
歌。
涙。
そして、まだ分からない最後の一つ。
本当の名前で呼ぶためには、その欠片を地上から探し出さなければなりません。
このページでは、ユノたちが星門の塔を降り、三つの記憶を探すための手がかりを辿り始めます。
塔を降りる階段は、上ってきた時よりも長く感じられた。
青白い星の声は、もう直接呼びかけてこない。
けれど、消えたわけではなかった。
胸の奥に、冷たい小さな光が残っている。
――待つ。
名前のない星は、そう言った。
ユノはその言葉を何度も思い返していた。
待つことは、簡単ではない。
名前がないまま待つことは、もっと苦しい。
でも、急いで間違った名前を与えることはできない。
星は三つの記憶を失っていた。
歌。
涙。
そして、まだ分からない最後の一つ。
その三つを探し出さなければ、本当の名には辿り着けない。
ミアは記憶灯を抱えながら、階段の壁に触れた。
「歌と涙って、どこにあるんだろう」
カイが答える。
「歌なら、リリアの歌みたいに誰かが覚えてるのかな」
リゼは首を横に振った。
「たぶん違うわ。リリアの歌は消された名を呼ぶ歌。星の記憶の歌は、その星自身が持っていた旋律のはず」
「星にも歌があるの?」
カイが聞く。
「ええ。昔の星詠みの記録では、星はそれぞれ固有の響きを持つとされていた。星名は文字だけでなく、音でもある」
ユノは階段の先を見た。
「じゃあ、その星の歌を探す必要があるのか」
「そうなるわ」
ミアが少し顔を曇らせる。
「涙は星涙石かな」
「可能性は高いわ。星が名を失う時、涙として地上に落ちた欠片かもしれない」
カイが木剣を握り直した。
「最後の一つは?」
リゼは黙った。
その沈黙が答えだった。
まだ分からない。
塔の中段まで降りた時、空白の額が並ぶ広間に戻った。
来る時は、無数の声が名前を求めていた場所だ。
今も、かすかな声が聞こえる。
――呼んで。
――選んで。
――空白は寒い。
けれど、さっきよりは弱い。
リリアの歌で、星門が少し鎮まったからかもしれない。
ユノは足を止めた。
壁の額の一つが、淡く光っている。
そこには、空白の中にかすかな波模様のようなものが浮かんでいた。
「これ……」
ミアが近づく。
記憶灯を向けると、光の中から短い旋律が漏れた。
ほんの三音。
高く、低く、また高く。
まるで、誰かが名前を呼びかける前に息を吸ったような音だった。
リゼが目を見開く。
「星の歌の欠片かもしれない」
ユノは息を呑んだ。
「ここにあったのか?」
「全部ではないわ。ほんの欠片。でも手がかりになる」
ミアは記憶灯をそっと近づけた。
「写せるかな」
音は逃げるように揺れた。
ミアは焦らず、リリアの歌を小さく口ずさむ。
――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
すると、三音の旋律は少し落ち着いた。
記憶灯の火に、青白い小さな音の光が宿った。
カイが感心したように言う。
「ミア、すごい」
「まだ欠片だけだよ」
ミアは慎重に答えた。
「でも、これが歌の方向を教えてくれるかも」
リゼが地図を広げた。
記憶灯の中の三音が、東ではなく南東へ反応している。
「歌の欠片は、南東にある」
ユノは頷いた。
「まず歌から探そう」
塔を出ると、空は夕暮れだった。
青白い星は、まだ昼と夜の間に浮かんでいる。
名を持たぬ塔の周囲では、地図の文字が薄れ続けていた。
リゼは塔そのものにも仮名を書き込んだ。
――名を持たぬ塔。仮名。正式名未確認。
ミアが塔を振り返る。
「早く本当の名前を見つけたいね」
カイが頷く。
「でも、急がない」
ユノも言った。
「急がない。でも止まらない」
四人は塔の麓を離れ、南東へ向かった。
記憶灯の三音は、時々小さく鳴った。
その音が鳴る方へ進む。
道はない。
草原と白い石の丘が続いている。
リゼは歩きながら説明した。
「星が名を失う時、記憶は一つの場所に落ちるとは限らない。歌は音の残りやすい場所へ。涙は石や水のある場所へ。最後の一つは、その星が最も大切にしていたものの近くへ落ちる」
ミアが聞く。
「星が大切にしていたものって?」
「それが分かれば、三つ目も分かるはず」
カイが空を見ないようにしながら言った。
「星にも大切なものがあるんだな」
ユノは青白い気配を背中に感じた。
「あると思う。名前がほしいって言うくらいだから」
日が沈む前に、小さな廃村跡へ着いた。
家の形はほとんど残っていない。
石の土台だけが草に埋もれている。
だが、村の中央に不思議なものがあった。
円形の舞台。
石で作られた小さな広場。
その周囲に、割れた鐘ではなく、細い金属管がいくつも吊るされている。
風が吹くと、かすかな音が鳴った。
高く、低く、また高く。
記憶灯の三音と同じだった。
ミアが息を呑む。
「ここだ」
リゼが舞台の周りを調べる。
「音を記録する村だったのかもしれない。星の歌を祭る場所……でも、村の名が消えている」
カイが周囲を見た。
「また仮名?」
ユノは舞台を見つめた。
名前をつけることの怖さを忘れないようにしながら、言った。
「三音の村」
ミアが繰り返す。
「三音の村」
カイも。
「三音の村」
リゼが地図へ記す。
――仮名。三音の村。正式名未確認。
その瞬間、吊るされた金属管が一斉に鳴った。
高く。
低く。
また高く。
舞台の中央に、青白い光が浮かぶ。
それは歌の欠片だった。
けれど、近づくとすぐにほどけそうになる。
ユノは足を止めた。
「どうすればいい?」
リゼが言う。
「無理に掴まないで。ミア、記憶灯で支えて。カイ、名前を呼び続けて。ユノは忘却の糸があれば切って」
カイがすぐに呼ぶ。
「三音の村」
ミアが記憶灯を掲げる。
リゼが魔法陣を描く。
ユノは星灯りの剣を出し、舞台の下に絡む黒い糸を見つけた。
糸は細い。
だが、音を縛っている。
ユノは慎重に斬った。
金属管が鳴る。
三音だけだった旋律に、さらに二音が加わった。
高く、低く、また高く。
そして、長く伸びる音。
最後に、消えそうな低い音。
ミアの記憶灯の中で、星の歌が少しだけ長くなった。
「取れた……!」
ミアが声を弾ませる。
だが、その直後、舞台の周囲の空気が冷えた。
青白い星の声が届く。
――歌。
――それは、私の?
ユノは空を見上げそうになり、踏みとどまった。
「まだ欠片だ」
――歌って。
ミアが記憶灯を見た。
「歌ってもいいの?」
リゼは慎重に答えた。
「少しだけなら。星を落ち着かせるために」
ミアは、記憶灯に宿った五音の旋律を口ずさんだ。
言葉はない。
ただ音だけ。
すると、遠くの青白い星が小さく震えた。
悲しそうに。
懐かしそうに。
――知ってる。
――でも、足りない。
声はそう言った。
ユノは答えた。
「探す。続きを」
――ありがとう、とはまだ言えない。
――でも、寒さが少し弱くなった。
その言い方がルナエルに似ていて、ユノは少し胸が痛んだ。
名前のない星も、ありがとうと言うことすら怖いのかもしれない。
夜は三音の村で過ごすことになった。
金属管が風に鳴るたび、星の歌の欠片が聞こえる。
ミアは何度も旋律を確かめ、記憶灯に安定させた。
カイは舞台の周囲を歩きながら、仮の名を呼び続けた。
「三音の村」
リゼは古い石板を調べていた。
そこには、かすかな文字が残っていた。
――星が落とした歌を、朝まで吊るす。
――風が覚え、村が覚え、子が覚える。
――名を呼ぶ時、歌を忘れるな。
ユノはそれを聞いて思った。
この村は、星の歌を守っていた。
だから、名前を失っても音だけは残ったのだ。
食事のあと、カイがふと聞いた。
「三つ目って、もしかして“子”?」
リゼが顔を上げる。
「どうして?」
「今の石板に、風が覚え、村が覚え、子が覚えるってあっただろ。歌は見つかった。涙は星涙石っぽい。最後が子どもとか、誰かに覚えられた記憶って可能性ない?」
リゼはしばらく黙った。
ミアが目を丸くする。
「カイ、すごい」
カイは少し照れた。
「思っただけ」
リゼは真剣に頷いた。
「あり得るわ。星の名は、誰かに受け継がれて初めて安定する。三つ目は“継ぐ者”かもしれない」
ユノは青白い夜空を見ないように、舞台の火を見つめた。
「継ぐ者……」
どこにいるのだろう。
この村は廃れている。
星の歌を覚えた子どもたちは、もういないのか。
それとも、その子孫がどこかにいるのか。
ミアが記憶灯を見ながら言った。
「星の歌を覚えてる人を探すってこと?」
リゼは頷いた。
「可能性は高い。でも、まだ確定ではない」
夜更け、ユノは舞台のそばで目を覚ました。
金属管が鳴っている。
風はない。
なのに鳴っている。
高く、低く、また高く。
その音に混ざって、子どもの声が聞こえた。
――ほしのうた。
――わすれない。
――でも、なまえはまだない。
ユノは身体を起こした。
舞台の中央に、小さな影が立っている。
子どもの影。
顔は見えない。
「君は?」
ユノが聞くと、影は首を傾げた。
――わからない。
――でも、うたはしってる。
ユノはミアたちを起こそうとした。
しかし影は、消えそうな声で言った。
――南の水へ。
――星の涙が沈む場所へ。
――そこで、歌は涙を思い出す。
ユノは息を呑んだ。
「涙の場所?」
影は頷いた。
――水底の青い石。
――泣けなかった星の涙。
そこで影は薄れていった。
「待って!」
ユノが手を伸ばす。
影は最後に、五音の旋律を口ずさんだ。
そして消えた。
翌朝、ユノがその話をすると、リゼは地図を広げた。
「南に水場がある。古い湖。地図では名が薄れているけれど、星涙石の記録がある」
ミアが記憶灯を抱えた。
「歌の次は涙だね」
カイが頷く。
「南の水へ」
ユノは三音の村を振り返った。
仮の名で呼んだ村。
星の歌を少しだけ守っていた場所。
いつか本当の名前も戻したい。
でも今は、先へ進む。
ユノたちは出発前、村の舞台で五音の旋律をもう一度歌った。
言葉のない星の歌。
すると、金属管が静かに鳴った。
見送りのようだった。
「三音の村」
ユノが呼ぶ。
「また来る」
ミアも。
「歌、預かるね」
カイも。
「本当の名前も探すから」
リゼが地図に印をつける。
「正式名未確認。星の歌の欠片あり」
四人は南へ向かった。
次に探すのは、涙。
水底の青い石。
泣けなかった星の涙。
名前のない星の本当の名へ向かう道は、少しずつ形を持ち始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、三つの記憶のうち最初の“歌”の欠片が見つかりました。
三音の村に残っていた星の旋律。
そして、子どもの影が示した次の手がかり。
次のページは『泣けなかった星の涙』です。
ユノたちは南の水底に沈む青い石を探します。




