黒翼騎士団の名簿
名前を記録することは、ただ文字を書くことではありません。
その人がいたこと。
何を守ろうとしたのか。
どこで迷い、どこで折れたのか。
セレノは星灯坑で、黒翼騎士団の名を思い出し始めます。
これは、許されるためではなく、忘れないための記録です。
星灯坑の奥に、小さな机が置かれた。
ユノの父が炭鉱の古い作業台を運び、ガルドが脚を直し、ミアが小さな灯りを取り付けた。
その机の上には、厚い名簿が置かれている。
黒翼騎士団の名簿。
まだ、ほとんど白紙だった。
セレノはその前に座っていた。
灰色の外套をまとい、手には黒ではなく、ルグナの炭で作った筆を持っている。
リゼは向かいに座り、記録を補助するための魔法陣を広げていた。
ユノ、ミア、カイは少し離れた場所で見守っている。
星灯坑の壁には、灰色の光がいくつも揺れていた。
黒翼騎士団の名。
まだ形にならない名。
呼ばれるのを待っている名。
セレノが思い出すことを、待っている名。
セレノは長い間、筆を動かせなかった。
リゼが静かに呼ぶ。
「セレノ」
「……いる」
「急がなくていいわ」
「急がなければ、逃げそうになる」
セレノはかすれた声で言った。
「だから、今書く」
彼は名簿の最初の行に、ゆっくり文字を書いた。
アデル。
その名が書かれた瞬間、星灯坑の壁に淡い光が灯った。
セレノは息を呑む。
「アデル。黒翼騎士団、副長。短気で、よく私に噛みついた。だが、誰よりも部下を見ていた」
リゼが静かに記録する。
「最期は?」
セレノの手が止まる。
顔が歪む。
「灰の王都、南門。魔女の避難路を守るために残った。私は撤退を命じたが、彼は従わなかった」
セレノの声が震えた。
「私は、彼を置いていった」
名簿の上に、一滴の涙が落ちた。
星灯坑の光が揺れる。
ユノは胸が痛んだ。
この記録は、セレノにとって罰に近い。
でも、必要な罰だった。
リゼは目を逸らさなかった。
「次を」
セレノは頷いた。
次の名を書く。
ロウ。
「ロウ。弓兵。寡黙な男だった。言葉は少ないが、合図を一度も見逃さなかった」
壁に小さな青い光が灯る。
「彼は?」
「黒翼の祭壇で、名を失った。私が……忘却を使った」
ミアが息を呑む。
セレノは筆を握りしめた。
「救うつもりだった。痛みを消すつもりだった。だが、私は彼の名を奪った」
リゼは静かに言った。
「書きなさい」
セレノは頷き、名簿へ記した。
忘却に沈めた。
セレノの手によって。
その文字が書かれると、青い光は少し強くなった。
責めるようでも、許すようでもなかった。
ただ、ロウという名がそこに戻った。
次はミルザ。
若い騎士。
料理が下手で、いつも焦がした鍋を作っていた。
恐怖を隠すためによく笑った。
セレノはその名を書く途中で、何度も手を止めた。
それでも書いた。
ミルザ。
星灯坑の壁に、橙色の光が灯る。
カイが小さく言った。
「名前って、書くと人が見えるんだな」
ユノは頷いた。
「ああ」
ただの騎士団ではない。
ただの敵ではない。
それぞれ名前があり、癖があり、怖さがあり、守りたいものがあった。
セレノはそれを忘却に沈めようとした。
だから今、思い出さなければならない。
何時間もかけて、名簿には少しずつ名前が増えていった。
アデル。
ロウ。
ミルザ。
カーナ。
ヘルク。
ジオ。
リーヴ。
トルファ。
ノエ。
サディル。
一人ひとりに、短い記録が添えられる。
好きだったもの。
守ろうとしたもの。
失われた場所。
セレノが覚えている最後の姿。
途中、セレノは何度も声を失った。
そのたび、リゼが名を呼んだ。
「セレノ」
「いる」
ミアも呼んだ。
「セレノ」
「いる」
カイも。
「セレノ」
「……いる」
ユノも。
「セレノ」
「いる」
その声が、セレノを記録へ戻した。
夕方、名簿の一ページ目が埋まった。
セレノは筆を置いた。
「まだ、思い出せない名がある」
リゼは頷いた。
「これから呼び続ければいい」
「思い出せなかった者たちは、私を恨むだろう」
「恨まれても、呼ぶの」
セレノは目を伏せた。
「そうだな」
その時、星灯坑の奥から風が吹いた。
壁に灯った騎士たちの光が、ひとつずつ瞬く。
まるで、名簿に記されたことを確認しているようだった。
アデルの光が強く光った。
セレノは息を呑む。
その光の中に、騎士の影が浮かぶ。
大柄な男。
鋭い目。
けれど、口元には皮肉な笑みがある。
『団長』
声が響いた。
セレノは立ち上がった。
「アデル……」
『ようやく書いたか。遅い』
その声は厳しかった。
けれど、完全な怒りだけではない。
セレノは深く頭を下げた。
「すまない」
『謝って済むか』
「済まない」
『なら、書け。全員分だ』
セレノは顔を上げた。
アデルの影は腕を組んでいる。
『忘れるな。俺たちは、忘れられるために剣を取ったんじゃない』
「分かっている」
『本当に?』
「これから、分かり続ける」
アデルはしばらくセレノを見ていた。
やがて、ふっと笑った。
『なら、逃げるなよ。団長』
その言葉を残し、影は光へ戻った。
セレノはその場に崩れるように座り込んだ。
リゼは彼を見つめていた。
「呼び戻せたわね」
「責められた」
「当然でしょう」
「……ああ」
セレノの声は苦しそうだった。
だが、その奥に、ほんの少しだけ安堵もあった。
責められることすら、彼には必要だったのかもしれない。
忘却では、誰にも責められない。
けれどそれは、誰も覚えていないということだ。
アデルは責めた。
つまり、戻ったのだ。
名を持つ者として。
夜、ルグナの広場で、黒翼騎士団の名が読み上げられた。
町の人々は戸惑いながらも、その名を呼んだ。
アデル。
ロウ。
ミルザ。
カーナ。
ヘルク。
セレノは広場の端で立っていた。
逃げないように。
ひとつひとつの名を聞くたび、彼は目を閉じた。
リゼはその隣にいた。
許したわけではない。
でも、立ち会っていた。
ユノは広場の真ん中で思った。
これもまた、戻った名と戻らない時間の一つだ。
黒翼騎士団は戻らない。
彼らの死や痛みは消えない。
けれど名簿が作られ、名が呼ばれた。
それは、彼らがただ忘却に沈められることを拒む光だった。
読み上げの最後、セレノ自身が前へ出た。
町の人々は静かになった。
セレノは名簿を胸に抱え、深く頭を下げた。
「私は、彼らを守れませんでした。忘却へ沈めようとしました。これは許しを求める言葉ではありません。ただ、彼らの名を、私がこれからも呼び続けると誓います」
誰も拍手しなかった。
それでよかった。
これは称賛される場ではない。
沈黙の中で、父が静かに言った。
「なら、明日も書きなさい」
セレノは頷いた。
「はい」
リゼが小さく言った。
「セレノ」
セレノは答えた。
「いる」
その返事を、星灯坑の光が受け止めた。
翌日も、名簿作りは続く。
その翌日も。
思い出すたびに痛む。
書くたびに罪が形になる。
けれど、名前は戻る。
黒翼騎士団の名簿は、少しずつ白紙を失い、光を増やしていった。
ユノはその名簿を見ながら、胸の中で静かに思った。
名前を守る旅は、こういう作業の積み重ねなのだ。
剣を振るう瞬間だけではない。
泣きながら書くこと。
責められても逃げないこと。
忘れないために、同じ名を何度も呼ぶこと。
それもまた、戦いだった。
地に灯る星は、今日も一つ増えた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このページでは、セレノが黒翼騎士団の名簿を作り始めました。
名を書くことは、罪と向き合うこと。
忘れたふりをしないこと。
アデルの残響も現れ、セレノに「逃げるな」と告げました。
次のページは『星灯りの仕事』です。
ユノたちは、名前を守るための新しい役目をルグナで形にしていきます。




