泉からの返事
手紙は、星の泉へ届きました。
ネリオのこと。
ベルフィアのこと。
リリアの歌のこと。
そして、戻った名前の裏にある、戻らない時間の痛み。
このページでは、星の泉にいるルナエルから、初めてルグナへ返事が届きます。
星の泉へ手紙を送った翌朝、星灯坑の白い光が強く瞬いた。
最初に気づいたのは、ミアだった。
彼女は記憶灯の調整をするため、誰よりも早く星灯坑へ来ていた。
坑道の奥には、まだ夜の冷たさが残っていた。
壁に灯る名前の星たちは静かだった。
ルグナ。
ネリオ。
ベルフィア。
リリア。
セレノ。
黒翼騎士団の名。
柳音橋。
羽墨屋。
そして、ルナエル。
その白い光だけが、何度も震えていた。
「ユノ!」
ミアは慌てて外へ駆け出した。
朝食の途中だったユノたちは、ミアの声にすぐ立ち上がった。
父が真っ先に言う。
「慌てるな。何があった」
「ルナエルの光が変!」
その言葉で、ユノの胸が跳ねた。
リゼもすぐに記録帳を抱え、カイは木剣を持つ。
セレノも名簿を書く手を止めた。
「泉から何か来たのかもしれない」
リゼが言った。
星灯坑へ入ると、確かに白い光が強くなっていた。
壁のルナエルの名から、細い水のような光が垂れている。
それは床に落ちず、空中で小さな雫になって揺れていた。
ミアが息を呑む。
「手紙……?」
リゼは慎重に近づいた。
「星の泉の水だわ。記録を含んでいる」
ユノは白い雫を見つめた。
水の中に、小さな文字が浮かんでいる。
けれど、まだ読めない。
「開けられるか?」
リゼは頷いた。
「ルナエルの名を呼んで。受け取る側の声が必要よ」
ユノは深く息を吸った。
「ルナエル」
ミアも続ける。
「ルナエル」
カイも。
「ルナエル」
リゼも。
「ルナエル」
セレノも、静かに。
「ルナエル」
父も、星灯坑の入口から呼んだ。
「ルナエル」
白い雫が震え、光の紙へ変わった。
水でできた手紙。
その上に、淡い文字が浮かび上がる。
ユノはゆっくり読み始めた。
――ユノへ。
――ミアへ。
――リゼへ。
――カイへ。
――セレノへ。
――ルグナで僕の名を呼んでくれた人たちへ。
星灯坑が静まり返った。
ルナエルの返事。
彼自身の言葉。
ユノは続きを読んだ。
――手紙、届きました。
――ネリオのことを読みました。
――ベルフィアの鐘のことを読みました。
――リリアの歌を聞きました。
文字が一度揺れた。
まるで、書いた本人がそこで泣いたように。
――僕は、たくさんの名前を奪いました。
――戻った名前があると知って、嬉しいと言っていいのか分かりません。
――でも、戻らない時間があると知って、胸が痛くなりました。
カイは木剣を握りしめた。
セレノは目を伏せた。
ユノは読み続ける。
――ネリオへ。
――僕は、あなたを奪いました。
――カイが帰るまでの時間を奪いました。
――ごめんなさい。
カイの肩が震えた。
でも、彼は逃げなかった。
白い手紙をまっすぐ見ている。
――ベルフィアへ。
――僕は、鐘の音を沈めました。
――町の名を空白にしました。
――ごめんなさい。
ハルトがその場にいたなら、どう受け止めただろう。
ユノは思った。
伝えなければならない。
――リリアへ。
――僕は、あなたの歌まで眠らせようとした世界の側にいました。
――あなたの歌を聞きました。
――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。
――僕は、その朝を奪った者です。
――それでも、歌を聞きました。
――逃げないために。
ミアが涙を拭った。
リゼは唇を結んでいる。
手紙はさらに続いた。
――ユノ。
――僕はまだ泉から出られません。
――出ていいのかも、分かりません。
――でも、泉の中から見届けます。
――戻った名前を教えてください。
――戻らない時間も教えてください。
――僕が、僕の罪を王の影に隠さないように。
ユノは息を詰めた。
ルナエルは、変わっている。
救われたわけではない。
許されたわけでもない。
でも、自分の罪を自分の名前で見ようとしている。
――カイ。
――あなたが僕を許さなくてもいいです。
――でも、ネリオの栗の木のことを教えてくれてありがとう。
――僕は、その木を泉の水に映しました。
――忘れないように。
カイは涙をこぼした。
「……勝手に忘れるなよ」
その声は怒りにも似ていた。
でも、完全な拒絶ではなかった。
――ミア。
――リリアの歌を届けてくれてありがとう。
――記憶灯の火は、泉の中でも温かかったです。
――僕は、温かいものがまだ怖いです。
――でも、怖いまま聞きました。
ミアは小さく言った。
「うん。それでいいよ」
――リゼ。
――名を持つ者として、罪から逃げないで、と書いてくれました。
――その言葉は痛かったです。
――でも、必要でした。
――僕は逃げない努力をします。
リゼは静かに目を閉じた。
――セレノ。
――あなたも逃げない努力をしていると読みました。
――僕もします。
――罪を持つ者同士、許し合うことはできないかもしれません。
――でも、逃げないことは一緒にできます。
セレノの手が震えた。
彼は低く呟いた。
「ルナエル……」
最後の一文が浮かぶ。
――ルグナの人たちへ。
――僕の名を呼んでくれて、ありがとうございます、とはまだ言えません。
――でも、届いています。
――僕はここにいます。
――ルナエル。
水の手紙は、そこで静かに光った。
誰もすぐには話せなかった。
星灯坑の中で、たくさんの名前の光が揺れている。
その中で、ルナエルの白い光は、昨日より少しだけ強く、少しだけ安定して見えた。
カイが最初に口を開いた。
「俺、まだ許さない」
ユノは頷いた。
「ああ」
「でも、返事は読んだ」
カイは白い手紙を見た。
「ネリオの栗の木を忘れないなら、俺もそのことは覚えておく」
ミアが涙ぐみながら笑った。
「カイらしい」
カイは照れたように目を逸らした。
リゼは水の手紙を記録帳に写し始めた。
「この返事も、星灯坑に残しましょう」
セレノが頷いた。
「罪を見届ける記録として」
父は静かに言った。
「広場でも読むか」
ユノは少し迷った。
ルナエルの言葉は重い。
町の人々がどう受け止めるか分からない。
でも、隠すべきではない。
「読む」
ユノは答えた。
「ルナエルが見届けるって言ったなら、俺たちも隠さず伝える」
その日の夕方、ルグナの広場に人々が集まった。
いつもの名前の読み上げとは違う空気だった。
ユノは水の手紙を手に立った。
隣にはミア、リゼ、カイ、セレノ。
父は少し後ろにいる。
ハルトも来ていた。
北の丘の老女も。
黒麦亭の女将も。
羽墨屋の姉弟も。
ユノは深く息を吸い、手紙を読み上げた。
ネリオへの謝罪。
ベルフィアへの謝罪。
リリアの歌を聞いたこと。
逃げない努力をするという言葉。
町の人々は静かに聞いていた。
ある者は眉をひそめた。
ある者は涙を浮かべた。
ある者は腕を組み、何も言わなかった。
すべての反応が正しかった。
許せない人がいていい。
受け止めきれない人がいていい。
それでも、言葉は届いた。
読み終えると、広場は長く静まり返った。
やがて、ハルトが言った。
「ベルフィアは戻りました。でも、町の人たちは戻りません」
彼の声は震えていた。
「私は、すぐにルナエルを許すことはできません。でも……鐘の音を覚えていると言うなら、そのことは覚えます」
老女も言った。
「リリアの歌を聞いたなら、忘れるんじゃないよ」
黒麦亭の女将が腕を組んで言った。
「ありがとうはまだ言えない、ってところは正直でいいね」
少しだけ、広場に苦い笑いが起きた。
町長が静かに言った。
「なら、この手紙も星灯坑に預けよう」
人々は頷いた。
ユノは手紙を星灯坑へ運んだ。
全員でルナエルの名を呼ぶ。
「ルナエル」
白い光が応える。
水の手紙は、星灯坑の壁に染み込み、ルナエルの名の隣に新しい光として灯った。
泉からの返事。
それは、許しの証ではない。
でも、逃げないという証だった。
夜、ユノは星灯坑に一人残った。
白い光を見つめる。
「ルナエル」
光が揺れる。
声は聞こえない。
けれど、いる。
ユノは小さく言った。
「また送る。戻った名前のこと」
白い光が、静かに瞬いた。
まるで、待っていると答えるように。
ユノは胸に手を当てた。
名前を守る旅は、地上を歩くだけではなくなった。
泉にいるルナエルへ伝えることも、その一部になった。
罪を見届ける者。
名を呼ぶ者。
歌う者。
記録する者。
守る者。
それぞれが、それぞれの場所で名前を守っている。
星灯坑の白い光を見つめながら、ユノは静かに自分の名を呼んだ。
「ユノ」
坑道の入口から、ミアの声がした。
「いるよ」
ユノは振り返って笑った。
「ああ。いる」
地の星が、夜の中で静かに灯っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、星の泉にいるルナエルから返事が届きました。
謝罪。
見届ける覚悟。
逃げない努力。
許しではなく、忘れないための返事です。
次のページは『灰の記録庫』です。
リリアの封歌印を手がかりに、ユノたちは王都の誓約官記録庫へ向かいます。




