消えた墓標
墓標は、そこに誰かが生きていた証でした。
けれど、名前を奪われた墓は、ただの石になってしまいます。
北の丘の墓地で、ユノたちはいくつもの名を取り戻しました。
しかし、その奥には、どうしても名前が戻らない墓標が残っていました。
このページでは、深い忘却に沈んだ墓標と、その名を呼ぼうとする人々の姿を描きます。
北の丘の墓地には、朝霧が降りていた。
ルグナの町から少し離れた丘の上。
低い石垣に囲まれたその場所には、古い墓標がいくつも並んでいる。
前の日、ユノたちは十の墓の名を取り戻した。
マイラ。
トーヴ。
エン。
リシャ。
ほかにも、忘れられかけていた名がいくつも戻った。
その名は星灯坑に記録され、広場で呼ばれ、町の人々の胸へ戻り始めている。
けれど、すべてが戻ったわけではなかった。
墓地の一番奥。
古い柳の木の下に、ひとつだけ黒ずんだ墓標が残っていた。
そこには名前がない。
削られたのではない。
風化したのでもない。
最初から存在しなかったかのように、墓標そのものが名前を拒んでいた。
ユノはその前に立った。
胸の奥が、冷える。
「ここだけ、違うな」
ミアが記憶灯を抱えながら頷く。
「うん。嫌な感じがする」
カイは木剣を握った。
「王の残り?」
リゼは墓標に触れない距離で膝をついた。
「星喰いの王の残滓だけではないわ。これは……誰かが意図的に名を消した痕跡」
ユノは眉を寄せる。
「意図的に?」
「ええ。星喰いに喰われただけなら、名の欠片が周囲に散る。でも、この墓標は名の欠片ごと封じられている」
セレノも一緒に来ていた。
星灯坑の仕事を離れ、黒翼騎士団の名簿を一時リゼに預けている。
彼は墓標を見て、表情を硬くした。
「封名の印に似ている」
リゼが彼を見る。
「黒翼が使ったもの?」
「近い。だが、これはもっと古い」
セレノは墓標の周囲を見た。
「王家の誓約官が使ったものかもしれない。都合の悪い死者を、記録から消すために」
ミアが怒った顔をする。
「死んだ後まで名前を消すの?」
セレノは目を伏せた。
「王国は、そういうことをした」
その声には、自分もその仕組みに関わったという苦さがあった。
ユノは墓標を見つめた。
名を消された死者。
星喰いに奪われたのではなく、人の手で消された名。
それは、また別の痛みだった。
リゼは言った。
「無理に開くのは危険よ。墓標そのものが壊れるかもしれない」
「でも、このままにはできない」
カイが言った。
「名前がない墓って、寂しすぎる」
ミアも頷いた。
「誰かがここに眠ってるのに、誰か分からないなんて」
ユノは深く息を吸った。
「手がかりを探そう」
墓標の周囲を調べると、柳の根元に小さな石片が埋まっていた。
ガルドが持たせてくれた小さな工具で、カイが慎重に掘り出す。
石片には、文字の一部が残っていた。
――リ。
たった一文字。
ミアが覗き込む。
「リ……名前の一部かな」
リゼが石片に魔法をかける。
白い光が浮かぶが、すぐに黒い影に飲まれる。
「封じが強い。これ以上はここでは難しい」
セレノが静かに言った。
「星灯坑へ持ち帰れば、地の火で支えられるかもしれない」
ユノは墓標を見た。
「墓ごと持っていくわけにはいかない」
「石片だけでも、名の欠片になる」
カイは石片を大事に布へ包んだ。
「この人も、星灯坑に預けよう」
その時、丘の下から誰かが歩いてくるのが見えた。
年老いた女性だった。
杖をつき、ゆっくり墓地へ上がってくる。
ユノの父も一緒にいる。
「ユノ」
父が声をかけた。
「この方が、墓地の古い話を知っているらしい」
老女は墓標を見ると、顔を強張らせた。
「まだ、そこにあったのかい」
ユノは聞いた。
「この墓を知ってるんですか?」
老女は震える手で杖を握る。
「知ってる、とは言えないね。誰も知ってはいけない墓だと言われていたから」
リゼが静かに問う。
「誰に?」
「昔の役人さ。王都から来た役人。もう何十年も前の話だよ」
老女は墓標を見つめた。
「私が子どもの頃、この墓には花を供える人がいた。若い男だった。いつも夜明けに来て、名前を呼ぼうとして、呼べずに泣いていた」
ミアが息を呑む。
「名前を呼べなかった?」
「そうさ。口を開いても、声が出ないみたいだった。ある日、その人も来なくなった。墓の名も、誰の墓かも、みんな忘れた」
ユノの胸が重くなる。
名前を消され、呼ぼうとした人も失われた墓。
老女は続けた。
「でも、一つだけ覚えている。若い男は、いつもこの墓の前で歌を口ずさんでいた」
「歌?」
「歌詞は忘れた。でも、最後にこう言っていた気がする」
老女は目を閉じ、記憶を探った。
「……リ……リオ……いや、違う。リ……リア……?」
墓標がかすかに震えた。
リゼが鋭く顔を上げる。
「反応した」
ユノは墓標へ向き直る。
「リア?」
墓標の表面に、黒いひびが入った。
しかし、すぐに影が広がり、文字を飲み込む。
ミアが記憶灯を掲げた。
「もう少し!」
老女は涙を浮かべた。
「思い出せないんだよ。こんなに近くにあるのに」
カイが優しく言った。
「無理しなくていい。でも、歌の感じは?」
老女は小さく歌い始めた。
途切れ途切れの旋律。
言葉はない。
けれど、どこか懐かしい響きだった。
墓地の霧が揺れる。
墓標の周囲に、淡い光が浮かび始めた。
ユノは星灯りの剣を呼び出す。
墓標に絡みついた黒い鎖が見えた。
太く、古い鎖。
星喰いの残滓ではなく、人の手でかけられた封名の鎖。
「斬れるか?」
リゼが聞く。
ユノは剣を握った。
「やってみる」
セレノが低く言った。
「待て。封名の鎖は、名を守る者ごと傷つけることがある」
「どういうこと?」
ミアが聞く。
「名を呼ぼうとする者の記憶を奪う。昔、その若い男が名前を呼べなかったのも、そのせいだろう」
ユノは唇を噛んだ。
斬れば、自分の中の名前が揺らぐかもしれない。
だが、放っておくことはできない。
カイが一歩前に出た。
「俺も呼ぶ」
ミアも。
「私も」
リゼも。
「私が支えるわ」
セレノは少し黙り、それから言った。
「私も封名の構造を抑える。逃げない」
ユノは頷いた。
「じゃあ、全員で」
老女の歌が続く。
弱い声。
けれど、墓標の奥に届いている。
ユノは剣を構えた。
「リア」
墓標が震える。
ミアも呼ぶ。
「リア」
カイも。
「リア」
リゼも。
「リア」
セレノも、低く。
「リア」
その名が正しいかは分からない。
でも、墓標は反応している。
ユノは星灯りの剣を振った。
黒い鎖の一本を斬る。
墓地に冷たい風が吹いた。
ユノの頭の中から、いくつかの名前が遠ざかりかける。
ルグナ。
ミア。
カイ。
すぐに声が響いた。
「ユノ!」
ミア。
「ユノ!」
カイ。
「ユノ!」
リゼ。
「ユノ」
父。
「ユノ」
セレノ。
名前が戻る。
ユノは歯を食いしばり、二本目の鎖を斬った。
墓標に文字が浮かぶ。
リ……ア。
間に文字がある。
リゼが叫ぶ。
「もう少し!」
老女が泣きながら歌う。
その旋律に、言葉が戻り始める。
「リ……リア……リリア……!」
墓標が強く光った。
ユノは最後の鎖を斬った。
黒い封名の印が砕け散る。
墓標に名前が浮かび上がった。
リリア。
老女が膝をついた。
「リリア……そうだ……リリア……」
墓地の柳が大きく揺れる。
墓標の前に、淡い影が現れた。
若い女性の影。
優しそうな顔。
その胸には、小さな花束が抱かれている。
彼女は何も言わない。
ただ、墓標の名が戻ったことに安堵しているようだった。
老女は涙を流した。
「あなたは……誰だったんだい……」
リリアの影は、柳の木の下を指差した。
そこには、もう一つ小さな石が埋まっていた。
カイが掘り出す。
小さな石板。
そこには、短い言葉が刻まれていた。
――リリア。
――名を奪われた歌い手。
――それでも、朝を歌った人。
ミアが涙をこぼした。
「歌い手……」
リゼは険しい顔で石板を見る。
「王都の役人が消した名。おそらく、王への批判や、消された誰かを歌った人だったのでしょう」
セレノが低く言う。
「王国は、歌を恐れた。名を広げる力があるから」
リリアの影は、ユノたちを見た。
そして、声にならない歌を残して、光へ溶けた。
墓標には、はっきりと名が残っていた。
リリア。
ユノは深く息を吐いた。
危なかった。
けれど、戻った。
老女は墓標に手を合わせた。
「リリア。ごめんよ、忘れていて」
ユノは静かに言った。
「これから呼べます」
老女は頷いた。
「呼ぶよ。毎朝、ここへ来て」
父が言った。
「ルグナの広場でも呼ぼう」
リゼも頷く。
「星灯坑にも記録するわ」
セレノは墓標を見つめていた。
「封じた者の記録も探すべきだ」
ユノは彼を見る。
「王都に?」
「おそらく。誓約官の記録に残っているかもしれない」
リゼの表情が硬くなる。
「また灰の王都へ戻る必要があるかもしれないわね」
ミアが小さくため息をつく。
「また……」
カイが木剣を握る。
「でも、リリアみたいに消された名前が他にもあるかもしれない」
ユノは頷いた。
星灯りの仕事は、さらに深くなっていく。
星喰いの王に奪われた名だけではない。
人間が消した名。
都合が悪いから封じられた名。
誰かに呼ばれないようにされた名。
それらも、戻す必要がある。
夕方、リリアの墓標に黄色い花が供えられた。
ベルフィアから持ち帰った鐘花だった。
ミアがそっと置いた。
「歌い手さんなら、花が似合うと思って」
老女は微笑んだ。
「ありがとう」
ユノたちは墓地を後にした。
丘を下りる時、風に乗って歌が聞こえた気がした。
リリアの歌。
朝を歌った人の歌。
ユノは振り返った。
柳の下の墓標には、もう空白はなかった。
名前がある。
リリア。
その名は、夕暮れの光の中で静かに輝いていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、北の丘の墓地に残った“名前のない墓標”の名が戻りました。
リリア。
名を奪われた歌い手。
それでも朝を歌った人。
星喰いではなく、人の手によって消された名前もあることが分かりました。
次のページは『封じられた歌』です。
リリアがなぜ名を消されたのか、その歌に隠された真実を探ります。




