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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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記憶を失った村

ルグナを旅立ったユノたちは、初めて故郷の外へ足を踏み出します。


 星涙石を集めるため。

 星喰いの王の名を探すため。

 そして、世界に空いた穴を塞ぐため。


 けれど、旅の始まりに待っていたのは、静かすぎる村でした。


 誰も昨日のことを覚えていない。

 誰も自分の過去を語れない。

 誰も大切な人の名前を思い出せない。


 このページでは、“記憶を失う”という星喰いの恐怖が、さらに身近な形でユノたちに迫ります。

朝焼けの中、ルグナは黒い煙を吐いていた。


 採掘塔の音が、いつもより遠く聞こえる。


 ゴウン、ゴウン、ゴウン。


 ユノは町の北門の前で立ち止まり、振り返った。


 煤けた屋根。

 曲がった煙突。

 狭い石畳。

 ガルドの家。

 ミアと走り回った路地。

 父が眠る墓地。


 見慣れたはずの景色が、今は胸に痛いほど焼きついて見えた。


 今日、ここを出る。


 いつ戻れるのか分からない。


 戻った時、ルグナがまだ覚えられているかも分からない。


「行くぞ」


 ガルドが言った。


 彼は大きな革袋をユノに渡した。中には干し肉、硬いパン、水筒、包帯、簡単な薬、古い地図が入っている。


「食料は節約しろ。山道は二日続く。最初の村までは迷わなけりゃ今日の夕方には着く」


「迷わなければ?」


「お前は昔から道を間違える」


「子どもの頃の話だろ」


「今も大して変わらん」


 ユノは言い返そうとして、やめた。


 ガルドの目が少し赤かったからだ。


 怒っているような顔をしている。


 でも、本当は心配している。


 それくらいは分かった。


 ミアの父親も見送りに来ていた。


 機械油で汚れた手を何度も拭いながら、娘を睨むように見ている。


「本当に行くのか」


「うん」


「帰ってこいよ」


「うん」


「怪我するなよ」


「うん」


「飯はちゃんと食え」


「うん」


「知らない男についていくな」


「お父さん、今それ言う?」


 ミアは困ったように笑った。


 けれど、父親に抱きしめられた瞬間、その顔が少しだけ歪んだ。


「……ちゃんと帰るから」


「ああ」


 ミアの父は、娘の頭を不器用に撫でた。


「お前は機械いじりは上手いが、泣き虫だからな」


「泣いてないし」


「今泣きそうだ」


「泣いてない!」


 そう言いながら、ミアは泣いていた。


 リゼは少し離れた場所に立っていた。


 誰も彼女を見送らない。


 この町に彼女を知る者はいない。


 千年の眠りから覚めた魔女に、帰る場所も、見送る家族もない。


 ユノはリゼの隣に立った。


「行こう」


「ええ」


「……大丈夫か?」


「何が」


「いや、何となく」


 リゼはユノを見た。


 少しだけ不思議そうな顔だった。


「あなたは、すぐそういうことを聞くのね」


「悪いかよ」


「悪くない」


 リゼは町の方を見た。


「ただ、久しぶりだったから」


「何が」


「誰かに、大丈夫かと聞かれること」


 ユノは何も言えなかった。


 ガルドが近づいてきて、ユノの胸を拳で軽く叩いた。


「忘れるな」


「ああ」


「自分の名前を呼べ。仲間の名前を呼べ。怖くなったら帰ってこい」


「怖くなったら帰っていいのか?」


「帰ってくる道を忘れなければな」


 ユノは少し笑った。


 ガルドも、ほんの少しだけ笑った。


「ユノ」


「何」


「生きて戻れ」


 その言葉だけは、重かった。


 ユノは頷いた。


「戻る」


 三人は歩き出した。


 北門を抜け、山道へ入る。


 ルグナの音が少しずつ遠ざかる。


 採掘塔の唸りも、町のざわめきも、ガルドの声も。


 振り返れば、まだ町は見える。


 けれど一歩進むたび、ルグナは小さくなっていった。


 ミアは何度も振り返っていた。


 ユノも同じだった。


 リゼだけは振り返らなかった。


 彼女には、もう振り返る場所がないのかもしれない。


 山道は険しかった。


 黒い岩と枯れた草の間を縫うように続く細い道。ところどころ崩れていて、足を滑らせれば谷底まで落ちそうだった。


 昼近くになると、空は灰色の雲に覆われた。


 けれど雨は降らなかった。


 風だけが強く吹き、三人の外套をばたばたと揺らした。


「ねえ、リゼ」


 ミアが息を切らしながら言った。


「魔法で楽に移動できたりしないの?」


「できるわ」


「本当!?」


「でも今の私が使えば、途中で倒れる」


「じゃあ駄目だね……」


「最初からそう言っている」


 ミアは肩を落とした。


 ユノは苦笑する。


「歩くしかないな」


「分かってるけど、足がもう痛い」


「まだ半日だぞ」


「ユノは炭鉱で鍛えてるからいいじゃん」


「ミアだって機械修理で走り回ってただろ」


「使う筋肉が違うの!」


 そんなやり取りをしながら進むうちに、少しだけ旅の恐怖が薄れた。


 だが、リゼの表情はずっと硬かった。


 彼女は時々、空を見上げる。


 何かを数えるように。


 消えた星を探すように。


「リゼ」


「何」


「次の目的地は灰の王国でいいんだよな」


「最終的には」


「最終的には?」


「まずは情報が必要。千年経っているなら、地名も国境も変わっているはず。灰の王国がそのまま残っているとは限らない」


「じゃあ、どうやって探す」


「古い地図、神殿の記録、星涙石の反応。使えるものは全部使う」


 ユノは星針盤を取り出した。


 針は北西を指している。


 灰の王国の方角なのか、別の星涙石なのかは分からない。


「これが頼りか」


「ええ。でも針の反応が弱い」


「どういうことだ」


「近くに強い星涙石はない。あるのは、小さな残響だけ」


「残響?」


「喰われかけた記憶の跡」


 ミアが不安そうに顔を上げた。


「それって、また空白があるってこと?」


「かもしれない」


 リゼの答えは冷静だった。


 そして夕方。


 三人は最初の村へ辿り着いた。


 そこは、山間にある小さな村だった。


 木造の家が十数軒。小さな畑。井戸。古びた風車。ルグナよりも空気は澄んでいて、煙の匂いはしない。


 けれど、ユノは村を見た瞬間、足を止めた。


「……変だ」


 ミアも頷いた。


「静かすぎる」


 村には人がいた。


 畑の前に老人が立っている。井戸のそばに女がいる。道端には子どもが二人座っている。


 けれど誰も動かない。


 誰も話さない。


 ただ、ぼんやりと立っている。


 まるで自分が何をしていたのか忘れてしまったみたいに。


 リゼの表情が険しくなる。


「記憶の霧が出ている」


「霧?」


 ユノは周囲を見た。


 確かに、村全体に薄い白い靄がかかっている。


 普通の霧よりも白く、そして冷たい。


 ルグナに現れた空白ほど濃くはない。


 だが同じ気配があった。


 世界が薄くなる気配。


「入って大丈夫なのか」


「大丈夫ではないわ」


「じゃあ――」


「でも通る必要がある」


 リゼは村の奥を見た。


「この霧の中心に、記憶を喰われかけた何かがある」


「星涙石?」


「小さいものなら」


 ユノは息を吐いた。


 逃げる選択肢はない。


 三人は村へ足を踏み入れた。


 その瞬間、頭の奥が少しぼやけた。


 ユノはすぐに自分の名前を口にする。


「ユノ」


 ミアも続けた。


「ミア」


 リゼも静かに言う。


「リゼ」


 名前を呼ぶと、霧の冷たさが少しだけ離れる。


 村の中央へ進むと、井戸のそばにいた女がこちらを見た。


 年は三十代くらいだろうか。


 手には空の水桶を持っている。


「あら……旅の人?」


「はい」


 ユノは慎重に答えた。


「ここは何という村ですか?」


 女は笑顔のまま固まった。


「え?」


「村の名前です」


「村の……名前……」


 女は空を見た。


 それから井戸を見た。


 自分の手を見た。


 そして、困ったように笑った。


「何だったかしら」


 ユノの背筋が冷えた。


 ミアが小さく息を呑む。


「忘れちゃったのよ。最近、みんなそうなの」


 女は恥ずかしそうに言った。


 まるで買い物の内容を忘れた程度の軽さで。


「昨日のことも、一昨日のことも、あまり覚えていなくて」


「いつからですか?」


「いつから……」


 女はまた考え込んだ。


「それも、忘れちゃったわ」


 笑っている。


 女は笑っているのに、ユノには泣き声に聞こえた。


 リゼが静かに聞いた。


「あなたの名前は?」


 女は口を開いた。


 だが、言葉が出なかった。


「私の……名前……」


 水桶が手から落ちた。


 乾いた音が響く。


 女の顔から笑みが消えた。


「私……何て名前だったかしら」


 ユノは胸が締めつけられた。


 女は自分の胸を押さえる。


「変ね。さっきまで、知っていた気がするのに」


 ミアが震える声で言う。


「村中が、こうなの……?」


 女は首を傾げた。


「村中……? そうね。たぶん。みんなよく忘れるの」


 その時、道端に座っていた子どもが泣き出した。


「お母さん」


 小さな男の子だった。


 女はそちらを見る。


「あら、どうしたの」


「お母さん、僕の名前呼んで」


 女は固まった。


 男の子は泣きながら言う。


「呼んでよ。ねえ。僕の名前」


 女の唇が震える。


「……」


「お母さん!」


 女は何も言えなかった。


 男の子はさらに泣き出した。


 ユノは思わず拳を握った。


 名前を忘れる。


 それは死よりも静かで、残酷だった。


 目の前にいるのに。


 愛しているはずなのに。


 名前が出てこない。


 呼べない。


 呼べないだけで、絆が崩れていく。


 ミアは耐えきれず、男の子のそばにしゃがんだ。


「ねえ、あなたの名前、覚えてる?」


 男の子は涙で濡れた顔を上げた。


「……トマ」


「トマくん」


 ミアは優しく呼んだ。


 男の子の肩が震えた。


「トマくん。ちゃんとここにいるよ」


「……うん」


「私はミア。こっちはユノ。あの子はリゼ」


 男の子は何度も頷いた。


「ミア。ユノ。リゼ。トマ」


「そう。忘れないように呼ぼう」


 ユノはミアの横顔を見た。


 彼女は泣きそうだった。


 それでも笑っていた。


 強いと思った。


 リゼは村の奥へ視線を向ける。


「中心はあそこね」


 村の奥には、小さな礼拝堂があった。


 木造の古い建物。


 屋根は少し傾き、扉には星の形をした古い紋章が刻まれている。


 リゼの表情が変わった。


「星見の礼拝堂……」


「知ってるのか?」


「千年前、星を祀る小さな祈りの場が各地にあった。今も残っているなんて」


 リゼは扉へ向かう。


 ユノとミアも後に続いた。


 扉を開けると、冷たい空気が流れ出した。


 中は薄暗い。


 左右に古い長椅子が並び、正面には星をかたどった祭壇がある。


 そして祭壇の前に、一人の老人が座っていた。


 白い髭の老人。


 手には分厚い本を抱えている。


 彼は三人を見ると、ゆっくり微笑んだ。


「旅の方か」


「はい」


 ユノは警戒しながら近づいた。


「この村で何が起きているか知っていますか?」


 老人は少し考えた。


「忘れておる」


「え?」


「何か大切なことが起きている。だが、忘れておる」


 老人は自分の膝の上の本を撫でた。


「だから、書いておいた」


 ユノは本を見た。


 表紙には古い文字で何かが書かれている。


 リゼが読み上げた。


「記憶録」


「読めるのか、娘さん」


「古い文字なら」


 老人は嬉しそうに頷いた。


「なら、読んでおくれ。わしはもう、自分が何を書いたのかも忘れてしまった」


 リゼは本を開いた。


 ページには細かい文字がびっしり書かれている。


 最初の方は日記のようだった。


 村の名前は《フェルカ》。


 山間の小さな農村。


 星見の礼拝堂を中心に暮らしていた。


 だが、ある日から村人が少しずつ昨日のことを忘れ始めた。


 最初は老人だけだった。


 次に子ども。


 次に若者。


 そして村全体。


 リゼが読み進めるにつれ、文章は乱れていった。


 ――今日、妻の名前を忘れた。

 ――妻は泣かなかった。ただ、私の名前も忘れていた。

 ――村の名前を壁に刻んだ。フェルカ。フェルカ。フェルカ。

 ――朝になると壁の文字が薄くなっていた。

 ――礼拝堂の地下から、誰かが歌っている。

 ――星が泣いている。

 ――忘れる前に書く。

 ――この村には、昔、星が落ちた。

 ――その星を守るために、私たちはここに村を作った。

 ――でも誰も覚えていない。

 ――私も、もうすぐ忘れる。

 ――助けてくれ。

 ――誰か、私たちの名前を呼んでくれ。


 リゼは本を閉じた。


 礼拝堂の中が静まり返る。


 老人は穏やかに微笑んでいた。


「そうか。わしは助けを求めていたのか」


 ユノは言葉を失った。


 自分で助けを求めたことすら忘れている。


 それほどまでに、この村は喰われている。


「地下があるのか」


 ユノが聞くと、老人は首を傾げた。


「地下……あったかのう」


 リゼは祭壇へ歩み寄った。


 星型の紋章に手を当てる。


 銀色の光が走る。


 ゴトン、と音がして、祭壇の下に階段が現れた。


 ミアが目を丸くする。


「隠し階段……」


「星見の礼拝堂には、星の欠片を保管する地下室がある」


 リゼが言った。


「そこが中心ね」


 ユノは老人を見る。


「ここで待っていてください」


 老人は頷いた。


「忘れんように、名前を聞いてもよいか」


「ユノです」


「ミアです」


「リゼ」


 老人は何度も口の中で繰り返した。


「ユノ。ミア。リゼ。ありがとう。わしの名は……」


 老人は止まった。


 困ったように笑う。


「すまん。忘れてしまった」


 ユノは胸が痛んだ。


 だが、記憶録の表紙裏に名前が書かれているのを見つけた。


「オルド」


 ユノは言った。


「あなたの名前は、オルドです」


 老人の目が大きく見開かれた。


「オルド……」


「はい」


「そうか……わしは、オルドか」


 老人の目から涙がこぼれた。


「久しぶりに、名前を聞いた気がする」


 ユノは頷いた。


「忘れません」


 三人は地下へ降りた。


 階段は狭く、冷たかった。


 降りるほど霧が濃くなる。


 頭がぼんやりする。


「ユノ」


「ミア」


「リゼ」


 三人は名前を呼び合う。


 地下室は小さな石造りの部屋だった。


 中央に台座があり、その上に小さな星涙石が浮いている。


 ルグナで手に入れたものより弱い光。


 だが、確かに星の欠片だった。


 その周囲に、白い霧が渦巻いている。


 霧の中から声が聞こえた。


 ――忘れたい。


 ユノは立ち止まった。


 今のは誰の声だ。


 霧が囁く。


 ――痛い記憶など、いらない。

 ――失った人の名前など、いらない。

 ――悲しむくらいなら、忘れた方がいい。

 ――忘れれば楽になれる。


 ミアが耳を塞いだ。


「やめて……」


 リゼが低く言う。


「星喰いの囁きよ。聞きすぎないで」


 だが、声は頭の中に直接入ってくる。


 ユノの胸にも、声が染み込んできた。


 忘れれば楽になる。


 父が死んだことも。


 ルグナが消えかけたことも。


 セナの涙も。


 全部、忘れれば苦しくない。


 一瞬だけ、そう思ってしまった。


 その瞬間、自分の名前が遠のく。


 ユノ。


 ユノ。


 誰だ。


 誰の名前だ。


「ユノ!」


 リゼの声がした。


 ユノは我に返る。


 リゼがユノの腕を掴んでいた。


「呑まれないで」


「……悪い」


「星涙石に触れて。あなたなら、この霧を鎮められる」


 ユノは頷き、台座へ近づいた。


 霧が濃くなる。


 声が大きくなる。


 ――忘れろ。

 ――苦しみを捨てろ。

 ――名前を捨てろ。

 ――自分を捨てろ。


 ユノは歯を食いしばった。


「嫌だ」


 星涙石へ手を伸ばす。


「苦しくても、忘れない」


 指先が石に触れた。


 光が弾ける。


 ユノの視界に、村の記憶が流れ込んできた。


 フェルカ。


 小さな村。


 春には白い花が咲き、夏には子どもたちが井戸の周りで水遊びをし、秋には収穫祭が開かれ、冬には礼拝堂で星に祈った。


 オルドという老人は、かつて村の記録係だった。


 妻の名前はリナ。


 井戸のそばの女の名前はエマ。


 男の子はトマ。


 村には百年に一度、夜空の石が降るという言い伝えがあった。


 村人たちはそれを守っていた。


 意味も知らずに。


 けれど三ヶ月前、黒い羽根をつけた旅人が村を訪れた。


 その者は礼拝堂の地下へ入り、星涙石に触れた。


 その夜から、村人たちは記憶を失い始めた。


 黒い羽根。


 夜空の墓場に落ちていたものと同じ。


 ユノは叫んだ。


「お前か!」


 霧の奥に、人影が見えた。


 黒い外套。


 顔は見えない。


 肩に黒い羽根の紋章。


 その人物は、ゆっくり振り返った。


 口元だけが笑っている。


『鍵は目覚めたか』


 声が頭に響く。


『なら、王もじきに名を取り戻す』


「待て!」


 ユノは手を伸ばした。


 だが影は霧に溶けて消えた。


 次の瞬間、星涙石が強く光る。


 村中に銀色の波が広がった。


 霧が薄れていく。


 地下室の冷たさが和らぐ。


 ミアが涙目で顔を上げた。


「ユノ……?」


「大丈夫」


 リゼも息を吐く。


「霧が晴れる」


 星涙石はユノの掌に落ちた。


 小さいけれど、温かい光を放っている。


 三人が地上へ戻ると、礼拝堂にいた老人が立ち上がった。


「……リナ」


 老人が呟いた。


「妻の名前は、リナだった」


 涙が頬を伝う。


「わしはオルド。妻はリナ。この村はフェルカ……」


 外から声が聞こえた。


「トマ!」


 井戸のそばの女が男の子を抱きしめていた。


「トマ、ごめんね、ごめんね……!」


「お母さん!」


 村人たちは少しずつ名前を思い出していた。


 完全ではない。


 失われた記憶はまだ多い。


 それでも、名前は戻った。


 ユノは胸が熱くなった。


 リゼが静かに言う。


「あなたの力は、星涙石を目覚めさせるだけじゃない」


「え?」


「記憶を呼び戻している」


「俺が?」


「ええ」


 ユノは自分の手を見る。


 鍵。


 世界を開く鍵。


 その意味が、少しだけ分かった気がした。


 けれど同時に、黒い外套の影が頭から離れなかった。


 鍵は目覚めた。

 王もじきに名を取り戻す。


 その言葉は、希望ではなく警告だった。


 夕暮れの村で、オルド老人は三人に頭を下げた。


「ありがとう。全部は思い出せん。だが、大切な名前は戻った」


「よかった」


 ミアが微笑む。


 オルドは古い地図を差し出した。


「礼拝堂の記録庫にあったものだ。灰の王国への道が記されている」


 リゼが地図を受け取り、目を見開いた。


「これは……千年前の街道図」


「役に立つかのう」


「十分すぎるわ」


 ユノは地図を覗き込んだ。


 ルグナから北西へ続く古い道。


 その先に、黒いインクで塗られた国がある。


 灰の王国。


 旅の次の目的地。


 村の空には、夕闇が広がっていた。


 星はまだ見えない。


 けれどフェルカの人々は互いの名前を呼び合っていた。


「エマ」


「トマ」


「オルド」


「リナ」


 名前が村に戻っていく。


 それは小さな奇跡だった。


 ユノは星涙石を握りしめた。


 世界はまだ壊れている。


 星喰いはまだ消えていない。


 黒い羽根の者も、どこかで動いている。


 けれど、今日ひとつ分かった。


 失われたものは、すべて戻らないわけではない。


 名前を呼べば。


 覚えていると叫べば。


 光は、ほんの少しだけ戻る。


 ユノは空を見上げた。


 暗くなり始めた空の端に、小さな光がひとつ瞬いた気がした。


 星かもしれない。


 気のせいかもしれない。


 でもユノは、それを信じたかった。


 忘れられた村に、名前が戻った夜。


 旅は、まだ始まったばかりだった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 このページでは、ルグナを旅立ったユノたちが、最初に“記憶を失った村”フェルカへ辿り着きました。


 自分の名前を忘れる。

 子どもの名前を呼べなくなる。

 村の名前さえ分からなくなる。


 星喰いの恐怖は、戦いや破壊だけではなく、日常の中に静かに入り込んできます。


 けれどユノは、星涙石に触れることで村人たちの名前を呼び戻しました。


 そして、黒い羽根の外套をまとった謎の人物の存在も明らかになります。


 「鍵は目覚めた」

 「王もじきに名を取り戻す」


 この言葉は、ユノたちの旅が星喰いだけでなく、“星喰いを利用しようとする者たち”との戦いでもあることを示しています。


 次のページは『消えた母親の顔』です。

 フェルカの村に残る少女との出会いを通して、ユノたちは“家族の記憶を失う”という、さらに深い痛みに向き合うことになります。

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