第三章への扉
星灯坑の誓いが結ばれました。
名前を守る仕事は、ルグナの町に根を下ろしました。
けれど、世界にはまだ戻らない名があります。
灰の記録庫に残された封名札。
星の泉で見届けるルナエル。
そして、遠い空から届く新しい異変。
このページでは、第二章の終わりと、第三章へ続く扉が開きます。
星灯坑の誓いから、三日が過ぎた。
ルグナの町は、少しだけ新しい日常を覚え始めていた。
朝には、リリアの歌が聞こえる。
黒麦亭では、ルオの日のために大きな鍋が磨かれている。
ダリオの道では、炭鉱夫たちが橋板を直している。
北の丘の墓地には、イオナの花が供えられるようになった。
広場の壁には、ニーナの名に続くように、戻った名や探している名が書かれている。
羽墨屋の姉弟は、メルクとオルの誓いを胸に、星灯坑用の記録筆を作り続けていた。
ミアは記憶灯の小さな分け火を作り、リゼは封名札の分類を続け、カイは子どもたちと名前を呼ぶ練習をしていた。
セレノは星灯坑の奥で、黒翼騎士団と封名札の名簿を書き続けている。
そしてユノは、戻った名前を一つずつ呼びながら、星灯坑の光を確かめていた。
ルグナ。
ネリオ。
ベルフィア。
リリア。
ノア。
ダリオ。
サリア。
メルク。
イオナ。
ファル。
テッサ。
ルオ。
ニーナ。
オル。
セレノ。
ルナエル。
名前は、以前より強く灯っている。
けれど、まだ足りない。
灰の記録庫には、数え切れない封名札が残っている。
星喰いの王の残滓も、完全に消えたわけではない。
世界中には、まだ誰にも呼ばれない町や人や歌がある。
ユノは星灯坑の壁に手を当てた。
「終わってないな」
背後からミアが言った。
「うん。でも、始まったよ」
ユノは振り返る。
ミアは記憶灯を抱えて立っていた。
灯りの中には、リリアの歌の旋律が小さく揺れている。
「前は、終わらせるために旅してた気がする。星喰いを止めるために。でも今は、始めるために歩く感じがする」
「始めるため?」
「名前を戻したあと、その名前がもう一度生きられるようにするため」
ユノは少し笑った。
「ミア、すごいこと言うようになったな」
「ユノに言われたくない」
いつもの返事に、二人は笑った。
その笑い声に、カイが顔を出した。
「二人だけで笑ってる。ずるい」
「ずるくない」
ミアが言うと、カイは木剣を肩に担いだ。
「リゼが呼んでる。星灯坑の奥で、変な光が出てるって」
ユノの表情が変わった。
「変な光?」
「うん。ルナエルの光じゃない。もっと……青白いやつ」
三人はすぐに星灯坑の奥へ向かった。
リゼは記録机の前に立っていた。
セレノもいる。
二人の前には、灰の記録庫から持ち帰った封名札の一枚が浮かんでいた。
まだ開いていない札。
その表面に、青白い光が走っている。
リゼが言った。
「この札だけ、勝手に反応している」
ユノは近づく。
「名前が戻ろうとしてる?」
「分からない。でも、ただの封名札ではないわ」
セレノが低く言った。
「これは王国の札ではない。もっと古い。星図に関わる封印だ」
ミアが記憶灯を近づけると、札の表面に文字が浮かび上がった。
――東の果て。
――眠る星門。
――名を持たぬ塔。
――第三の夜、開く。
カイが眉をひそめる。
「星門?」
リゼの顔が険しくなる。
「古い伝承にある。星の泉よりさらに遠い場所。空に失われた名を繋ぐ門」
ユノは胸騒ぎを覚えた。
「名を持たぬ塔って?」
セレノが答える。
「王国以前の記録に、名前を失った塔の話がある。誰もその塔の名を呼べない。だが、そこには空へ帰れなかった星の名が眠ると」
ミアが息を呑む。
「空へ帰れなかった星の名……」
その時、星灯坑の壁が大きく震えた。
ルナエルの白い光が強くなり、水の文字が浮かぶ。
――ユノ。
――泉からも見えました。
――東の空に、名前のない星が現れています。
ユノは息を止めた。
名前のない星。
星喰いの王が止まったあと、まだ空白のまま残った星なのか。
それとも、新しい異変なのか。
ルナエルの文字は続く。
――あの星は、呼ばれるのを待っています。
――でも、間違った名で呼べば、空の名が崩れるかもしれません。
――気をつけて。
――星門が開く前に、塔の名を探して。
水の文字が消えた。
星灯坑の中は静まり返った。
リゼが記録帳を閉じる。
「第三の夜まで、あまり時間がない」
カイが聞く。
「行くのか?」
ユノは星灯坑の光を見た。
ルグナには、まだ仕事がある。
封名札も残っている。
戻った名前の記録も途中だ。
ネリオも、ベルフィアも、まだ整えなければならない。
けれど、東の果てで星門が開く。
名前のない星が呼ばれるのを待っている。
間違った名で呼べば、空の名が崩れるかもしれない。
これは、放っておけない。
ミアが静かに言った。
「行こう、ユノ」
カイも頷く。
「俺も行く。守る者だから」
リゼはすでに地図を広げている。
「東の果てへ向かう道を調べるわ」
セレノは少し迷ってから言った。
「私はルグナに残る」
ユノは彼を見る。
「セレノ?」
「封名札の記録を止めるわけにはいかない。黒翼騎士団の名簿も途中だ。それに、星灯坑には罪ある名を記録する者が必要だ」
リゼはセレノを見つめた。
「逃げない?」
「逃げない」
セレノは静かに答えた。
「あなたたちが東へ行くなら、私はここで名を守る。ルグナに帰る場所を残す」
リゼは少しだけ頷いた。
「分かったわ」
ミアが言った。
「セレノ、リリアの歌、忘れないでね」
「忘れない」
カイも。
「子どもたちの名前練習も見てて」
「……努力する」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いのあと、ユノは父のところへ向かった。
父は星灯坑の入口で、扉の調整をしていた。
ユノが来ると、すぐに察したように顔を上げた。
「また行くんだな」
「うん」
「今度はどこだ」
「東の果て。星門っていう場所」
父は深く息を吐いた。
「遠そうだな」
「たぶん」
「危なそうだな」
「たぶん」
「帰ってくるんだな」
ユノは頷いた。
「必ず」
父はしばらくユノを見つめた。
それから、小さな袋を渡した。
中には星灯炭の欠片が入っている。
「ルグナの火だ。迷ったら灯せ」
「ありがとう」
父はユノの肩に手を置いた。
「ユノ」
「いる」
「どれだけ遠くへ行っても、帰る名を忘れるな」
「うん」
「ルグナはここにいる」
ユノは胸が熱くなった。
「俺も、ここに帰る」
出発は翌朝と決まった。
その夜、ルグナでは小さな見送りの歌が行われた。
広場に人々が集まり、リリアの歌を歌った。
その歌の間に、今まで戻った名前が呼ばれた。
ネリオ。
ベルフィア。
リリア。
十の星。
セレノ。
ルナエル。
そして、これから探す名。
名を持たぬ塔。
名前のない星。
東の星門。
まだ正式な名ではない。
でも、仮の呼び名として、消えないように声にした。
ハルトがベルフィアの鐘花をユノへ渡した。
「東の果てにも、鐘があるかもしれません」
カイが笑った。
「全部の町に鐘があるわけじゃないだろ」
ハルトは少し笑った。
「でも、名前を知らせるものはあるはずです」
北の丘の老女は柳の葉を渡した。
「戻らない名を急がせないようにね」
黒麦亭の女将は保存食の包みを渡した。
「食べるのを忘れないこと」
カイが真剣に受け取る。
「任せて」
ミアが苦笑した。
「食べる係じゃないよ」
ガルドは道具袋をミアへ渡した。
「修理用だ。変な塔でも壊れてたら使え」
「ありがとう」
セレノはユノへ、小さな写しを渡した。
「灰の記録庫で見つけた古い星門の断片だ。役に立つかもしれない」
ユノは受け取った。
「ありがとう」
セレノは少しだけ目を伏せた。
「帰ってこい。記録することは、まだ山ほどある」
「うん。帰る」
リゼが星灯坑の扉に手を置いた。
「ルグナを頼むわ」
セレノは頷いた。
「任された」
その言葉は、以前のセレノからは想像できないほど静かで、確かだった。
夜、ユノは自分の部屋で荷物をまとめた。
旅に出る前と同じ部屋。
でも、最初の旅とは違う。
あの時は、名前を奪う闇を追っていた。
今度は、名前のない星を探しに行く。
終わらせるためではなく、呼ぶために。
窓の外には星が見えた。
その中に、一つだけ青白く揺れる星があった。
あれが、名前のない星なのだろうか。
ユノは小さく呟いた。
「待ってて」
翌朝、東へ向かう道に四人が立った。
ユノ。
ミア。
リゼ。
カイ。
セレノはルグナに残る。
父も、ガルドも、町の人々も見送っている。
星灯坑の扉は開かれていた。
中の光が、朝の道へこぼれている。
町の人々が名前を呼ぶ。
「ユノ」
「いる」
「ミア」
「いるよ」
「リゼ」
「いるわ」
「カイ」
「いる!」
最後に、全員で言った。
「帰ってこい」
ユノは笑った。
「帰ってくる」
東の空に、青白い星が瞬いた。
第三章への扉が、静かに開く。
ユノたちは歩き出した。
背にはルグナの火。
胸にはリリアの歌。
手には星灯りの剣。
そして、まだ名を持たない星を呼ぶための声。
名前を守る旅人たちの、新しい旅が始まった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
第二章はここで一区切りです。
星灯坑の誓いを終えたユノたちは、今度は東の果てにある“星門”と“名前のない星”へ向かいます。
次のページから第三章が始まります。
次は『東の果てへ』です。




