消えた母親の顔
名前を思い出せても、顔を思い出せない。
それは、どれほど寂しいことでしょうか。
フェルカの村で、ユノたちは失われた名前を少しだけ取り戻しました。
けれど、星喰いに奪われたものは、名前だけではありません。
声。
表情。
ぬくもり。
大切だったはずの人の顔。
このページでは、ひとりの少女との出会いを通して、“家族の記憶を失う痛み”が描かれます。
忘れたくないのに、忘れてしまう。
思い出したいのに、顔だけがぼやけていく。
その悲しみに、ユノたちは向き合うことになります。
フェルカの村に、朝が来た。
山の向こうから薄い光が差し込み、霧の残った畑を淡く照らしている。
昨日まで名前を失っていた村人たちは、互いの名を確かめ合うように朝を迎えていた。
「エマ」
「トマ」
「オルド」
「リナ」
名前が呼ばれるたび、村の空気が少しずつ温かくなる気がした。
けれど、すべてが元に戻ったわけではなかった。
ユノは礼拝堂の前に立ち、村の様子を見ていた。
井戸のそばでは、エマが息子のトマを抱きしめている。トマは何度も母親の名を呼び、そのたびエマは泣きそうな顔で返事をしていた。
オルド老人は、記憶録に村人の名前を書き足している。
忘れないために。
また消えないように。
誰もが必死だった。
取り戻した名前を、両手で抱えているようだった。
「平和に見えるね」
ミアが隣に立った。
寝不足のせいか、目の下に少し影がある。
「見えるだけだろ」
ユノは答えた。
村にはまだ空白の爪痕が残っていた。
家の壁に掛けられた家族写真の顔が、ところどころ白く抜けている。畑の一角には誰が植えたのか分からない花が咲いている。村人たちは名前を思い出しても、昨日何を食べたのか、誰と何を話したのか、ほとんど覚えていなかった。
名前は戻った。
でも、日々は戻っていない。
それが星喰いの残酷さだった。
「リゼは?」
「礼拝堂の中。星涙石を調べてる」
「大丈夫かな」
「分からない」
昨日、地下室で手に入れた小さな星涙石。
それはルグナで手に入れたものより弱い光を放っていた。リゼによれば、フェルカの星涙石は完全な欠片ではなく、“記憶の雫”に近いものらしい。
それでも、星喰いの霧を晴らす力はあった。
ユノの力がそれを目覚めさせた。
そうリゼは言った。
鍵。
自分がそう呼ばれる意味を、ユノはまだ受け入れきれていなかった。
「ユノ」
礼拝堂の中からリゼが出てきた。
手には星涙石を持っている。
「もう行けるわ」
「灰の王国へ?」
「ええ。オルドにもらった地図を見る限り、古い街道を北西へ進めば、三日ほどで灰の王国の国境跡に着く」
「国境跡?」
「千年前の国よ。今も王国として残っているかは分からない」
ミアが肩をすくめる。
「先が長そう」
「始まったばかりよ」
リゼは淡々と言った。
その時だった。
小さな声が聞こえた。
「旅の人」
三人が振り返ると、礼拝堂の影に少女が立っていた。
年は七つか八つくらい。
黒髪を短く切りそろえ、両手で古い布人形を抱いている。服は少し大きすぎて、袖が手の甲まで隠れていた。
少女は不安そうに三人を見上げていた。
「どうしたの?」
ミアが優しくしゃがむ。
少女は布人形をぎゅっと抱きしめた。
「お願いがあるの」
「お願い?」
「お母さんを、探してほしいの」
ユノは胸の奥が冷たくなった。
村人たちの記憶は完全には戻っていない。
もしかすると、この少女の母親も。
「君の名前は?」
ユノが聞くと、少女は小さく答えた。
「ノア」
「ノア。お母さんの名前は分かる?」
ノアは頷いた。
「サリア」
名前は覚えている。
それだけで少し安心した。
だがノアは続けた。
「でも、顔が分からないの」
ミアの表情が変わった。
「顔……?」
「うん」
ノアは布人形を見つめる。
「お母さんがいたのは覚えてる。名前も覚えてる。声も、少しだけ覚えてる。でも顔が……どうしても思い出せないの」
少女の声が震えた。
「昨日から、村のみんなに聞いてるの。でも誰も、お母さんの顔を覚えてないって」
ユノは言葉を失った。
名前は戻った。
でも顔が戻らない。
それは、どれほど苦しいことだろう。
会いたい人の名前を呼べるのに、その顔だけが分からない。
ミアがそっと聞いた。
「お母さんは今どこにいるの?」
「分からない」
「いなくなったの?」
「たぶん」
ノアは首を傾げた。
その仕草が、ひどく痛々しかった。
「いなくなったことも、ちゃんと覚えてないの。ただ、朝起きたら家にいなくて。でも、前からいなかったような気もして。でも、この人形はお母さんが作ってくれたの」
ノアは布人形を差し出した。
古い人形だった。
綿が少しはみ出し、片目のボタンが取れかけている。けれど大切にされているのが分かった。
人形の服の裏側には、小さな刺繍があった。
――ノアへ。サリアより。
ユノはそれを見て、胸が締めつけられた。
母親は確かにいた。
この人形を作り、娘に渡した人が。
その愛情だけは、まだ消えていなかった。
リゼが人形を見つめる。
「この人形に、記憶が残っているかもしれない」
「本当か?」
「強い想いが込められた物には、持ち主の記憶が宿ることがある」
ノアの顔に希望が灯った。
「お母さんの顔、分かる?」
「保証はできない」
リゼは正直に言った。
「でも、試す価値はあるわ」
「お願い!」
ノアは必死に頭を下げた。
「お母さんの顔を思い出したいの。忘れたままなんて嫌なの」
ユノはリゼを見た。
リゼは少しだけ目を伏せた。
「星喰いに触れた記憶を覗くのは危険よ」
「危険って?」
「記憶の穴に引きずられることがある」
「でも、できるんだろ」
「あなたはすぐそう言う」
「見捨てられないだろ」
リゼはため息をついた。
「分かったわ。ただし、覗くのはあなた」
「俺?」
「鍵の力がある。私よりも記憶に触れやすい」
「また俺かよ」
「嫌ならやめる」
ユノはノアを見た。
少女は布人形を抱きしめ、泣きそうな目でこちらを見ている。
ユノは息を吐いた。
「やる」
ミアが不安そうに言う。
「無理しないでよ」
「分かってる」
「絶対分かってない顔」
「分かってるって」
四人はノアの家へ向かった。
村の端にある小さな家だった。
中は綺麗に片づいている。
暖炉のそばには小さな椅子が二つ。食卓には木の皿が二枚。壁には白く抜けた絵が飾られている。
それはおそらく、母娘の絵だった。
けれど、大人の女性の顔だけが真っ白に消えていた。
ノアはその絵を見上げる。
「ここに、お母さんがいたはずなの」
ユノは絵を見た。
少女の隣に立つ白い影。
輪郭はある。
けれど顔がない。
その空白が、恐ろしいほど悲しかった。
リゼは食卓の上に人形を置いた。
そして星涙石を取り出す。
「ユノ、人形に触れて。目を閉じて、ノアの母親の名前を呼んで」
「サリア、だな」
ノアが頷く。
「サリア。お母さんの名前」
ユノは人形に手を置いた。
布は柔らかく、少し温かい気がした。
目を閉じる。
「サリア」
最初は何も起きなかった。
暖炉の音。
ミアの息遣い。
ノアが不安そうに衣擦れする音。
それらが遠くなる。
リゼの声が聞こえた。
「もう一度」
ユノは深く息を吸った。
「サリア」
星涙石が光った。
次の瞬間、ユノは知らない台所に立っていた。
いや、ノアの家だ。
でも今より明るい。
窓から朝日が差し込み、食卓には焼きたてのパンが置かれている。
小さなノアが椅子に座り、足をぶらぶら揺らしていた。
「お母さん、早く!」
ノアが笑っている。
その声は今より幼い。
ユノは息を止めた。
暖炉の前に、女性がいた。
黒髪を肩で結び、エプロンをつけた女性。
背中を向けている。
きっとサリアだ。
「急かさないの。熱いからね」
優しい声だった。
ノアが言っていた、少しだけ覚えている声。
ユノは女性の顔を見ようと回り込む。
だが、顔が見えない。
そこだけ白くぼやけている。
まるで濃い霧がかかっているようだった。
「くそ……」
ユノは手を伸ばした。
その瞬間、景色が揺れた。
別の記憶へ飛ぶ。
夜。
ノアが熱を出している。
サリアは濡れた布を額に当て、眠らずに看病していた。
「大丈夫。お母さんがいるから」
顔は見えない。
でも手の温もりは分かる。
声の震えも。
娘を失いたくないと祈る心も。
また景色が変わる。
春の畑。
サリアがノアに花冠を作っている。
ノアが笑い、サリアも笑う。
けれど顔は白い。
笑っているはずなのに、表情だけがない。
ユノは胸が苦しくなった。
「見せろよ……」
また景色が変わる。
今度は礼拝堂。
サリアがオルド老人と話している。
「村の人たちが、昨日のことを忘れています」
「記録を残そう」
「でも、記録も薄くなっているんです」
サリアの声には恐怖があった。
「もし私が忘れられたら、ノアはどうなるの」
オルド老人は何も言えない。
サリアは布人形を抱きしめた。
「この子だけは、ノアのそばに残したい」
景色がまた揺れる。
黒い夜。
サリアは家の中でノアを抱きしめていた。
外には白い霧が出ている。
窓の外に、黒い羽根の外套をまとった人物が立っていた。
ユノの心臓が跳ねた。
フェルカの地下で見た影。
黒い羽根の者。
そいつが、サリアの家の前にいる。
『星は、記憶を求めている』
外套の者が言った。
『強い愛ほど、よく燃える』
サリアはノアを背に庇った。
「この子には触れさせない」
『ならば、お前が差し出せ』
黒い霧が家の中に入り込む。
サリアが苦しそうに膝をつく。
ノアは泣き叫んでいる。
「お母さん!」
「ノア、見ちゃ駄目!」
サリアは震える手で布人形をノアに押しつけた。
「これを持っていて。お母さんを忘れそうになったら、この子を抱きしめて」
「嫌! お母さん!」
「大丈夫」
サリアの顔はやはり見えない。
でも声は笑っていた。
泣きながら笑っていた。
「あなたのこと、愛してる」
黒い霧がサリアを包む。
ユノは叫んだ。
「やめろ!」
しかし記憶の中のユノには何もできない。
手を伸ばしても、霧を掴むことはできない。
サリアの身体が薄れていく。
黒い羽根の者が静かに言った。
『母の顔を喰らえば、子は愛の形を失う』
サリアは最後の力でノアの額に口づけた。
「ノア」
その声だけが、はっきり響いた。
「あなたは、私の光」
次の瞬間、サリアの顔が白く弾けた。
記憶が崩れる。
ユノは暗闇に落ちた。
闇の中で、黒い羽根の者が立っている。
『鍵』
ユノは身構えた。
「お前は誰だ!」
『王の名を探す者』
「星喰いの仲間か!」
『星喰いは飢えだ。仲間など持たぬ』
「じゃあ何なんだよ!」
黒い羽根の者は笑った。
『忘却の先にしか、救いはない』
「ふざけるな」
『覚えているから苦しむ。愛したから失う。ならば最初から、何も覚えなければいい』
ユノは歯を食いしばった。
「それは救いじゃない」
『いずれ分かる。鍵よ。お前が最も忘れたい記憶に触れた時、その言葉をまだ言えるか』
「俺は忘れない」
『今はそう言うだろう』
黒い羽根の者の姿が霧に溶ける。
『灰の王国で待っている』
「待て!」
ユノは手を伸ばした。
その瞬間、強い光が差した。
「ユノ!」
ミアの声。
ユノは現実に引き戻された。
ノアの家。
食卓。
布人形。
目の前には、泣きそうなノアがいる。
リゼがユノの肩を掴んでいた。
「息をして」
「……っ、は……!」
ユノは大きく息を吸った。
全身が汗で濡れている。
頭が割れそうに痛い。
ミアが心配そうに覗き込む。
「大丈夫!?」
「ああ……たぶん」
「たぶんって何!」
ユノは布人形を見た。
人形の胸元が淡く光っている。
そこに、小さな銀色の糸が浮かんでいた。
リゼが言う。
「記憶の糸よ。サリアの想いが残っている」
「顔は……」
ノアが震える声で聞いた。
「お母さんの顔、見えた?」
ユノはすぐに答えられなかった。
見えなかった。
記憶の中でも、サリアの顔は白く消えていた。
その事実をどう伝えればいい。
ノアの目には、必死な希望が浮かんでいる。
嘘をつけば、その場だけは救えるかもしれない。
けれどそれは違うと思った。
「ごめん」
ユノは正直に言った。
「顔は、見えなかった」
ノアの表情が崩れた。
「……そっか」
小さな声だった。
泣くのを我慢している声。
ユノは続けた。
「でも、声は聞こえた」
ノアが顔を上げる。
「声?」
「ああ。サリアさんは、君を守った。黒い羽根のやつから。自分が消えるかもしれないのに、君だけは守ろうとした」
ノアの手が人形を強く握る。
「お母さん……」
「最後に言ってた」
ユノは胸の奥に残る声を、丁寧に思い出した。
「ノア。あなたは、私の光」
その瞬間。
人形が強く光った。
銀色の糸がほどけ、空中に小さな光の粒が集まる。
ノアは息を呑んだ。
光の粒は、少しずつ人の形を作った。
完全ではない。
顔もまだぼやけている。
けれど、そこには確かに女性の影が立っていた。
黒髪を肩で結び、エプロンをつけた女性。
サリア。
ノアは震える手を伸ばした。
「お母さん……?」
光の影は答えない。
ただ、ノアの前に膝をつくように揺れた。
そして、ノアの頬に触れる仕草をした。
触れられたわけではない。
でもノアは大粒の涙をこぼした。
「温かい……」
リゼが静かに言った。
「顔は戻らない。でも、想いが形を残したのね」
ノアは人形を抱きしめながら泣いた。
「お母さん……お母さん……!」
光の影は少しずつ薄れていく。
最後に、ノアの人形へ溶け込むように消えた。
部屋には静けさが戻った。
ノアはしばらく泣き続けた。
ミアも目元を拭っていた。
ユノは拳を握ったまま、黒い羽根の者の言葉を思い出していた。
母の顔を喰らえば、子は愛の形を失う。
許せなかった。
名前を奪うだけでは足りず、顔まで奪う。
愛された記憶の輪郭まで奪おうとする。
そんなものを、救いと呼ぶなんて。
「ユノ」
リゼが小さく呼んだ。
「黒い羽根の者に会ったのね」
「ああ」
「何と言っていた?」
「灰の王国で待っているって」
リゼの赤い瞳が鋭くなる。
「やはり、次の目的地は灰の王国ね」
「そいつ、王の名を探す者って言ってた」
「王の名……」
リゼは唇を噛んだ。
「魔女狩りの騎士団が、なぜ星喰いの王の名を探しているの」
「千年前の騎士団なんだよな?」
「本来なら、もう存在しているはずがない」
「でもいる」
「ええ」
リゼは苦しそうに目を伏せた。
「過去が、まだ終わっていないのね」
その日の昼、ユノたちはフェルカを発つことになった。
村人たちは集まり、それぞれの名前を紙に書いてユノたちに渡してくれた。
エマ。
トマ。
オルド。
リナ。
サリア。
ノア。
そして、まだ完全には思い出せない者たちの空白の紙も。
「いつか名前が戻ったら、ここに書くんだ」
オルド老人はそう言った。
「だから、わしらも忘れぬようにする。君たちの名前も」
ユノは頷いた。
「ユノです」
「ミアです」
「リゼ」
村人たちは三人の名前を繰り返した。
まるで祈りのように。
ノアは最後にユノへ駆け寄った。
「ありがとう」
「俺は、顔を戻せなかった」
「でも、お母さんが私を愛してたこと、思い出せた」
ノアは布人形を抱きしめて笑った。
涙の跡が残った笑顔だった。
「顔はまだ分からないけど、温かかったことは分かる。だから、大丈夫」
ユノは胸が詰まった。
強い子だと思った。
小さな身体で、失われたものを抱えながら、それでも立っている。
「いつか、取り戻す」
ユノは言った。
「サリアさんの顔も。消えた記憶も」
ノアは頷いた。
「うん。待ってる」
ユノたちは村を出た。
フェルカの人々は、三人の背中が見えなくなるまで名前を呼んでいた。
「ユノ!」
「ミア!」
「リゼ!」
その声は、山道に長く響いた。
ミアは歩きながら涙を拭った。
「私、駄目だ。こういうの弱い」
「俺もだよ」
「リゼは?」
リゼは少し考えた。
「……胸が痛い」
「それ、悲しいってことじゃない?」
「そうなのかしら」
「たぶん」
リゼは自分の胸に手を当てた。
「千年経っても、こういう痛みは消えないのね」
ユノはリゼを見た。
「消えなくていいんじゃないか」
「痛いのに?」
「痛いってことは、忘れてないってことだろ」
リゼはしばらく黙った。
やがて、小さく言った。
「あなたは時々、残酷なほど真っ直ぐね」
「褒めてる?」
「少しだけ」
空は曇っていた。
星は見えない。
けれどユノの鞄の中には、二つの星涙石があった。
ルグナの欠片。
フェルカの欠片。
そして、ノアの母親の想いが宿った小さな光。
すべてを取り戻すには、あまりにも小さい。
けれどゼロではない。
ユノは前を向いた。
灰の王国へ。
黒い羽根の者が待つ場所へ。
星喰いの王の名の欠片が眠る場所へ。
消えた母親の顔を取り戻すためにも、進むしかない。
忘れない。
ノアの涙を。
サリアの声を。
愛する人の顔を奪われる痛みを。
その痛みこそが、ユノたちを前へ進ませる光になるのだと、今は信じたかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ノアという少女と、消えてしまった母・サリアの記憶を描きました。
名前は覚えている。
声も少しだけ覚えている。
けれど、顔だけが思い出せない。
星喰いが奪うのは、命だけではありません。
大切な人を大切だと思えた証までも、少しずつ削っていきます。
ユノはサリアの顔を完全には取り戻せませんでした。
けれど、サリアがノアを愛していた記憶だけは、人形の中から呼び戻すことができました。
そして、黒い羽根の者が灰の王国で待っていることも明らかになります。
次のページは『魔法使いの条件』です。
旅の中で、ユノは自分の中に眠る“鍵”としての力と向き合い始めます。
そしてリゼは、魔法とは何か、魔女とは何かをユノたちに語ることになります。




