封名札の夜
灰の記録庫から持ち帰った封名札には、消された名前が眠っていました。
歌い手。
橋守。
産婆。
子ども。
王国に都合が悪いという理由だけで、記録から消された人々。
このページでは、ルグナの星灯坑で、その封名札を一枚ずつ開いていきます。
ルグナへ戻った時、夜はすでに深かった。
町の灯りは少なく、炭鉱へ続く道も静まり返っている。
けれど、星灯坑だけは眠っていなかった。
地の底から、淡い光が漏れている。
まるで、ユノたちが持ち帰った封名札を待っていたかのようだった。
父は坑道の入口で待っていた。
「戻ったな」
「ただいま」
ユノが答えると、父はユノの背負う袋を見た。
「それが、消された名前か」
「うん」
父は袋へ手を伸ばさなかった。
ただ深く頭を下げた。
「よく来た」
それは、袋の中の名に向けた言葉だった。
ユノの胸が熱くなる。
灰の記録庫では、封名札はただの黒い札として並べられていた。
けれど父は、それを名前として迎えた。
星灯坑の奥に、机が用意された。
ミアは記憶灯を中央に置く。
リゼは開示鍵を魔法陣の上に置く。
カイは木剣を胸に当てる。
セレノは名簿を開く。
ユノは星灯りの剣を手首に感じながら、封名札の袋をそっと置いた。
町の人々も数人だけ立ち会った。
黒麦亭の女将。
北の丘の老女。
町長。
炭鉱夫たち。
ハルト。
そしてユノの父。
リゼが静かに言った。
「今夜、すべてを開くことはできないわ」
カイが札の山を見る。
「こんなにあるもんな」
「ええ。一枚ずつ、名の状態を確かめながら開く。無理に戻せば、名が壊れる」
セレノが頷いた。
「封名札は、名前を閉じ込める檻だ。檻を壊すだけでは、中にいる名も傷つく」
ミアが記憶灯を抱えた。
「じゃあ、ゆっくり」
ユノも頷く。
「一つずつ」
最初の札は、リリアの記録と一緒に見つけたものだった。
黒い札には、かすれた文字がある。
――禁歌を記憶した子ども。
――記憶調整対象。
名前は塗りつぶされている。
ミアの顔が青ざめた。
「子ども……」
リゼは慎重に開示鍵を札へ近づける。
札が震えた。
黒い封印が少しだけ緩む。
ユノは星灯りの剣を細く出し、封印の糸を斬った。
ミアの記憶灯が、札の奥を照らす。
カイが小さく言った。
「怖くないよ。名前、戻っておいで」
その声に、札の中から小さな光がこぼれた。
薄い声が聞こえる。
――歌、覚えてる。
――お母さんが歌ってた。
――忘れたくない。
黒い文字が剥がれ落ちる。
札に名前が浮かんだ。
ノア。
町の人々が息を呑んだ。
カイが最初に呼んだ。
「ノア」
ミアも涙を浮かべて言う。
「ノア」
ユノも。
「ノア」
リゼも。
「ノア」
セレノも、低く。
「ノア」
星灯坑の壁に、小さな淡い黄色の光が灯った。
リリアの歌の近くに。
ノアは、リリアの歌を覚えていた子どもだった。
それだけで名を封じられた。
ユノは拳を握った。
怒りが胸に湧く。
だが、その怒りで札を壊してはいけない。
今必要なのは、呼ぶことだ。
リゼが名簿に記録する。
ノア。
禁歌を覚えていた子。
リリアの歌を忘れなかった者。
老女が泣きながら言った。
「リリアの歌を覚えていた子がいたんだね」
ミアは記憶灯を撫でた。
「ノアにも歌、届くかな」
リゼは頷いた。
「届くわ。ここに灯ったから」
次の札は、橋守だった。
――橋守。
――税納拒否を扇動。
――名剥奪。
ユノは札を見つめる。
橋守。
どこの橋だろう。
リゼが開示鍵を当てる。
札の奥から、水の音が聞こえた。
川が荒れている。
橋の上で人々が叫んでいる。
役人が通行税を上げ、村人たちが渡れなくなっている。
一人の男が橋の真ん中に立ち、言う。
――この橋は、民の道だ。王の鎖ではない。
封印が震える。
ユノは糸を斬る。
札に名が浮かぶ。
ダリオ。
町長が低く呼んだ。
「ダリオ」
人々も続く。
「ダリオ」
星灯坑の壁に、青い光が灯った。
ダリオ。
橋守。
民の道を守った者。
カイが小さく言った。
「守る者だ」
ユノは頷いた。
「ああ」
次は産婆の札だった。
――産婆。
――移民記録改ざんを拒否。
――名剥奪。
開示鍵が触れると、札から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
小さな家。
雨の夜。
役人が出生記録を書き換えようとしている。
――この子には、この子の名がある。
――別の名で記録することはできません。
女性の声。
強く、優しい声。
ミアは泣きそうな顔になる。
「この人、赤ちゃんの名前を守ったんだ」
ユノは封印を切る。
札に名が戻った。
サリア。
星灯坑の壁に、温かな橙色の光が灯る。
「サリア」
全員で呼んだ。
その声は、まるで赤ん坊を起こさないように優しかった。
セレノは名簿に書きながら、手を止めた。
「サリア……この名、聞いたことがある」
リゼが見る。
「どこで?」
「王都の古い処罰記録だ。移民の子どもの名を守った女として、誓約官たちが警戒していた」
セレノは目を伏せる。
「私は、その記録をただ読んだだけだった。何も感じずに」
リゼは静かに言った。
「今は?」
セレノはサリアの光を見た。
「痛い」
「なら、書きなさい」
「はい」
セレノは丁寧に記録した。
封名札の夜は、長く続いた。
すべての札を開くことはできない。
それでも、十の名前が戻った。
ノア。
ダリオ。
サリア。
メルク。
イオナ。
ファル。
テッサ。
ルオ。
ニーナ。
オル。
一人ひとりに、消された理由があった。
歌を覚えていた。
橋を守った。
子どもの名を守った。
王の嘘を書かなかった。
墓標を隠さなかった。
封じられた名を呼んだ。
どれも、罪などではなかった。
ただ、名前を守ろうとしただけだった。
なのに消された。
カイは途中で何度も泣いた。
ミアも何度も記憶灯を抱きしめた。
リゼの表情は硬く、セレノの顔は青ざめていた。
ユノも胸の奥に怒りを抱えていた。
でも、その怒りを歌へ変えるように、老女がリリアの歌を歌い始めた。
――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
最初は小さな声だった。
やがてミアが重ねる。
カイが重ねる。
町の人々が重ねる。
セレノも、かすかな声で重ねた。
封名札から戻った光たちが、歌に応えるように揺れた。
ユノは思った。
この歌は、こういう夜のためにあるのだ。
怒りで壊してしまわないように。
悲しみで沈んでしまわないように。
名前を呼ぶ声が、朝を連れてくるように。
夜が更け、リゼが手を止めた。
「今日はここまで」
カイが札の山を見る。
「まだ、こんなにある」
「ええ」
リゼは疲れた声で言った。
「でも、十の名が戻った。それは少なくない」
父が頷いた。
「明日も、その次も続ければいい」
セレノは名簿を閉じた。
「私が記録を続ける」
ユノは彼を見る。
セレノの顔には疲労と苦痛があった。
だが、以前のように逃げる影は薄い。
「大丈夫か」
ユノが聞くと、セレノは少し考えた。
「大丈夫ではない」
「うん」
「だが、逃げない」
リゼが静かに言った。
「それでいいわ」
星灯坑の壁には、新しく十の光が灯っている。
小さな光。
強い光。
震える光。
どれも、戻ったばかりの名前だった。
ユノはその一つ一つを見つめた。
ノア。
ダリオ。
サリア。
まだ会ったこともない人々。
けれど、もう知らない名ではない。
呼んだ名前は、胸に場所を作る。
夜が終わる前、ユノは星灯坑の入口に立った。
外は冷たい。
ルグナの町は眠っている。
けれど地の底では、消された名前たちが光っている。
父が隣に来た。
「重い夜だったな」
「うん」
「これからも続く」
「分かってる」
父は静かに言った。
「それでも、お前はやるんだな」
ユノは星灯坑を振り返った。
「やる」
「なぜ?」
ユノは少し考えた。
「名前が戻った時、そこにいた人が初めて息をしたみたいに見えるから」
父は黙って聞いていた。
「消されたままじゃ、その人はもう一度殺されてるみたいだ。だから、呼ぶ」
父はユノの肩に手を置いた。
「良い答えだ」
ユノは少し照れた。
「そうかな」
「ああ」
父は星灯坑の光を見た。
「ただし、一人で全部やるな」
「分かってる」
「本当に?」
「……できるだけ」
父は小さく笑った。
「それでいい」
坑道の奥から、ミアの声がした。
「ユノー、片付け手伝って!」
カイの声も。
「守る者も眠い!」
リゼが静かに。
「早く戻りなさい」
セレノの低い声も。
「封名札を湿気から守る箱が必要だ」
ユノは笑った。
重い夜だった。
怒りと悲しみで胸がいっぱいになる夜だった。
けれど、一人ではなかった。
名前を呼ぶ声がある。
歌がある。
地に灯る星がある。
ユノはもう一度、戻った十の名を心の中で呼んだ。
ノア。
ダリオ。
サリア。
メルク。
イオナ。
ファル。
テッサ。
ルオ。
ニーナ。
オル。
その名は、もう黒い札の中だけに閉じ込められてはいない。
ルグナの夜に灯っている。
星灯坑の壁で、朝を待っている。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、灰の記録庫から持ち帰った封名札を開きました。
ノア、ダリオ、サリア……。
王国に消された名前たちが、星灯坑に少しずつ戻り始めます。
次のページは『消された者たちの朝』です。
封名札から戻った名前を、ルグナの町が朝の読み上げで迎えます。




