夜空の墓場
旅立ちの前の夜は、不思議と静かです。
明日から何もかもが変わると分かっているのに、町はいつも通り眠っている。
けれどユノたちは、もう知ってしまいました。
この世界では、星が死ぬ。
星が死ねば、人の記憶も、名前も、存在も消えていく。
このページでは、ルグナに残された“星の死骸”――夜空の墓場へ向かいます。
そこには、ユノの父が残した手がかりと、リゼが忘れたくても忘れられない千年前の記憶が眠っています。
旅立ちの朝は、まだ来なかった。
ルグナの町は夜の底に沈んでいた。採掘塔の灯りだけが赤く瞬き、煤けた屋根の上を冷たい風が渡っていく。
ユノは眠れなかった。
ガルドの家の床に横になっても、目を閉じるたびに白い空白が浮かんだ。消えた犬。足を失った男。アルトの名前を泣きながら呼んでいたセナ。そして、白い空間の中で見た父の残影。
――名前を忘れるな。
その声が、胸の奥で何度も響く。
ユノは起き上がった。
暖炉の火は小さくなっていた。ミアは隣の部屋で眠っている。リゼは窓辺に立ち、外を見ていた。
「起きてたのか」
ユノが声をかけると、リゼは振り返らずに答えた。
「眠るのは得意だけれど、今は眠りたくない」
「千年寝たから?」
「それもあるわ」
リゼは静かに言った。
「目を閉じると、昔の夢を見る」
「昔?」
「星が多かった頃の夢」
ユノは何も言えなかった。
リゼが見ている夜空は、ユノが見ているものとは違うのだろう。
今の空は暗く、星はほとんどない。
けれど彼女の記憶の中には、きっと白く燃えるほどの星空がある。
そして、その星々がひとつずつ消えていく光景も。
「ガルドが呼んでる」
リゼが言った。
「え?」
「裏庭にいる。あなたに見せたいものがあるそうよ」
ユノは眉をひそめた。
「なんで分かるんだ」
「足音」
「聞こえたのか?」
「あなたより耳がいいの」
「魔女って便利だな」
「便利ではないわ。面倒な音まで聞こえる」
リゼは少しだけ不機嫌そうに言った。
ユノは上着を羽織り、裏口へ向かった。
外に出ると、冷たい空気が頬に刺さった。
ガルドは裏庭に立っていた。
手には古い布袋を持っている。
「起きてたか」
「眠れなかった」
「だろうな」
ガルドはそう言って、布袋をユノに渡した。
ずしりと重い。
「何これ」
「お前の親父のものだ」
ユノの指が止まった。
「父さんの……?」
「あいつが死んだあと、俺が預かってた。お前が大きくなったら渡すつもりだったが、機会を逃してた」
「今がその機会ってことか」
「そうだ」
ユノは布袋を開いた。
中には古い革の手帳と、小さな金属板、それから黒く煤けた方位磁針が入っていた。
方位磁針の針は壊れているのか、北を指していない。
銀色の星涙石の方を向いて、かすかに震えていた。
「これ……」
リゼが近づいてきた。
方位磁針を見るなり、赤い瞳が細くなる。
「星針盤」
「知ってるのか?」
「千年前に魔女が作った道具よ。星涙石の気配を辿るためのもの」
ガルドが低く唸る。
「やっぱり、ただの方位磁針じゃなかったか」
「父さんがこれを持ってたのか」
「ああ」
ユノは星針盤を掌に乗せた。
針は北ではなく、ルグナの北側――昨日空白が広がった方角を指している。
「第七坑道?」
「違う」
リゼが言った。
「もっと上」
「上?」
リゼは夜空を見た。
「空の墓場」
ユノは眉をひそめる。
「何だよ、それ」
ガルドが口を開いた。
「ルグナの北の山に、昔からそう呼ばれている場所がある。夜になると地面が光る荒地だ。炭鉱夫たちは“夜空の墓場”と呼んで近づかねぇ」
「そんな場所、初めて聞いた」
「子どもが行く場所じゃない」
「またそれかよ」
「実際、危険なんだ」
ガルドは真剣な顔で言った。
「あそこでは、たまに人が自分の名前を忘れる」
ユノの背筋が冷えた。
名前を忘れる。
星喰いに関わる場所だ。
「父さんはそこへ行ってたのか」
「事故の前夜にな」
ガルドは古い手帳を指差した。
「手帳の最後のページを見ろ」
ユノは手帳を開いた。
父の字だった。
少し荒く、力強い字。
ページの多くは炭鉱の記録だった。鉱脈の位置、坑道の補強、採掘量、事故の危険箇所。
そして最後のページだけ、まったく違う内容が書かれていた。
――夜空の墓場に、星の骨が落ちている。
――第七坑道の星は泣いている。
――空に穴が開き始めている。
――もし俺が忘れたら、この手帳をユノへ。
――あの子の名前だけは、絶対に消させない。
ユノは息を止めた。
「あの子……?」
自分のことだろうか。
でも、なぜ“あの子”なのか。
父なら“ユノ”と書きそうな気がした。
リゼも手帳を覗き込んでいた。
「星の骨……」
「分かるのか?」
「星涙石になる前の欠片。死んだ星の殻よ」
「それが夜空の墓場にある?」
「おそらく」
ガルドは大きく息を吐いた。
「旅立つ前に行くべきだと思った。お前の親父が残した手がかりならな」
「行く」
ユノは即答した。
リゼが頷く。
「私も行くわ」
「私も」
いつの間にかミアが裏口に立っていた。
髪は寝癖で跳ねているのに、目だけはしっかりしていた。
「寝てろよ」
「その言葉、もう聞き飽きた」
ミアは工具袋を肩にかける。
「夜空の墓場って、昔から機械が壊れる場所って言われてる。方位磁針も時計も狂う。私がいた方がいい」
「お前、何でも来る理由にするな」
「実際役に立つから」
ガルドは三人を見て、諦めたように頷いた。
「夜明け前に戻れ。町長の連中が動き始める前にな」
「ガルドは来ないのか?」
「俺は町を見てる。北区の連中がまだ混乱してるからな」
ガルドはユノの肩に手を置いた。
「気をつけろ。夜空の墓場では、自分の名前を声に出し続けろ」
「分かった」
「ふざけるなよ」
「分かってる」
ユノは星涙石と星針盤を懐にしまった。
三人は町の北門へ向かった。
夜のルグナは静かだった。
だが、静かすぎた。
いつもなら酒場から炭鉱夫たちの笑い声が聞こえる。どこかの家から赤ん坊の泣き声が聞こえる。採掘塔の整備をする金属音が響く。
今夜は、それらがほとんどない。
町全体が息を殺している。
誰もが気づいているのだ。
何かが変わってしまったことに。
北区を通る時、ユノはセナの家の前で足を止めた。
窓の奥に小さな灯りが見える。
セナはまだ起きているのだろう。
アルトの名前だけを抱きしめながら。
ユノは小さく呟いた。
「アルト」
リゼが振り返る。
「忘れないため?」
「ああ」
ミアも続けた。
「アルト」
リゼは少しだけ目を伏せたあと、静かに言った。
「アルト」
三人の声は夜の中に消えた。
けれど、消えた名前をもう一度世界へ縫い止めるように、確かに響いた。
町を出ると、山道が続いていた。
黒い岩肌と枯れた草。
炭鉱町の北に広がる荒地は、昔から作物が育たない場所だった。地面には細かな銀色の砂が混ざっていて、月明かりもないのにかすかに光っている。
星針盤の針は、山道の奥を指していた。
「こっちだ」
ユノが歩き出す。
しばらく進むと、空気が変わった。
音が遠くなる。
ルグナの採掘塔の唸りが、少しずつ聞こえなくなっていく。
代わりに、奇妙な音がした。
さらさら。
砂が流れるような音。
でも風は吹いていない。
ミアが腕をさする。
「気持ち悪い……」
「名前」
リゼが短く言った。
ユノは頷いた。
「ユノ」
「ミア」
「リゼ」
三人は歩きながら、それぞれの名前を声に出した。
「ユノ。ミア。リゼ」
「ミア。ユノ。リゼ」
「リゼ。ユノ。ミア」
最初は少し変な感じがした。
けれど進むほど、それが必要だと分かってきた。
頭の中がぼんやりする。
自分がなぜここにいるのか、一瞬分からなくなる。
足元がふわふわして、身体が少しずつ薄くなっていくような感覚。
名前を口にすると、そのたびに自分が戻ってくる。
名前は存在を繋ぐ鎖。
リゼの言葉を、ユノは初めて肌で理解した。
やがて、山道が途切れた。
目の前に広がっていたのは、銀色の荒野だった。
地面一面に、小さな結晶が散らばっている。
それはまるで、夜空が砕けて地上に落ちたような光景だった。
黒い空の下、地面だけが星のように輝いている。
「ここが……」
ミアが息を呑む。
「夜空の墓場」
リゼが静かに言った。
ユノは言葉を失った。
綺麗だった。
恐ろしいほど綺麗だった。
足元に無数の星が眠っている。
けれど、それは生きた光ではない。
どこか冷たく、悲しい光だった。
まるで墓石の灯火。
リゼはしゃがみ、地面の結晶に触れた。
その瞬間、結晶が淡く光った。
「星の骨ね」
「星の死骸か」
「ええ。喰われた星の残骸」
ミアが小さな結晶を拾おうとした。
リゼがすぐに止める。
「触らないで」
「え?」
「星の骨には、死んだ記憶が染み込んでいる。不用意に触れると、他人の記憶に呑まれる」
ミアは慌てて手を引っ込めた。
「先に言ってよ……」
「今言った」
「遅いんだってば」
ユノは星針盤を取り出した。
針は荒野の中央を指している。
そこだけ、他より強く光っていた。
「中心に何かある」
「行きましょう」
三人は慎重に進んだ。
足元の結晶を踏むたび、かすかな声が聞こえた。
知らない誰かの笑い声。
泣き声。
別れの言葉。
子どもを呼ぶ母親の声。
戦場で叫ぶ兵士の声。
愛している、と囁く声。
そして、それらはすぐに消えていく。
星に刻まれた記憶の欠片。
もう誰にも覚えられていない声。
ユノは胸が苦しくなった。
「全部、消えた人たちの記憶なのか」
リゼは頷いた。
「星喰いに喰われた記憶の残響よ」
「戻せないのか」
「完全には」
「完全じゃなくても」
リゼはユノを見た。
「あなたは何でも拾おうとするのね」
「駄目か?」
「駄目ではないわ。ただ、重すぎる」
ユノは足元の光を見た。
確かに重い。
全部を覚えることなんてできない。
全部を救うことなんてできない。
それでも、踏みつけて進むだけでは嫌だった。
「名前が分かれば、呼べるのにな」
ユノが呟くと、リゼは少しだけ黙った。
「魔女は昔、星葬という儀式をしていた」
「星葬?」
「消えた者の名前を星に返す儀式。完全に救うことはできなくても、忘却の闇に沈むのを少しだけ遅らせることができる」
「今もできるのか?」
「……できるかもしれない」
「やろう」
リゼは驚いた顔をした。
「今?」
「今」
「時間がないわ」
「少しだけでいい」
ユノは地面に膝をついた。
ミアも隣に座る。
「私もやる」
リゼはしばらく二人を見ていた。
やがて、静かに息を吐いた。
「本当に、人間は面倒ね」
そう言いながら、彼女は二人の前に立った。
リゼは両手を胸の前で重ねた。
銀色の髪がふわりと浮く。
足元の星の骨が、淡く光り始めた。
リゼの口から、知らない言葉が流れる。
歌だった。
地下の魔女の墓場で聞いた歌に似ていた。
けれど、あの時よりも優しい。
眠れない子どもをなだめるような、失われた誰かを送り出すような歌。
ユノは自然と目を閉じた。
名前は分からない。
顔も知らない。
それでも、声をかけたかった。
「忘れない」
ユノは小さく言った。
「全部は無理でも、ここに誰かがいたことを、俺は忘れない」
ミアも震える声で続けた。
「あなたたちが生きていたことを、なかったことにはしない」
星の骨が一斉に瞬いた。
まるで地面に落ちた夜空が、最後にもう一度だけ輝いたみたいだった。
その光の中に、ユノはたくさんの影を見た。
知らない人々の姿。
家族を抱きしめる母親。
剣を持つ少女。
笑う老人。
手を繋ぐ子どもたち。
そして、その中に。
父の姿があった。
「父さん!」
ユノは立ち上がりかけた。
だが、父の影はすぐに消えた。
代わりに、足元の星針盤が激しく震え始める。
「反応してる!」
ミアが叫ぶ。
針は荒野の中央ではなく、少し外れた岩場を指していた。
そこには、黒い石碑が立っていた。
半分地面に埋もれていて、表面には古い文字が刻まれている。
リゼが近づき、文字を読んだ。
「これは……」
「何て書いてある?」
リゼの表情が硬くなる。
「星を喰らう王の名を、ここに封じる」
ユノの心臓が強く鳴った。
「王の名?」
「でも、肝心の名前が削られている」
石碑の中央には、確かに大きな空白があった。
誰かが削ったというより、そこだけ存在しないように白く抜けている。
名前そのものが喰われたのだ。
ミアが震えた声で言う。
「世界が忘れた最初の名……」
リゼは石碑に触れた。
瞬間、黒い影が石碑の奥から噴き出した。
「リゼ!」
ユノが叫ぶ。
影は蛇のようにリゼの腕へ絡みついた。
リゼは顔を歪める。
「っ……!」
銀色の魔法が走るが、影は消えない。
むしろ、リゼの記憶を吸い取るように黒く脈打った。
「離れろ!」
ユノは星涙石を握りしめ、影に向かって手を伸ばした。
触れた瞬間、頭の中に声が流れ込んだ。
――忘れろ。
低い声。
男とも女ともつかない声。
――名前など不要。
――記憶など不要。
――痛みなど不要。
ユノの視界が歪む。
自分の名前が遠くなる。
ユノ。
ユノ。
何だった。
誰の名前だった。
「ユノ!」
ミアの声がした。
腕を掴まれる。
「ユノ! あんたの名前はユノ!」
その声に、ユノは引き戻された。
「……っ!」
ユノは歯を食いしばり、星涙石を影へ押しつけた。
「忘れるかよ!」
銀色の光が弾けた。
影が悲鳴のような音を立てて砕ける。
リゼの腕から黒い痕が消えた。
彼女は膝をつき、荒く息をした。
「大丈夫か!」
ユノが駆け寄ると、リゼは小さく頷いた。
「……少し、記憶を引っ張られただけ」
「少しって顔じゃない」
リゼの顔は真っ青だった。
ミアがリゼの腕を見て言う。
「痕は消えてる。でも熱い……」
リゼは苦しそうに石碑を見た。
「ここは本当に墓場ね」
「星の?」
「いいえ」
リゼは赤い瞳を細めた。
「星喰いの王の名前を殺した場所」
ユノは石碑を見た。
削られた空白。
そこに本当は、世界を滅ぼそうとしている存在の名が刻まれていた。
「誰が消したんだ」
「分からない。でも、名前を消せば存在を縛れなくなる。星喰いの王は、誰かに名前を隠された」
「味方じゃなくて、敵が?」
「おそらく」
ミアが唇を噛んだ。
「リゼを起こした誰かと同じかも」
その可能性は高かった。
千年前の封印を壊し、星喰いを呼び戻し、王の名前を隠した者。
その存在が、今もどこかで動いている。
ユノは父の手帳を開いた。
最後のページの裏側に、薄い文字があることに気づいた。
さっきは見えなかった。
星涙石の光に照らされ、浮かび上がっている。
――王の名は失われた。
――だが、名の欠片は三つに割れた。
――灰の王国。海底都市。白銀戦線。
――ユノを連れて行け。
――あの子だけが、忘れられた名を聞ける。
ユノは息を呑んだ。
灰の王国。
海底都市。
白銀戦線。
それは、これから向かうべき場所なのか。
リゼも手帳を見て、表情を変えた。
「灰の王国……まだ残っているの?」
「知ってるのか」
「千年前、魔女を裏切った最初の国よ」
ユノは言葉を失った。
ミアが小さく呟く。
「そこに、王の名前の欠片がある……?」
「おそらく」
リゼは空を見上げた。
星のない黒い空。
「旅の目的が増えたわね」
「星涙石を集めて、王の名前の欠片も探す」
「ええ」
ユノは手帳を閉じた。
父は知っていた。
自分に何かがあることを。
星喰いの王の名を聞けるかもしれないことを。
だから手帳を残した。
だからガルドに託した。
胸が熱くなった。
父は死んだのではなく、今も道を示してくれているような気がした。
その時、夜空の墓場の奥で、何かが揺れた。
黒い人影。
三人は身構えた。
影はすぐに消えた。
けれど、その場所に一枚の黒い羽根が落ちていた。
リゼがそれを見て、表情を凍らせる。
「嘘……」
「知ってるのか?」
リゼは震える声で言った。
「千年前、魔女狩りを率いた騎士団の紋章よ」
黒い羽根。
それは、過去の敵がまだ生きている証のように、星の墓場で静かに揺れていた。
ユノは手帳を胸に抱いた。
旅立ちは、もう避けられない。
星涙石を集めるため。
王の名を探すため。
父の残した謎を解くため。
そして、この世界からこれ以上、大切な名前を奪わせないため。
夜空の墓場には、無数の死んだ星が眠っていた。
でもユノには、その光が完全に消えているようには見えなかった。
誰かが覚えている限り。
誰かが名前を呼ぶ限り。
星はまだ、墓の中で微かに息をしている。
ユノは小さく呟いた。
「ユノ」
ミアが続けた。
「ミア」
リゼも静かに言った。
「リゼ」
三人の名前が、星の墓場に響いた。
その瞬間、足元の星の骨が淡く光った。
まるで、忘れるなと応えるように。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ルグナの北にある“夜空の墓場”を描きました。
そこに眠っていたのは、喰われた星の残骸。
そして、忘れられた人々の記憶でした。
ユノたちは、星喰いの王の名前が消されていることを知ります。
さらに、父の手帳から「王の名の欠片」が三つに分かれていることも明らかになりました。
灰の王国。
海底都市。
白銀戦線。
これからの旅で向かうべき場所が、少しずつ見えてきました。
そして最後に現れた黒い羽根。
それは、千年前の魔女狩りと関わる不吉な印です。
次のページは『記憶を失った村』です。
ルグナを旅立ったユノたちは、最初に“誰も自分の過去を覚えていない村”へ辿り着きます。
そこでは、星喰いの恐怖がさらに身近な形で現れることになります。




