名前のない星
東の空に、青白い星が浮かんでいました。
その星には、まだ名前がありません。
呼んでほしい。
見つけてほしい。
忘れないでほしい。
けれど、間違った名前で呼べば、星は別のものになってしまうかもしれません。
このページでは、ユノたちが“名前のない星”の声を聞きます。
東の果てへ近づくほど、世界は静かになっていった。
鳥の声が少ない。
風の音も薄い。
草の揺れる音さえ、途中で名前を忘れたように途切れる。
ユノたちは、丘の上から見えた“名を持たぬ塔”を目指して歩いていた。
塔は遠くにあるはずなのに、ずっと同じ距離に見えた。
近づいているのか。
それとも、塔の方が距離という名前を失っているのか。
誰にも分からなかった。
ミアは記憶灯を胸に抱えたまま、小さく言った。
「変な感じ。歩いてるのに、歩いた分が残らないみたい」
カイが足元を見る。
「足跡、あるぞ」
確かに土の上には足跡があった。
けれど、振り返るとすぐに薄くなる。
リゼが地図を開いた。
「道の名前だけじゃないわ。進んだ距離の記録も薄れている」
ユノは胸元の小袋に触れた。
ルグナの星灯炭。
そこから、かすかな温かさが伝わってくる。
「ルグナ」
ユノが呼ぶ。
ミアもすぐに続ける。
「ルグナ」
カイも。
「ルグナ」
リゼも。
「ルグナ」
その名を呼ぶと、足跡が少しだけ濃くなった。
帰る場所の名前が、道を支えている。
ユノはそう感じた。
昼を過ぎても、空の青白い星は消えなかった。
本来なら昼の星など見えない。
けれど、その星だけは薄い膜の向こうからこちらを見ているように光っていた。
名前のない星。
それは、視線を向けなくても存在を感じさせた。
胸の奥に、声が入り込む。
――呼んで。
ユノは足を止めた。
ミアも、カイも同じように立ち止まる。
リゼだけが、強く目を閉じていた。
――呼んで。
――私はここにいる。
――でも、私が誰か分からない。
その声は、子どものようでもあり、老人のようでもあった。
男でも女でもない。
人の声というより、遠い星明かりが言葉の形を借りているようだった。
カイが歯を食いしばる。
「呼びたくなる……」
ミアも記憶灯を握りしめた。
「かわいそうって思っちゃう。でも、まだ駄目なんだよね」
リゼが目を開けた。
「ええ。まだ呼んではいけない」
星の声は、さらに強くなった。
――どうして。
――名前がほしい。
――名前がないと、私は消える。
ユノの胸が痛んだ。
名前がない苦しさを、彼は少し知っている。
自分の名前が空白へ沈みかけた時の恐怖。
星喰いの王に呑まれそうになった時の寒さ。
呼ばれなければ、自分が自分でなくなる感覚。
だからこそ、呼びたくなる。
何でもいいから、名を与えたくなる。
でも、それは危険だった。
ルナエルは、間違った王名によって縛られた。
名は救いにもなるが、鎖にもなる。
ユノは星灯りの剣の模様に触れた。
「まだ呼べない」
声に出して言った。
星が震えた気がした。
――どうして。
「本当の名前を知らないから」
――名前なら、あなたがくれればいい。
ユノは息を呑んだ。
その言葉は甘かった。
あなたがくれればいい。
名を持たぬものに名前を与えること。
それは、まるで救いのように聞こえる。
けれど、ユノは首を振った。
「俺が勝手につけた名前で、君を縛りたくない」
星の声は沈黙した。
その沈黙は、悲しみのようだった。
ミアが小さく言った。
「ごめんね。でも、探すから」
カイも空を見ないようにしながら言った。
「俺たち、探しに来たんだ。適当に呼びに来たんじゃない」
リゼが続ける。
「あなたが本来持っていた名を探します。だから、それまで待って」
青白い光が、わずかに弱まった。
――待つ。
――待つのは、寒い。
ユノは胸の奥が痛んだ。
「分かる」
――本当に?
「少しだけ」
ユノは答えた。
「俺も、名前が薄れたことがある。呼んでもらえなかったら、戻れなかった」
星はまた震えた。
――呼んでもらえたの?
「ああ」
ユノは仲間を見た。
「ミアが呼んだ。リゼが呼んだ。カイが呼んだ。父さんも、ルグナも」
――いいな。
その声は、とても小さかった。
ユノは何も言えなくなった。
名前のない星は、ただ危険なものではない。
寂しいものだ。
でも、寂しいからといって、間違った名で縛っていいわけではない。
リゼが地図を閉じた。
「塔へ急ぎましょう。星の声が強くなっている。第三の夜までに本来の名を見つけなければ、星は自分を保てなくなるかもしれない」
「もし、間に合わなかったら?」
カイが聞いた。
リゼは少しだけ黙った。
「星門が開いた時、誰かがその星に名を与えようとするでしょう。善意かもしれない。悪意かもしれない。でも、本当の名でなければ、星は歪む」
ミアが不安そうに言う。
「歪んだら?」
「星の名に繋がる地上の名前も崩れる可能性がある」
ユノは眉を寄せた。
「地上の名前?」
「星と地上の名は繋がっているわ。町や川や人の名前の中には、星から分かれたものがある。名前のない星が間違った名を受け取れば、その星に連なる名前が上書きされるかもしれない」
ユノは息を詰めた。
それは、星喰いとは違う形の危機だった。
奪われるのではない。
上書きされる。
元の名が、別の名に変えられてしまう。
カイが木剣を握る。
「それ、絶対止めないと駄目だ」
ミアも頷く。
「本当の名前を探そう」
四人は再び歩き出した。
その後、道の異変はさらに強くなった。
小さな森に入ると、木の名前が分からなくなった。
ミアが葉を見て言う。
「これ、見たことあるのに名前が出てこない」
リゼが答える。
「仮名をつけて」
カイが考える。
「丸葉の木」
ユノが続ける。
「丸葉の森」
リゼが地図へ書く。
丸葉の森。
仮の名を呼ぶと、木々の輪郭が少し戻った。
次に、白い石の広場のような場所へ出た。
そこには、古い石碑が並んでいた。
けれど、石碑には何も書かれていない。
名前がない。
ミアが記憶灯を近づける。
火が弱く揺れた。
「ここ、何かの休憩所だったのかな」
カイが石碑に手を置く。
「何も感じない。空っぽみたい」
リゼは表情を硬くした。
「名を持たぬ塔の影響で、周囲の記録が抜け落ちている。ここにあった名は、塔へ吸い寄せられているのかもしれない」
ユノは石碑の前に立った。
「仮で呼ぶ?」
リゼは頷く。
「ええ。ただし、本来の名ではないと明記する」
ミアが言った。
「待ち石の広場」
カイがすぐに繰り返す。
「待ち石の広場」
ユノも。
「待ち石の広場」
リゼが地図に記した。
――仮名。待ち石の広場。本来の名、未確認。
すると、石碑の一つに小さな光が宿った。
完全ではない。
でも、空白ではなくなった。
ユノは思った。
仮の名は、橋のようなものだ。
本当の名へ辿り着くまでの橋。
しかし、橋を町そのものだと思ってはいけない。
進むほど、青白い星の声は近くなった。
――待っている。
――でも、寒い。
――早く。
ユノたちはそのたびに足を速めた。
夕暮れ、名を持たぬ塔の麓に着いた。
塔は、近くで見ると奇妙だった。
高い。
けれど、どれくらい高いのか分からない。
石でできているようで、星明かりでできているようでもある。
色は白でも黒でも灰でもない。
“塔”という言葉すら、口にすると少し頼りなくなる。
入口には扉がなかった。
ただ、壁に大きな空白がある。
そこが入口なのだと、なぜか分かった。
ミアが記憶灯を掲げる。
「ここ、名前がないから扉も扉って言い切れない感じがする」
カイが顔をしかめる。
「気持ち悪いな」
リゼは塔の壁を調べた。
「古い星文字がある。でも、文字そのものが名を失っている」
ユノは壁に手を近づけた。
冷たい。
その冷たさは、星の声と同じだった。
――来た。
塔の中から声がした。
名前のない星の声。
――私を呼んでくれる?
ユノは答えた。
「本当の名前を見つけに来た」
――本当の名前。
――それは、どこにあるの。
「この塔にあるはずだ」
――分からない。
――私は、私を忘れた。
ミアがそっと言った。
「一緒に探すよ」
カイも。
「だから、急かすなよ」
リゼが塔の空白を見つめる。
「入るわ」
四人は塔の中へ足を踏み入れた。
中は暗くなかった。
青白い星明かりが、壁も床もないような空間を満たしている。
階段がある。
いや、階段のようなものがある。
それは上へ続いていた。
壁には、無数の空白の額が並んでいる。
絵があったのか、名前があったのか、どちらも分からない。
リゼが言った。
「この塔は、失われた星名を保管する場所だったのかもしれない」
ユノは額の一つに近づいた。
そこには、うっすらと星の絵が残っている。
でも、名がない。
ユノが触れようとすると、ミアが止めた。
「待って。なんか危ない」
その瞬間、額から声が漏れた。
――私でもいい。
――私を、その星の名にして。
――空白は嫌だ。
ユノは手を引いた。
リゼの顔が険しくなる。
「ここにある空白は、全部名前を求めている。間違って触れれば、別の名に引きずられるかもしれない」
カイが木剣を握った。
「じゃあ、どうやって本当の名を探す?」
リゼは塔の上を見た。
「一番上。星門の近くに、元の記録が残っているはず」
四人は階段を上った。
上るほど、声が増えた。
――呼んで。
――私を選んで。
――名前がほしい。
――空に戻りたい。
――誰でもいい。
――何でもいい。
ミアが耳を押さえる。
「つらい……」
カイも苦しそうだった。
「こんなの、全部に名前つけてやりたくなる」
リゼが必死に言う。
「駄目。ここで与える名は、星の名になる。違う名を与えれば、他の名を奪う」
ユノは歯を食いしばった。
助けたい気持ちが、危うい。
同情は大切だ。
でも、同情だけで名を与えてはいけない。
ユノはリリアの歌を口ずさんだ。
――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
ミアが続ける。
カイも。
リゼも。
歌うと、空白の声が少しだけ静まった。
歌は名前を無理に与えるのではなく、待つ力をくれる。
そう感じた。
塔の中ほどまで上った時、突然カイが立ち止まった。
「今、ネリオって聞こえた」
ユノは振り返る。
「ネリオ?」
カイは顔を青くした。
「あっちから、母さんの声で」
通路の奥に、小さな扉のような影が見えた。
そこから、確かに声が聞こえる。
――カイ。
――こっちへおいで。
――ネリオの名前を、星にしてあげる。
カイの足が動きかけた。
ユノが肩を掴む。
「カイ!」
カイははっとした。
汗をかいている。
「今……行きそうになった」
リゼが厳しい声で言った。
「塔が、それぞれの大切な名前を使って誘っている」
ミアが記憶灯を強く抱いた。
「ひどい……」
ユノはカイの肩から手を離さなかった。
「カイ」
「いる」
「ネリオは星にしなくていい。ネリオはネリオだ」
カイは震えながら頷いた。
「うん。ネリオは、栗の木の下にある。星にしない」
その言葉で、扉の影は消えた。
ミアが小さく言った。
「私たちの大事な名前を、別のものにしようとしてる」
リゼは頷く。
「名を持たぬ塔は、本当の名を失いすぎて、他の名を欲しがっているのかもしれない」
ユノは奥歯を噛みしめた。
「だからこそ、本当の名を見つけないと」
さらに上へ。
塔の頂上へ近づくにつれ、青白い星の光は強くなった。
ユノの胸の中で、声が響き続ける。
――呼んで。
――呼んで。
――呼んで。
そして、時々違う声が混じる。
父の声。
ミアの声。
ルナエルの声。
リリアの歌。
ネリオの栗の葉の音。
塔は、名前を使って揺さぶってくる。
ユノは何度も自分の名を呼んだ。
「ユノ」
ミアが応える。
「いるよ」
ミアが自分の名を呼ぶ。
「ミア」
ユノが応える。
「いる」
カイ。
「カイ」
「いる」
リゼ。
「リゼ」
「いるわ」
呼び合うことで、一歩ずつ上った。
やがて、階段の先に丸い広間が見えた。
塔の頂上。
天井はなく、空がそのまま広がっている。
昼でも夜でもない空。
中央には、巨大な星門があった。
輪の形をした門。
その向こうに、青白い星が浮かんでいる。
名前のない星。
星は、近くで見ると震えていた。
寒さに耐える子どものように。
リゼが息を呑む。
「星門……本当に残っていた」
門の周囲には、古い星文字が刻まれている。
しかし多くは消えている。
ユノは門へ近づいた。
星が声を発する。
――来てくれた。
――呼んで。
――私は、もう消えそう。
ユノは首を振った。
「本当の名前を探す」
――ここにもない。
――どこにもない。
――だから、あなたがくれればいい。
ミアが震える声で言う。
「駄目だよ……」
カイも。
「待てって言っただろ」
リゼは星文字を必死に読んでいた。
「少し残っている……“星は名を失う時、地上の三つの記憶に分かれる”」
ユノが聞く。
「三つの記憶?」
「続きが消えている。でも、たぶん本当の名を戻すには、地上に落ちた三つの記憶を集める必要がある」
青白い星が震える。
――三つ。
――私は、それを失った。
ユノは星を見た。
「どこにある?」
――分からない。
――でも、一つは歌。
――一つは涙。
――一つは……
星の声が途切れた。
星門が軋む。
リゼが叫ぶ。
「星門が開きかけている!」
門の輪が青白く光り、空が裂けるように揺れた。
第三の夜までまだ時間があるはずだった。
でも、星は待てなくなっている。
ユノは剣を構えた。
「閉じられるか?」
リゼが必死に魔法陣を展開する。
「完全には無理。でも、時間を稼ぐことはできる!」
ミアが記憶灯を門へ向ける。
「歌を!」
カイがすぐに歌い始めた。
――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
ユノも歌う。
ミアも。
リゼも。
歌が星門に触れると、門の光が少しだけ落ち着いた。
名前を急がせる力が、歌によって鎮められている。
ユノは星へ叫んだ。
「待ってくれ! 三つの記憶を探す!」
星は震えた。
――待つ。
――でも、寒い。
――早く見つけて。
「必ず」
ユノは言った。
「本当の名前で呼ぶから」
星門の光が弱まった。
完全には閉じない。
でも、今すぐ開くことは防げた。
リゼが膝をついた。
「猶予は長くないわ。三つの記憶……歌、涙、そして三つ目を探さないと」
ミアが息を整える。
「歌って、リリアの歌?」
リゼは首を振る。
「分からない。星自身の歌かもしれない」
カイが言う。
「涙は?」
「星涙石と関係がある可能性が高い」
ユノは青白い星を見上げた。
名前のない星は、まだ震えている。
呼んでほしいと願いながら、待つしかない星。
ユノは胸に手を当てた。
「待ってて」
星は小さく答えた。
――待つ。
――あなたたちの名前を覚えておく。
その言葉に、ユノは静かに返した。
「ユノ」
ミアも。
「ミア」
カイも。
「カイ」
リゼも。
「リゼ」
星の光が一度だけ瞬いた。
四つの名を、覚えるように。
塔の頂上から降りる時、ユノはもう一度星門を振り返った。
名前のない星。
まだ呼べない星。
でも、探すべきものは分かった。
三つの記憶。
歌。
涙。
そして、まだ分からない一つ。
第三章の旅は、さらに深い場所へ進もうとしていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
名前のない星は、ユノたちに名前を求めました。
けれど、間違った名で呼ぶことは、その星を縛ることになるかもしれません。
星の本当の名を戻すためには、地上に分かれた“三つの記憶”が必要だと分かりました。
次のページは『三つの記憶』です。
歌、涙、そしてまだ不明な最後の記憶を探す旅が始まります。




