灰の記録庫
リリアの歌は戻りました。
けれど、その歌を封じた者たちの記録は、まだ灰の王都に眠っています。
王国が消した名前。
封じた歌。
記録から消された人々。
ユノたちは、誓約官記録庫へ向かいます。
そこには、星喰いとは別の、人が人の名を奪った歴史が残されていました。
ルグナの朝は、リリアの歌で始まった。
黒麦亭の煙突から白い湯気が上がり、炭鉱へ向かう人々の足音に、低い歌声が混ざっている。
――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
ユノは星灯坑の入口で、その歌を聞いていた。
地の底では、リリアの光が静かに灯っている。
その隣には、ルナエルから届いた水の手紙の光。
そして、まだ増え続ける名前たち。
世界は少しずつ戻っている。
けれど、戻るほどに見えてくるものもあった。
星喰いの王が奪った名前だけではない。
人の手によって消された名前。
王国が都合のために封じた歌。
誓約官たちが記録から削り取った人々。
リリアの封歌印は、その入口だった。
リゼは星灯坑の記録机に、古い地図を広げていた。
「灰の王都の東区画に、誓約官記録庫があるはずよ」
セレノが頷く。
「王家直属の記録所だ。名を与える誓約、名を剥奪する誓約、封歌印、封名印……そういったものが保管されていた」
ミアは顔をしかめた。
「嫌な記録ばっかり」
「ええ」
リゼは静かに答えた。
「でも、そこに消された名の手がかりがある」
カイは木剣を握る。
「また灰の王都か」
ユノは頷いた。
「行こう」
父は黙って聞いていた。
しばらくして、保存食の袋をユノへ渡した。
「気をつけろ」
「うん」
「今回は戦いに行くのではないんだな」
「記録を探しに行く」
「なら、なおさら気をつけろ」
父は真剣だった。
「剣より紙の方が、人を深く傷つけることもある」
その言葉に、セレノが小さく反応した。
「その通りです」
父はセレノを見る。
「あなたも行くのか」
「はい。誓約官記録庫の構造を知っています。私が案内します」
「逃げないためか」
「それもあります」
セレノは低く答えた。
「私が知らなかったふりをしていた記録を、今度は見ます」
父は頷いた。
「なら、見てきなさい」
出発の前、星灯坑で名前を確認した。
「ユノ」
「ミア」
「リゼ」
「カイ」
「セレノ」
五つの名前が地の底に響く。
リリアの歌も少しだけ歌った。
封じられた名を探す旅に、歌は必要だと思ったからだ。
ルグナの人々は、今回は静かに見送った。
灰の王都へ向かう道を、ユノたちは進んだ。
以前より空は軽かった。
星喰いの王が止まったことで、忘却の霧は薄れている。
それでも、灰の王都が近づくにつれ、空気は冷えた。
崩れた城壁。
焼けた塔。
ひび割れた石畳。
誰も住まなくなった区画。
名前が戻り始めても、ここはまだ痛みの中心だった。
ミアが記憶灯を抱きしめる。
「ここ、何回来ても慣れない」
カイも頷く。
「俺も」
セレノは静かに言った。
「慣れない方がいい」
その言葉に、リゼが彼を見る。
セレノは灰の道を見つめていた。
「ここに慣れてしまったから、私は多くのことを見なくなった」
誰もすぐには答えなかった。
王都の東区画は、以前通った王城とは違う雰囲気だった。
戦いの跡は少ない。
しかし、そこには別の冷たさがあった。
整然と並ぶ石造りの建物。
窓のない壁。
扉に刻まれた紋章。
星でも剣でもない。
鎖と筆の紋章。
誓約官の印だった。
セレノが足を止める。
「ここだ」
建物は半壊していたが、地下へ続く階段は残っていた。
入口には、古い封印がかかっている。
リゼが眉を寄せた。
「王家の封印ね」
セレノが前へ出る。
「私の名で開くかもしれない」
彼は扉の前に立った。
「セレノ。黒翼騎士団長。旧王国誓約補佐権限により、記録庫の開示を求める」
扉は反応しない。
セレノは目を伏せた。
「もう、権限は失われたか」
ユノは扉に絡む黒い糸を見た。
「違う。封印が名を拒んでる」
リゼが言った。
「誓約官記録庫は、罪を持つ者の名を拒む構造になっているのかもしれない」
セレノは苦く笑った。
「皮肉だな」
ミアが記憶灯を掲げる。
「じゃあ、別の名前で開こう」
カイが一歩前に出る。
「消された名前を探しに来た者として」
ユノは頷き、扉へ向かって言った。
「ユノ。名を呼ぶ者」
ミアも。
「ミア。記憶灯を守る者」
リゼも。
「リゼ。星詠みの魔女」
カイも。
「カイ。守る者」
セレノは少し遅れて、静かに言った。
「セレノ。罪を忘れぬ者」
扉の紋章が震えた。
鎖と筆の印にひびが入る。
リゼが魔法陣を重ね、ユノが忘却の糸を斬った。
扉は重い音を立てて開いた。
中から、乾いた紙の匂いがした。
地下へ続く階段は暗かった。
ミアの記憶灯がなければ、足元も見えない。
壁には古い棚が並び、巻物や石板が詰め込まれている。
だが、多くは黒く塗りつぶされていた。
記録の中の名前が消されている。
カイが小さく言った。
「ひどいな」
セレノは棚に触れないように見た。
「これは封名処理済みの記録だ」
リゼは一つの巻物を開く。
そこには、文の途中に空白がいくつもあった。
――歌い手■■■、王都広場にて禁歌を披露。
――名の流布を防ぐため、封歌印を実施。
――墓標処理、記録遮断、関係者記憶調整。
ミアの顔が青ざめる。
「リリアだ……」
リゼは唇を噛んだ。
「関係者記憶調整……だから老女も思い出せなかったのね」
ユノの手が震えた。
紙の上の文字。
淡々とした記録。
その冷たさが、剣より恐ろしかった。
リリアの歌を消すことが、ただの処理として書かれている。
セレノはその記録を見つめ、深く息を吐いた。
「私は、この仕組みを知っていた」
リゼが彼を見る。
「関わったの?」
「直接この件ではない。だが、同じような処理を見過ごした」
セレノの声は低かった。
「記録に残れば、正しいことになると思っていた。命令があれば、必要なことだと」
ユノは巻物を閉じた。
「これ、持ち帰ろう」
リゼは頷く。
「ええ。星灯坑に記録する必要がある」
さらに奥へ進むと、記録庫は広くなった。
壁一面に、黒い札が並んでいる。
札には一つずつ、消された名の欠片が封じられているようだった。
リゼが息を呑む。
「封名札……」
カイが聞く。
「どれくらいある?」
誰も答えられなかった。
数え切れないほどあった。
百。
二百。
それ以上。
ミアは記憶灯を震わせた。
「こんなに……」
ユノは札の一つへ近づいた。
黒い札には、薄く文字が浮かんでいる。
――■■■、橋守。
――税納拒否を扇動。
――名剥奪。
別の札。
――■■■、産婆。
――王命による移民記録改ざんを拒否。
――名剥奪。
さらに別の札。
――■■■、子ども。
――禁歌を記憶。
――記憶調整対象。
ミアが息を詰めた。
「子どもまで……」
カイの顔に怒りが浮かぶ。
「こんなの、全部戻さなきゃ駄目だ」
リゼは苦しそうに頷いた。
「ええ。でも一度に解放すれば、名の流れが壊れる。星灯坑へ少しずつ運ぶ必要がある」
セレノが言った。
「封名札を動かすと、記録庫の防衛封印が作動する」
「防衛封印?」
「消された名が外へ出ないようにするための仕組みだ」
ユノは剣を握った。
「壊せるか?」
セレノは首を振る。
「壊すだけならできるかもしれない。だが札も壊れる」
リゼが考え込む。
「では、正式な開示手続きで解除するしかない」
「誓約官の名が必要だ」
セレノは奥の扉を見る。
「最奥に、主任誓約官の記録机があるはずだ。そこに開示鍵がある」
五人はさらに奥へ進んだ。
記録庫の最奥には、円形の部屋があった。
中央に石の机。
その上に、一本の筆が置かれている。
乾いた黒い筆。
壁には、鎖と筆の紋章が大きく刻まれている。
リゼが言った。
「ここが主任誓約官の部屋ね」
机の上には、最後の記録が残っていた。
セレノがそれを読む。
「主任誓約官オルド・ヴェイン。王国崩壊時、封名記録を永久閉鎖。開示権限を自名に封じる」
カイが顔をしかめる。
「つまり、そのオルドって人の名前がないと開かない?」
リゼは頷く。
「そうなるわ」
ミアが机を見る。
「オルド・ヴェインはどこに?」
セレノは壁を見た。
「おそらく、自分の名も封じた」
ユノは机の下に黒い影を見つけた。
星灯りの剣を出す。
「ここに何かある」
机の影から、黒い鎖が伸びている。
その鎖は壁の紋章へ繋がっていた。
そして鎖の中心に、一つの名が封じられている。
オルド・ヴェイン。
主任誓約官。
自分の名を封じ、記録庫ごと沈めた男。
リゼが厳しい顔になる。
「自分の名を鍵にしたのね」
セレノが低く言った。
「卑怯な男だ。だが、彼は自分を正しい記録の守護者だと信じていた」
ユノは言った。
「呼ぶしかない」
ミアが不安そうにする。
「呼んだら、出てくる?」
「たぶん」
リゼが答える。
「主任誓約官の残響が」
カイは木剣を構えた。
「じゃあ、呼ぼう」
ユノは深く息を吸った。
「オルド・ヴェイン」
部屋が震えた。
リゼも呼ぶ。
「オルド・ヴェイン」
ミアも。
「オルド・ヴェイン」
カイも。
「オルド・ヴェイン」
セレノは最後に、苦い顔で呼んだ。
「オルド・ヴェイン」
壁の紋章が黒く光った。
石の机の前に、一人の男の影が現れる。
細い体。
長い衣。
手には黒い筆。
顔は冷たく、目に感情がない。
『記録庫の開示は禁じられている』
声も冷たかった。
ユノは剣を構えた。
「消された名を戻しに来た」
『不要。消された名は、消されるべき名だ』
ミアが怒鳴った。
「そんなわけない!」
『秩序のためだ』
カイが叫ぶ。
「子どもの名前まで消しておいて、秩序って言うな!」
オルドの影は動じない。
『名は力だ。誤った名は民を乱す。歌は反乱を呼ぶ。記録は王のためにある』
リゼの声が冷える。
「記録は、王のためだけにあるものではないわ」
『魔女か。魔女もまた、名を乱す者』
セレノが一歩前に出た。
「オルド」
影がセレノを見る。
『黒翼騎士団長。まだいたのか』
「記録を開け」
『お前も、かつては秩序を守る側だった』
「私は間違えた」
セレノの声は震えていたが、逃げなかった。
「だから、今度は記録を開く側に立つ」
オルドの影が黒い筆を上げた。
『ならば、お前の名も再封する』
黒い文字が空中に走る。
セレノの名へ向かって鎖が伸びる。
リゼが叫ぶ。
「セレノ!」
ユノが剣で鎖を斬る。
ミアの記憶灯が光り、カイが名前を呼ぶ。
「セレノ!」
セレノは踏みとどまった。
「いる!」
その返事が、部屋に響いた。
オルドの影がわずかに揺れる。
『名を返すなど、混乱を招くだけだ』
ユノは言った。
「痛みも戻る。でも、消したままにはしない」
『愚かだ』
「そうかもしれない」
ユノは剣を構え直した。
「でも、名前を消して作る秩序はいらない」
リゼが魔法陣を広げる。
「ユノ、机の鎖を。私が開示式を作る」
ミアが記憶灯を掲げる。
「歌うよ!」
リリアの歌が響いた。
――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
オルドの影が激しく反応した。
『その歌をやめろ!』
カイが叫ぶ。
「やめない!」
セレノも、低く歌に声を重ねた。
ぎこちないが、確かに歌った。
オルドの筆が震える。
ユノは机へ走り、鎖を斬った。
一本。
二本。
三本。
オルドの名を縛っていた鎖が砕ける。
リゼが叫ぶ。
「今!」
全員でその名を呼んだ。
「オルド・ヴェイン!」
影が歪む。
名前を呼ばれたことで、彼もまた記録の中に引き戻された。
ただの権限ではなく、一人の誓約官として。
オルドは初めて苦しそうに顔を歪めた。
『私は……秩序を……』
リゼが言った。
「あなたの名も記録するわ。消された名を消した者として」
ユノが最後の鎖を斬った。
石の机が割れ、中から銀色の鍵が現れる。
開示鍵。
リゼがそれを掴み、封名札の部屋へ向けた。
記録庫全体が震える。
黒い札の封印が、一斉に薄くなった。
解放されたわけではない。
でも、運び出せるようになった。
オルドの影は薄れていく。
『記録が……乱れる……』
ユノは言った。
「乱れたまま隠されるよりいい」
オルドの影は、最後に何かを言いかけた。
だが言葉にならず、黒い紙片となって消えた。
部屋には、開示鍵と、膨大な封名札だけが残った。
ミアは疲れたように座り込んだ。
「本当に嫌な場所……」
カイも頷いた。
「でも、開いた」
セレノは封名札の並ぶ部屋を見た。
「ここからが、本当の仕事だ」
リゼは開示鍵を握りしめる。
「全部を一度に持ち出すのは無理。まずリリア関連の記録、封歌印の記録、それから子どもの封名札を優先しましょう」
ユノは頷いた。
「星灯坑へ運ぶ」
封名札を一つずつ布に包む。
その一枚一枚が、誰かの名前だ。
軽いはずなのに、重かった。
ミアは記憶灯で札を照らし続ける。
カイは小さく名前の欠片を呼ぶ。
リゼは記録を整理する。
セレノは、持ち出す札を選びながら、何度も顔を歪めた。
それでも逃げなかった。
灰の記録庫を出る頃には、夜になっていた。
外の空には星があった。
灰の王都の上にも、星は出る。
ユノは布袋を背負い直した。
中には、消された名の欠片が入っている。
リリアだけではない。
まだ名前に戻れていない多くの人々。
ルグナへ帰ったら、星灯坑で一つずつ呼び戻す。
また長い仕事が始まる。
ユノは空を見上げ、小さく言った。
「帰ろう」
ミアが頷く。
「うん」
カイも。
「帰って、名前を戻そう」
リゼも。
「ええ」
セレノも、静かに言った。
「帰ろう」
その言葉を聞いて、ユノは少しだけ笑った。
セレノが帰ろうと言った。
その変化は小さい。
でも、確かなものだった。
五人は灰の王都を後にした。
背には、封じられた名の記録。
胸には、リリアの歌。
行き先は、地に星の灯る町。
ルグナだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、ユノたちが灰の王都の誓約官記録庫へ入りました。
そこには、王国が人の手で消した名前や封じた歌の記録が残されていました。
主任誓約官オルド・ヴェインの残響を越え、ユノたちは封名札を持ち帰ります。
次のページは『封名札の夜』です。
ルグナへ持ち帰った札から、消された名前を少しずつ呼び戻す夜が始まります。




